『Our Life in a Day』 by ジェイミー・フューワリー 訳 藍(2020年09月07日~2022年04月05日)

例によって、Amazonで(最初の数ページを)立ち読みというか、試し読みしていて、藍らしい感じの小説を見つけました! 藍の目が最初の1ページでスルーできなかった、放っておけなかった作品です。
アマゾン川の澄んだ水面を凝視しながら、色々な熱帯魚が通り過ぎるのを眺めていて、あ、この魚いいな、藍に合いそう! と恋に落ちた💙という感じです。👈どんな感じだよ!!笑
これもまた素敵な出会いになればいいな、と思います。
2017年に『ダッシュとリリーの冒険の書』(レイチェル・コーンとデイヴィッド・レヴィサンの二人の共著)をAmazonで見つけて、藍のライフスタイルは(あるいは藍の人生は)、劇的に変わったから、今回もそんな感じになればいいな、と。
『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』(レイチェル・コーン著)は2019年に発表された作品なんですよ。『19曲のラブソング』(デイヴィッド・レヴィサン著)も2019年か2020年です。
つまり、レイチェル・コーンの新作に「東京」という日本の地名が入っているのを見た時は、かなりびっくりしました!!!
レイチェル・コーンがエゴサでもしている時に、たまたま藍のブログを見てくれて、「日本について書こう!」と思い立ったんじゃないかと、勝手に想像を膨らませちゃったくらい、奇跡的な縁を感じました。
もちろん、『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』と『19曲のラブソング』も訳し続けるので、トリプル(三つ平行)になります。三つも同時に読ませちゃって、すみませんm(__)m
読書の秋ですし...
目安としては、
火、水:エルちゃん
木、金:めぐる人生
土、日:テイラー・スウィフト👈この話も、とっても藍らしい感じなんですよ! ブログをめぐる話だし、藍も音楽がないと生きていけないくらい、音楽中毒なので(^^♪
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〈登場人物の紹介〉
トム・マーレイ:ちょっと間が抜けてる、こじらせ男。カバーバンドを組むミュージシャンで、ピアノ講師。ぼさぼさのモップみたいな茶色の髪で、灰色が混じった短い口ひげを生やしている。(それっぽい写真を探していたら、ジョン・レノンに行き当たった👇)
エズミー・サイモン:トムの恋人。言語療法士。大きな瞳、薄い唇、茶色の髪(ピクシーカット👇)
アナベル:トムの幼なじみ。トムとエズミーを引き合わせた人。
アリ:トムとエズミーが出会ったパーティーの主催者。
メム:DJ。
アングリー・マット:エズミーの元カレ。ハードロック・バンドのドラマー。
タンジー:トムの元カノ。

今後、折に触れて情報を付け足していきます。
【2020年9月18日の感想】
頭の感覚が新鮮✨✨
この小説の斬新さは、10年後がわかっている、ということですね!
誰と誰がくっつくのか?とか、死んじゃうんじゃないか?とか、そういう読み進みながら当然浮かぶはずのクエスチョンマークが浮かばない。(ただ、普通なら浮かばないクエスチョンマークが浮かんじゃうけど...笑)
【チャプター 1の感想】(2020年9月24日)
いつか新婚旅行でロンドンに行ったら、トムとエズミーが歩いた〈セント・マーティンズ通り〉を、手をつないで歩こう!👈相手がいないだろ!爆笑

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プロローグ
今夜はまだだろうと油断していた。トムは明日が特別な日になるだろうと思っていた。明日は6月21日。トムとエズミーが10年前に出会った日だ。あれは真夜中過ぎだったな、出会ったばかりのエズミーと、初夏のロンドンの静まり返った道を並んで歩きながら、一緒に家に帰った夜が思い出される。
西ハムステッドにある共同住宅に帰り着き、トムが玄関のドアを開けると、紙吹雪が舞った。エズミーが仕掛けたんだな、とすぐにわかった。部屋中いたるところに彼女の犯行を示す証拠が残っていたから。この紙吹雪は、二人で回し読みした本を細かく切り刻んで作ったのだろう。それをドアフレームの上に挟んでおいて、彼が中に入ろうとドアを開けた瞬間に、無数の紙吹雪がはらはらと頭上から舞い落ちてくる仕組みだった。それから、何百枚もの写真が目に入ってきた。茶色のひもを廊下の天井に斜めにかけて、万国旗を並べて吊るすみたいに、10年分の写真を木製の洗濯ばさみで留めていた。リビングルームからはゆるやかに音楽が聞こえてくる。そういえば3年前、この曲に合わせて二人で踊ったな。あれはこの部屋を購入してすぐの頃で、まだ前の所有者が吸っていた煙草の臭いや、彼が飼っていたボクサー犬の臭いがきつく残っていて、二人で文句を言い合っていたっけ。このCDは、ダイアー・ストレイツの『メイキング・ムービーズ』というアルバムだ。二人でここに引っ越してきてから数ヶ月間は、狭いフロアを占拠するように40箱くらいのダンボールがずらっと置かれていたんだけど、無性に音楽が聴きたくなって、でもどの箱にCDが入っているのかすぐには見つからなくて、最初に出てきたCDがこのアルバムだったんだ。
「ハロー?」トムはエズミーに呼びかけた。手に持っていたバッグをコートラックの下に落とし、軽量素材の黒いレインコートをラックに掛ける。オーバーグラウンド鉄道のハウンズロー駅から歩いていたら、〈アイラ・ガーデン〉に差し掛かった辺りで急に雨が降ってきて、初夏のこの時期にはよくあることだからレインコートを持っていたけど、まだ髪や袖が濡れている。「一体何事だ?」
「ラウンジよ」彼女の声が返ってきた。
ラウンジといっても、彼女がそう呼んでいるだけで、ホテルのラウンジとは違って、ただのリビング兼ダイニングルームのことだ。廊下を3歩ほど歩けば、すぐにたどり着ける。ラウンジのドアを開けると、エズミーが待ち構えていた。
彼女は藍色の優美なカクテルドレスに身を包み、グレーのハイヒールを履いていた。顔にはメイクがばっちり施され、彼女の大きな瞳と薄い唇が際立っている。ルージュが引かれた口元は、キラキラ輝く笑顔にも、涙を浮かべたしかめっ面にも、どちらにも転がれる準備ができている感じだ。彼女の髪は、まだ見慣れていないピクシーカット。前までは茶色の髪を肩の長さまで伸ばして、軽くカールさせていたんだけど、今年に入って、彼女の、―というか二人の困難が始まった時、「これからは『ニューエズミー』よ」と言って、彼女は外見を刷新させ、その一環で髪もばっさり切り落としたのだ。
「何だよこれ? エズ」と彼は聞いた。「今夜は、一緒に荷造りするだけかと思ってた」
「サプライズよ」
「おお、そっか。夕食は?」
「まだよ」
トムは部屋を見回す。ソファーの前のコーヒーテーブルの上にはろうそくが立っていて、オフホワイトの壁をほのかに照らしていた。かなり値が張った壁掛け時計は、7時3分を指している。ソファーの側面は、二人の飼い猫、マグナスが執拗に引っ掻いた爪痕が相変わらず目立つ。マグナスは深みのある真っ赤な色がどうしても気に入らなかったのだろう。部屋の片隅には安物の垂れ板式ダイニングテーブルがあって、二人のディナー用に整えられていた。レストランのテーブルに近づけようとしたらしく、中央にパンかごが設置されている。そして、トムがいつも座っている側には、包装された小さなギフトが置かれていた。縦横5センチほどの正方形で、高さは1センチほどの平べったい小包みだった。
「しまった。エズミー、君へのプレゼントはまだ包んでもいない」と彼は言った。罪悪感でわずかに心が痛んだ。もっと正確を期するなら、「まだ買ってもいない」と言うべきだろう。明日は二人の記念日ということで、明日から2、3日、西の山の方へ小旅行に出かけることになっていて、彼は明日、出発前にプレゼントを買うつもりでいた。彼女の思いつきで、コッツウォルズの新緑を望む素敵なホテルを予約してあった。しかし、どうやって10周年を祝うかという段取りは、しばらく宙ぶらりんのままだった。近頃では、二人が望んだ通り、計画した通りに物事が進むなんてことは、ほとんどなくなっていた。
「プレゼントっぽいけど、それはプレゼントじゃないわ」と彼女が言った。「ちょっとしたアイデアを思いついたの」
「アイデア?」
「そう。ちょっとね。本当のプレゼントは明日になるわ。今夜の贈り物は、タイムトラベルよ」
彼女は面白がっている様子で、笑みを浮かべている。トムはからかわれているのかと怪しんだ。
「ほら、座って。最初のコースはもう準備できてるわ」と彼女が言った。
「その前に着替えていい? 不意をつかれて目が点状態だけど、ほら、見て」彼は自分の服装を示すように、雨に濡れた〈ニューバランス〉のトレーナーを引っ張った。ボタンを開けて羽織っていた、生地がすっかりくたびれた青いリネンシャツも濡れている。安手のジーンズ(彼のコレクションで2番目に良いジーンズ)も湿っている。彼は明日の午前中、北ロンドンに行って、もろもろ買い物を済ませたら、一番安い理髪店で髪を切ってもらうつもりでいた。全然決まらないぼさぼさのモップみたいな茶色の髪をさっぱり切って、灰色が混じった短い口ひげも整えてもらうつもりだ。
「いいわ。でも急いでね。あなたはもう遅れてるのよ」
もう遅れてるってどういうことだよ。彼は自分の知らないことが始まっているのかもしれないと、いぶかしみながらも何も言わずに、二人の寝室に急いだ。エズミーが「そのシャツ好き」と言ってくれたのを思い出し、コットンのオックスフォードシャツを選んだ。一日中穿いていたジーンズを脱ぎ、別のジーンズに穿き替える。
トムは鏡で自分の顔を見て、一日中悩ましかった鼻毛を引っこ抜きながら、なぜ彼女はこんなことをしたんだろうと考えた。―まあ、彼女らしい行動ではあるんだけど、もしかしたら、彼女は何かに気づいたのか?
トムは頭を振って、その疑問を振り払うと、記念日前夜を台無しにするようなことは避け、彼女の言う通りに身を任せようと心に決めた。彼は一度大きく深呼吸してから、彼女がテーブルの片側に座って、微笑みながら待っているリビングに向かった。
「それで」彼は向かい側の席に座ると、言った。「これは一体どういうことなのか、教えてくれるかな?」
「それを開けてみて」
「これ?」彼は目の前の小さな包みを手に取ると、彼女が熱い視線を注ぐ中、セロテープを剝がし始めた。
中にはポスト・イットみたいなメモ用紙の束が入っていて、一番上の紙にはこう書かれていた。1日でめぐる私たちの人生。一緒に時計の絵も描かれていて、ちょうど12時を指している。真夜中の12時なのか、お昼の12時なのかはわからない。トムは黄色いメモ用紙をパラパラとめくってみた。中にはストーリーが書かれているか、あるいは、何かの絵が動いているように見えるパラパラ漫画かと期待した。それってエズミーらしい考えだと思ったんだけど、違った。どの用紙にも文字は書かれていなかった。ただ、時間と小さな時計の絵だけが描かれている。
「ごめん、エズ」と彼は言った。「本当によくわかんない」
「ゲームよ」
「ゲーム?」
「そう、私が考えたの。特別にトム・マーレイのためにこしらえた、エズミー・サイモン考案のゲームよ」
「このゲームで何が起きるんだ?」
「まあ、あなた次第ね。上手くやれば2、3時間で、私たちが一緒に過ごしてきた10年間の、すべての重要な瞬間をめぐれるわ。私たちのあらゆる瞬間を追体験する感じね」彼女は自分のひらめきに得意そうに微笑んで、言った。「ようやく意味がわかった? タイムトラベルでしょ」
「たしかに」とトムは言いつつ、内心驚いていた。数年前のエズミーなら、こういうことをやりそうだと思った。だけど、今の彼女には、あまり似つかわしくない気がした。「それで、この...タイムトラベル・ゲームには何かルールがあるの?」
「一つだけね。指示をその裏に書いておいたわ」
トムはメモ用紙の束をひっくり返した。小さく折りたたんだA5の紙がテープで留めてあった。彼はそれを広げて、読み始める。
1日でめぐる私たちの人生ゲームへようこそ! 私たちの10周年を一緒に祝うために、エズミー・サイモンがトム・マーレイのために考案した新しいゲームです。
メモ用紙の各ページは1時間を表します。24枚あるので24時間、つまり1日です。あなたは、私たちが一緒に過ごしてきた人生で、最も重要な24の瞬間を思い出してください。1時間ごとに1つの出来事とします。
ルールはこの1つだけです。メモ用紙に示された時間のことを思い出してください。大体このくらいの時間だったな、くらいで大丈夫です。たとえば:
午前3時~4時頃、エズミーがミルトン・キーンズ駅まで僕を迎えに来てくれた。僕は馬鹿だったから、電車に乗ったまま寝ちゃったんだ。(あれは2011年3月だったな。覚えていたら、年月まで言ってね)
みたいな感じで、あなたから24の重大な出来事が出そろったら、ゲームクリアよ。あなたは賞品を受け取れるわ。
楽しんで! 愛してる。エズより、キスの花束を。
トムはエズミーの顔を見上げた。二人の間に置かれたろうそくにほのかに照らされた彼女の顔が、にっこりと満面の笑みをたたえていて、彼は一瞬たじろいでしまう。
僕とエズミーの関係を振り返って、最も重大な24の出来事か。トムは思いを巡らせてみた。彼女が忘れているようなことを言った方がいいんだろうか? それとも彼女が、そんなこと知らなかった! と驚くようなこと、あるいは彼女が知りようもないことを言えってことか?
手のひらがじっとりと汗ばんできた。鼓動も少し速まっている。彼女の意図もまだ不明確だけど、これはひょっとすると、彼女が考えている以上に意味のある、大変なギフトだぞ。心の中を偽りなく、ありのままに話すのって、僕にはしんどいんだよ。
彼は積み重なった一組のデッキをちらっと見やってから、もう一度エズミーを見た。
「準備はいい?」と彼女が言った。
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ニューヨークに関しては、ホールデン・コールフィールドや、ダッシュやリリーのおかげで、そこそこ詳しいんだけど、ロンドンは存じ上げないので、笑
藍用の地図です。(地図がないとどこにいるのかわからなくなっちゃうので...)👈実存的危機説。爆笑
ロンドンの北西部に位置する西(ウェスト)ハムステッドで、トムとエズミーは同棲しています。

明日から、さらに西へ行ったコッツウォルズのホテルに泊まりに行く予定です。

エディンバラの近くにおじいちゃん家があります。👈誰の?笑

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パート 1
チャプター 1


午前2時~3時
僕らが出会った夜
2007年6月 — ストックウェル、ロンドン
「で、いつこの街を出て行くの?」
「べつに、僕は出て行くとまでは言ってないけど」とトムは言った。
「言ってるようなものでしょ」
トムは首を横に振った。
「『ロンドンという街のせいだと思う自分もいて、僕はエディンバラに引っ越すかもしれない』」と彼女は、トムの口調を真似て言った。「あなたが言ったそのままよ。っていうか、あなた、エディンバラに知り合いなんていないでしょ。あなたの友達は全員、ここか、東海岸のローストフトにいるだけでしょ」
「エディンバラの隣町のリースにおじいちゃん家があるんだ」
「おお、いいじゃない! 25歳の男が、週末の夜に年齢が3倍の人たちと仲良くつるんで過ごすわけね。っていうかさ、トム、手持ちのカードを全部見せてみなさいよ」
「僕は行くかもしれないって言っただけで、まだはっきり決めたわけじゃないんだ」
「まったく、あなたってほんと面倒臭いよね」
「自分でもわかってるよ」と彼は悲しそうに言って、縁が欠けた水色のキッチンカウンターに寄り掛かった。カウンターの上に誰かがこぼしたビールが肘につかないよう気を付けながら、手に持っている缶を口に近づけ、炭酸の抜けた生温いダイエットコーラを一口飲む。
「ごめん」とアナベルは同情するように彼の腕に触れた。「ちょっと言い過ぎたわね」
トムは微笑んだ。あとどれくらいの時間、このパーティーに居続けることができるだろうか。鳴り響く音楽も耳をつんざくようで、ひどい。90年代のインディーズ・バンドと、ちゃちなハウス・ミュージックを融合して垂れ流しているのは、アリの友人のメムという自称DJだ。彼が言うには、「本当は今夜、〈ファブリック・ロンドン〉で皿を回すはずだったんだけど、君たちに俺のDJスキルを披露するために、〈ファブリック〉の出番は断って、こっちに来た」そうだ。ラウンジはアリが勤めている広告代理店の同僚でごった返していた。やばいやつを鼻から吸い込んだのか、ラリってる馬鹿もいる。壁にはマグリットの『ゴルコンダ』が額縁に入れられている。「集団の中の個」をテーマにした傑作絵画だ。といっても、もちろんレプリカで、元々ここに飾られていた大家の所有物らしい。屋上のテラス(というか、ただの屋上)を仕切っているのは、アマチュアのカメラマンだった。彼はパーティーの参加者たちに、穴の開いた額縁を顔の前に掲げるよう指示しながら、使い古された構図だが、ロンドンの摩天楼を背景に写真を撮りまくっている。そんな中で、トムは完全に浮いていた。見渡せば、50人以上の人たちが、アイアンマン、スーパーマン、バットマン、スパイダーマン、バナナマンなどに扮して、騒ぎまくっている。ワンダーウーマンも3人くらい見受けられる。ハルクに扮しようと全身を緑に塗った、ほぼ全裸のやつもいる。―時間が経つにつれて、普段着の自分がこの中で一番の馬鹿に思えてきて、自分も何かしらのコスプレをしてくればよかったな、と悔やんだ。

隣のアナベル(彼女はジーン・グレイというスーパーヒーローの恰好をしているらしいが、そう言われなければ、ただ緑の洋服を着ているだけにしか見えない。)によれば、このパーティーで「まとも」なのは、アナベル自身以外では、エズミー・サイモンくらいで、彼女はアリの同居人の元カノということだった。アリの同居人、つまり彼女の元カレは、アングリー・マットという名のドラマーで、彼のハードロック・バンドはそこそこ人気があり、ライブスケジュールが一年中ぎっしり詰まっていた。彼が全国ツアーに旅立ってから、かれこれ11ヶ月が経ち、その間、このアリの部屋には帰っていないそうだ。
エズミーは綺麗だった。髪は肩までの長さで、こげ茶色の髪をふわっとカールさせている。彼女の瞳は輝きを放ち、顔だけでなく彼女の全身に生彩を添えていた。彼女は一晩中ずっと、笑顔を絶やさなかった。彼女はジーンズに、赤いコンバースを履き、チェックのコットンシャツというカジュアルな軽装にもかかわらず、優雅なドレスを身にまとっているかのような佇まいだ。一方、彼女の周りは、似ても似つかないインクレディブルや、スパイダーマンや、無敵のヒーローでごった返している。
しかし、エズミーに見とれているのをアナベルに気づかれ、「彼女はあなたには合わないわよ」と言われてしまった。
「ちょっと待って」とトムは言った。「まず第1に、なぜ合わないって言える? 第2に、僕が彼女に興味があるなんて誰が言った?」
「そうね。まず第1に、彼女はいつでも陽気なの。あなたみたいな根暗とは違うのよ。第2の前に、第1.5に、彼女は素敵すぎて、あなたには無理よ」
「それってどういう意味? 彼女は素敵すぎて」と彼は、アナベルの言い方を真似て、ため息をつくように言った。素敵! と憧れを爆発させるような言い方ではなく、もっと投げやりな感じだったから。
「彼女は子供たちを相手に、言語療法とか、そういうことをしてるのよ。素敵なことでしょ。自分の人生を他の人たちのために捧げようっていうのよ。あなたみたいな、アーティスト気取りの自己中とは違うってこと」
「僕は一応ピアノを教えたりもしてるけど、所属してるバンドはカバーしかやらないし、アーティストを気取ってるわけじゃない。まあ、それはいいや。とにかく、そういうそれぞれの性格を持つ二人が相容れない、なんて僕には納得できないな」
アナベルはため息をついた。彼女がまた、教訓めいたことを口にしようとしているのがわかった。彼女は善意からなんだろうけど、いつも僕の面倒を見ている感じで、あれはしちゃいけない、これはしちゃいけない、と小言を言ってくる。まあ、最近の出来事を考えてみると、彼女の忠告はもっともだったけれど。
「いいよ。何でも言って」とトムは言った。
「ぴったり合うかとか、相性の問題ばかりじゃないでしょ」そう言うと、彼女は遠回しにエズミーとトムを交互に指さした。「恋愛とか、そういうのはまだ良くないんじゃないかってことよ。あんなことがあったっていうのに」
「僕はただ、ちょっと見てただけだよ。パーティーで男女がチラッチラッとお互いに視線を交わすなんて、普通のことじゃないか。君は勘ぐりすぎだよ」
「私の意見を言ってるだけよ。それが私の役目でもあるから。べつに何も口出しせずに、悪い友達みたいに傍観しててもいいのよ」
「君の意見って?」
「あなたは弱いから、きっとあなたの心はまたすぐにパリンと割れちゃう。どうせ、もう大丈夫、とか思ってるんでしょうけど、まだ2ヶ月しか経ってないでしょ」
トムは何も言えなかった。アナベルが言ったことには、多少なりとも問題の核心が含まれていた。しかし彼には、長年にわたる、あまり誇らしいとはいえない免疫がついていた。友達や家族が彼のためを思って言ってくれる忠告や警告を、良くも悪くも、彼は無視してしまうのだ。
「心配しないで」
「心配するわよ。あなたはもう、彼女のことが好きになっちゃったんでしょ。彼女があなたの視界に入ってる時、あなたは私の話の半分も聞いてないじゃない」
「君は何様だよ? 勝手に決めつけないでくれるかな」
アナベルがまたため息をついた。彼女は明らかにイライラしている。
「トム。あなたと知り合って何年経つかわかる? もう14年よ」
「それはお気の毒に」
「そしてその間、あなたは何人とまともに恋愛できた?」
「一人。いや、二人かな」
「正解はゼロよ、トム。あなたがちゃんと付き合えたことなんて一度だってなかったでしょ」
「君はタンジーを気に入ってたじゃないか。みんなタンジーのことが好きだった」
「あなたを除いてみんなね」
トムはまたもや沈黙に陥った。痛いところを突かれてしまった。タンジーは彼が初めて真剣に付き合ったガールフレンドだったのだが、2000年代の初期に始まった恋人関係は、ほんの6ヶ月しか続かなかった。アナベルや彼自身と同じように、タンジーもサフォーク海岸のローストフト出身だった。彼女の両親は海岸の埠頭で、ドーナツが食べられる喫茶店を経営していた。行楽客がめっきり減って、収入の乏しい冬の時期は、ティーが劇的に薄くなることで有名で、費用削減のためにティーバッグを3回まで使い回していると噂されていた。トムとタンジーは〈ローストフト・シックスフォーム・カレッジ〉で出会った。最初は授業中や授業の後に、お互いに軽口を叩いて、冷やかし合うような関係だった。やがて友情が恋愛関係に変わり、いつしか軽口は辛辣な口論に変わった。地元のシーサイドホテルで、カレッジ主催のディナー・ダンスパーティーがあり、その最中に、タンジーがサイダーの缶をトムの頭に投げつけて、関係に終止符が打たれた。
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「ローストフト、ローストフト、ローストフト...」と10回言いましょう!
そうすれば、すぐに口なじみ(耳なじみ)になります✨✨

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「タンジーは気難しかったんだよ」と彼は言った。「君は彼女のことを全然わかってなかった」
アナベルはオーブンを開けた。中には氷に埋もれるようにして、ビールの缶が詰め込まれていた。彼女が〈カールスバーグ〉をもう1本引き出す様子を眺めながら、トムは少し神経が逆立っていた。周りにお酒とか、やばい薬がある状況に身を置いていることが気がかりだった。彼はアナベルに「もう何ともない」と言って、こんなところに付いて来てしまったが、まだこういう場は早すぎたのかもしれない。
このパーティーの参加者のうち、何人が僕のことを知っているのだろう? どんな噂が広まっているのだろう?
アナベルが僕を観察しているのは気づいていたが、どうしても、もう一度エズミーに視線を送ってしまう。彼女にはどこか視線を引き付ける魅力があった。彼女の顔に浮かぶ優しさやユーモアがそうさせるのかもしれない。実際、彼女だけは天性のハッピーオーラに包まれているように見える。彼女を好きだと感じた。その気持ちを打ち消すのは無理だった。
「トム」
「何?」
「もう一度言おうか?」
「いいよ」
「私はちゃんと目が見えるし、馬鹿でもないわ」
「どうしたらいいかわからないんだ」
「そっか、私の忠告をきっぱりと無視することに決めたのね。じゃあ、仕方ないわね。あなたの目の前には二つの道があるから、どっちでも好きな方を選びなさい。エディンバラに引っ越して、おじいちゃんたちとトランプでもしながら過ごすか、エズミー・サイモンと真実の愛を見つけるか」
「なんか、両極端だな。田舎に引っ込むのが最も無難な選択って気もする」とトムは言った。それは冗談だったが、実際それが無難な選択であることもわかっていた。この一年はいろんなことがあった。波乱万丈の一年だったな。みんなが「気を付けて」って声をかけてくれた。わかってる、バランスが大事なんだ。
「おそらく、というか明らかに、田舎に引っ込む気はないみたいね」
「君はどう思う? なんていうか、君の意見としては、どっちが正解だと思う?」
「私の意見としては、あなたをこのパーティーに無理やり引っ張ってこなければよかったなって思ってるけど」
「そうじゃなくて、アナベル。君はどっちがいいと思う?」
彼女がうめいた。彼女が息を吐き出しながら、「まったくもう」とかすかにつぶやくのが聞こえた。
「田舎に引っ込むのは、素晴らしい考えだとは思えないわね」と彼女は言った。「でも、あなたが私の言うことを素直に聞くとも思えないし、そして何より、―彼女があなたを好きになるとは到底思えないけどね」
「ありがとう」
「どういたしまして。もっと言うとね、彼女があなたのことを好きになることもないとは思うけど、逆にあなただって本気で彼女を好きになるか、あやしいものね。ほら、彼女に話しかけてきなさい。そうすれば、私が正しいってわかるから。いつまでもこんなところで、私の話を聞いてるふりをしながら、彼女に視線を送ってたってらちが明かないでしょ」アナベルはビールをぐびぐびと喉に流し込んだ。「ほら、彼女の友達がタバコを吸いに出て行くわ」
「それが?」
「今がチャンスってことよ。さっさと行きなさい、トム・マーレイ」見れば、エズミーと30分ほど一緒にいた女の子がドアに向かって歩いて行くところで、エズミーは一人きりになった。
「トム!」とアナベルが言った。
「何? 僕はパーティーで誰かにアプローチをかけたことは、今まで一度だってないんだよ」
「それが?」
「リスクが高すぎるってことだよ」と彼は言った。
「ってことは、私はあなたに、すべきじゃないことをけしかけてるってことかしら?」
「そうは言ってないよ」
「じゃあ、教えてあげるけど、彼女もあなたをチラチラ見てたわ。あなたが彼女を見る回数の半分くらいだけど、あなたが話しかけてくるのを待ってるってことでしょ。まあ、なんか変な人が見てるって思ってるだけかもしれないけど」
「本当に彼女も見てた?」トム自身も一度か二度、彼女と目が合った気がしたんだけど、にわかには信じられなかった。「いや、彼女が僕を待ってるなんて、そんな馬鹿な。僕たちが意気投合して、付き合っちゃう確率はどれくらいかな?」
「さっき言ったように、限りなくゼロに近いわね。100万分の1くらい」
「100万分の1ってゼロに近いかな?」
「そんなことはどうでもいいのよ、トム! さっさと行ってこい。ハローって言えばいいだけでしょ。あんたのそういうところがイライラするのよね。『君の意見を教えて』って聞いてくるくせに、私が意見を言うと、無視。じゃあ、聞くなよ。っていうか、一晩中うじうじとくすぶってる気? こんなところで私と、彼女はどう思ってるかな?って言い合ってたって仕方がないでしょ。当たって砕けろよ。砕けたって死ぬわけじゃないし、パーッと綺麗に砕け散るところを見せてみなさいよ」アナベルはひと呼吸置いてから、言った。「ほら、さっきあなたが言ってたジョーク、あれ使えるわ。仮装の靴のやつ。まあまあ面白かったから」
「まあまあ?」
「いいから、行け!」彼女はそう言うと、彼の腕を力強く押した。二人で揉み合っていたら、エズミーがこっちを見ているのがわかり、トムは行かざるを得なくなった。バタバタとコットンシャツを羽織りながら、彼女に近づいて行く。
トムは何千人もの観衆が見守るステージ上に、台本なしで押し出された気分だった。一つだけのスポットライトが彼を照らし出す。数千の視線が、早く面白いことを言って笑わせてくれよ、と期待しながら、彼が口を開くのを待っている。
でも、実際に僕を見ていたのは一人だけだった。振り返ると、キッチンの角で、緑の洋服を着た女の子が立っていて、心配そうにこちらを見守っている。彼女の優しさが伝わってくるようなまなざしだ。あの瞳に見つめられると、従わなければって気になってしまう。僕自身の直観が逆方向に行けと指令を出していても、僕の友達が彼女の言うことは聞かない方がいいと忠告しても、僕はどうしてもアナベルに従ってしまう。僕は意を決して前を向いた。あと4歩ほどで、エズミーの元に辿り着く。しかし、トムにはあと4歩が広大な海のように思えた。
ハッと我に返ると、彼はまだ大洋の真ん中にいた。エズミーとアナベルの間、ひび割れたリノリウムの床の上で、どちらの大陸にも向かえず、彼はぽつんと突っ立っていた。彼は何度目かの勇気を奮い起こした。こんなのどうってことない、自分にそう言い聞かせながら、彼は手に持っていたダイエットコーラをぐびっと一口飲み、もじゃもじゃの髪に5本の指を走らせた。
それから3時間ばかり逡巡した後、トムはようやくエズミーにアプローチした。
「ハイ」と彼は言った。
「ハロー」と彼女は言った。
「エズミー、だよね?」
「そうです。えっと、あなたはトム?」
「うん」
「はじめまして」とエズミーが言った。そこでどういうわけか、自分でもよくわからないまま、僕は彼女に手を差し出した。彼女の手を握ると、ぎこちなく上下に揺する。彼女の瞳が驚いたように、ちょっと開いた。
「ああ、とても礼儀正しいのね」
「ごめん」
「いいのよ」と彼女は言った。トムはエズミーについて、細かい事に気づき始めた。彼女の口元が緩んで、ニュートラルより、ちょっとだけ笑顔寄りのほころびを見せる感じとか。すべての子音と母音を聞き分けられるくらい明瞭に発音する話し方とか。彼女はメガネをかけていて、それが彼女の顔をちょっとだけ不均衡に見せていることとか。というのも、彼女の眉毛は片方がわずかに高い位置にあるから、そのわずかの差がメガネで強調されて見えた。そして、彼女も同じように僕を観察し、色々な発見をしているのだろうかと思った。僕の剃ってないひげや、コットンシャツの襟に付いたカレーの染みや、前髪を調整してなんとか隠そうとはしているけれど、見えちゃってる赤いニキビとか。
「おお、ありがとう。ところで」とトムは、気まずさを取り繕うように言った。
「ありがとうって何に対して?」
「君は仮装してないんだね。僕も普通の服で来ちゃった」
「どういう意味?」と彼女が言った。「私はスーパーマンの恋人、ロイス・レインのコスプレをしてるのよ」
「あ、ああ...」トムは口ごもりながら、自分に対して罵詈雑言を浴びせかけた。アナベルの方をチラッと見る。「もう無理。もうそっちに戻っていい」と懇願するようだった。「くそっ。っていうか、ごめん。なんていうか、僕はそういうスーパーヒーローとか、あまり詳しくないから」
「ちょっとからかっただけよ」と彼女は言って、クスクスと笑い出した。彼女は物事を深く悩まないタイプなんだな、と感じた。周りを埋め尽くす、映画館のスクリーンや漫画本から飛び出してきた、さまざまなスーパーヒーローや、悪名高きキャラクターを見渡しながら、彼女は一人で笑っている。
トムも、感情を抑えるのはやめにして、声に出して笑ってみた。けれど内心では、エズミーが「あなたには興味ないわ」とそれとなく知らせようとしているのではないか、と訝しく思っていた。彼女は優しいから、はっきりと言葉で意思表示して、僕を嫌な気持ちにさせるのがためらわれ、口ではなく目で、あっちに行けと合図しているのかもしれない。彼は振り返って、再びアナベルを見やった。彼女は今、『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』のコスプレをした男に言い寄られていた。でも、きっとすぐに彼女が同性愛者だとわかって、何か適当な言い訳めいたことを口にしながら、彼女の元から去って行くことになるだろう。
それより今はエズミーだ。もっと彼女の笑顔を引き出したい。なるべく長く彼女の注意を引き付けておきたい。そのためには何か言わなくちゃ。
「仮装パーティーではね、みんなの靴を見るといいよ。ほら、あそこのスパイダーマンとか、全身スパイダーマンでばっちり決まってるように見えるけど、足元を見てごらん。黒のローファーを履いてる。もうコスプレが台無しだよね」
エズミーがクスクスと笑ってくれた。「たしかにそうね」と同意してくれた。僕の心はちょっとウキウキした。さっきまで、エズミーが僕とは関わりたくないと思っている理由をずらっと、内心でリストを作るように並べ立てていたけれど、そのメンタルリストは破り捨ててしまおう、と決めた。すると、彼女が面白がって、僕のジョークを引き継いでくれた。彼女があちこち指を差して、「あそこのワンダーウーマンはパンプスを履いてるし、あのアイアンマンはデザートブーツを履いてるわ」と言い出した。一応靴のジョークで笑いを取れたけど、今夜はこれでおしまいなんだろうな、と思った。パーティーで少しの時間、笑いを分かち合った二人は、じゃあね、と言って別れ、これから別々の道を歩んで行くんだろうな、と。
彼は彼女に流れを委ねるしかなかった。何か聞いてほしい。ワンチャンあるかもしれないと、ちょっとでも自信を与えてくれるようなことを言ってほしい。しかし、スーパーヒーローの靴のジョークは次第に効力を失っていき、お互いに何も言うことがない見知らぬ二人の間に、気まずい沈黙が漂い始めた。
「それで、あなたはトム・マーレイよね?」と彼女が聞いてくれて、彼はひと安心した。彼の念が通じたのか、彼女の声にはしっかりと希望の声音があり、もしかしたらいけるかもしれない、と思わせてくれた。「アリの地元の友達?」
「そう」
「ミュージシャン?」
「まあね、一応。ちょっと演奏したり、ちょっと作曲したり」
「作曲?」
「全然大したことはしてないよ。映画音楽とか、作曲してみたいとは思ってるけど」
「わー、凄ーい!」と彼女が言った。え? 作曲してみたいって言っただけなんだけど、作曲したって聞こえちゃったかな、映画音楽なんて作曲したことないんだけどな。
「でも、大体は教えたり、カバーバンドで演奏してる感じかな」と彼は言った。「ほんと、お遊びみたいなもんだよ」
「じゃあ、いろんな楽器を演奏できるの?」と彼女が聞いた。
「いや。でも、とても賢いキーボードがあるからね、いろんな楽器の音は出せる」
エズミーが笑ってくれて、僕はまた浮かれる。レベルアップを告げる音楽が聞こえた気がした。そう、僕たちは傍から見たら、滑稽なゲームをしていたんだ。
「何か飲み物が欲しい?」と彼は言った。「オーブンレンジじゃなくて、オーブン冷蔵庫の中に、まだ何本か入ってたと思うよ」
「そうね。でも、もうそろそろ帰ろうかと思ってたところなの。明日は仕事だから」と彼女は言って、広告代理店のアル中や薬中たちを眺めた。お前やりすぎだよ、とか言いながら、ふらふらと白い粉を取り合っている男たちが目に入る。自分用にポケットにしまい込むやつもいる。「それに、このパーティーも間もなくお開きになりそうだし。みんな酔い潰れて寝ちゃいそうって言った方が適切かもしれないけど...」
一度上がったテンションも、彼女が帰る、と聞いて、一気に下がってしまった。この何分かは良い雰囲気で、これは見込みあるかも、と思ったけれど、やっぱりアナベルが正しかったのかもしれない。仮装パーティーなのに、普段着っぽい恰好をしているという共通点以外、何も打ち解ける要素が見当たらない。それだけでは、ファーストデートに持ち込むことすらできないし、恋愛関係に発展なんて、言うまでもなく無理だ。
「ああ、そうだね。うん。君の言う通りだよ。今夜はお開きにして、また今度、機会があったら」トムはそう言って、肩を落とした。再びやるせない沈黙が訪れるのだろうな、と思いながら、二人はまだ「赤の他人」の域を出ないことを痛感した。
「そうね」
「え?」
「また機会があったら」
「ごめん、僕は―」
「たぶん、また一緒に飲めると思う」
「うん...え、あ...そうだね」と彼はつっかえつっかえ、言葉に詰まりながら言った。また一緒に飲める、という彼女の言葉に、彼は驚きを隠せない。一方、エズミーはキッチンのドアにかかっていたハンガーから自分の上着を手に取り、初夏の夜の涼しくなった野外に出て行こうと準備している。
「それで、君はもう今すぐ帰るの?」と彼は聞いた。
「そうする」
「それって、僕と話していてもつまらないからってことじゃないよね」
「違うわ。本当にもう遅いから。あなたが私に、それならまだ残っていなくちゃって思わせるようなことを言ってくれれば別だけど。明日ぐったり疲れちゃっても、ここに残っているだけの価値があるって思わせてくれるくらい、素晴らしい理由はあるかしら? そのせいで日曜日も仕事するはめになってもいいって思えるくらいの何か」
「そうだな、まだあの写真家が屋上でうろうろしてるだろうから、写真を撮ってもらう?」
「それもいいかもね」
トムはアナベルの視線に気づいた。彼女がまるで、小学校に入学したばかりの我が子を車で校門まで送り届けて、期待と不安を胸に、その背中を見つめている親のようなまなざしで、彼を見ていた。「いいわよ、私は一人で帰るから」と彼女が彼に向けて大声で言った。
「あなたの友達が、あなたも私と一緒に帰っていいって言ってるみたいね」とエズミーが言った。
「ああ、そうみたいだね」と僕は、混乱しているそぶりを見せながら言った。家に帰ったら、アナベルに感謝のメールを送らなきゃだな、とメンタルメモに記入したところで、僕は不安に駆られた。この幸運な展開は、僕の望み通りではあるが、アナベルの予想通りでもあるのだろうか? 頭を抱えそうになる。どれだけの水深がある池なのか、水面を見ているだけの僕にはわからない。僕は、相変わらずのトム・マーレイだ。何も変わってないな。もっと斬新なことをして、自分自身を驚かせたいけれど、その方法がさっぱりわからない。
そして今、エズミーが僕の目の前に立っている。彼女は赤くて裾が長めのジャケットを羽織り、ライトグレーの薄手のスカーフを軽く首に巻いている。いくぶん期待に胸をはずませているような顔つきで、僕を見ている。
「あなたはどこに住んでるの? トム・マーレイ」と彼女が、ジャケットのボタンを下からはめながら言った。
「カムデン。〈ザ・ロック〉っていうライブハウスの近く」
「よかった。私はピムリコだから、方向は同じよね?」
「まあ、大体ね。完全に同じかというと...」
「じゃあ」と彼女が割り込んだ。「私の家まで一緒に歩いて送っていって、ね」
そう言うと、彼女は振り向き、パーティー会場のアリの部屋から出て行く。僕も彼女の後について部屋を出た。階段では、ウルヴァリンに扮した男が、キャットウーマンのコスプレをした女にキスしていた。二人ともかなり酔っ払っている様子だ。壁に背中をつけるようにして、その横を擦り抜け、建物の外に出た。ストックウェルの〈セント・マーティンズ通り〉は静けさに満ちていた。腕時計を見ると、午前2時59分を指している。隣を歩く彼女の腕が、僕の腕にこすれるように触れている。そして、彼女の指の先が、僕の指の先にそっと触れた。エズミーが初めて僕の手を握ってくれた瞬間だった。彼女の手の感触がじんわりと伝わってきて、10年経ってもありありと思い出せるくらい、驚きに満ちた手触りだった。
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トムが住んでいるカムデンはこの辺りです👇

『クリスマス・キャロル』で有名なチャールズ・ディケンズ博物館があるみたいです👆(藍が行ってみたいと思っただけです...笑)

パ:パーティー会場。
セ:〈セント・マーティンズ通り〉
ピムリコ:エズミーの家がある地区。
緑の線:トムが(たぶんニヤニヤしながら)一人で帰った道。
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チャプター 2

午前7時~8時
僕らのファーストデート、それとも二度目?
2007年6月 — ピムリコ、ロンドン
彼女のむき出しのももの感触に、トムは目を覚まし、思わず自分のももを離した。
「おはよう」とエズミーが言って、僕の胸の上に腕を伸ばし、抱きしめてきた。
「おはよう」と僕は返す。いったい自分はどこにいるのか? と一瞬戸惑い、頭を振ると、昨夜の記憶が蘇ってきた。ピムリコに来ることになったきっかけを、そのありえないような出来事をざっと思い出し、急に二人の親密さを強く意識した。—彼女の軽くて柔らかい髪が僕の胸の上にかかり、さらにその髪の上に彼女の腕が乗っかった。このような状況でどんなことを言えばいいのか、さっぱりわからない。いったい何が言える? 女性の隣で目を覚ましたことは前にもあったけれど、過去の経験なんて僕には何の役にも立たないんだよな。「大丈夫?」と僕は聞いてみる。
「ちょっと疲れてるわ」
エズミーがあくびをした。口の片方の端をもう片方よりも少し上に持ち上げるような、エルビス・プレスリーの歌い方みたいな、あくびだった。
「君は目覚めたばかりみたいだね」
「ほとんど寝てないわ」
「えっ、まさか僕、いびきかいたりしてないよね? いや、今まで誰にも言われたことないけど」と僕は言った。そして、もっと意味をはっきりさせた方がいいな、と気づいた。「いや、そんなに多くないってこと。こういう風に...わかるよね」
「いびきとかじゃないの、大丈夫よ。あなたじゃなくて、私」
「それにしても、こういうのって早すぎない?」
エズミーが僕の胸に乗っていた腕を振り上げ、からかうように叩いた。「そうじゃなくて、私は睡眠に問題を抱えてるの。新しい人がベッドに入ってくると、眠るのに苦労するのよ」と彼女は言った。「いいえ、そんなに多くないのよ...こういう風に...わかるでしょ」
「もちろん」
「トム!」
「僕は何も言ってないよ」
「私だって何も言ってないわ。ただ、こういうことは...珍しいことなの。ってあなたも言いたかったんでしょ?」
「君がお望みならそれで」
「私は、新しいボーイフレンドとか...パートナーができたらって意味よ」と彼女は言葉を選ぶように言った。「最初の2、3回は、なかなか眠れないわ。回っていうか夜って意味ね」
エズミーは僕から体を離し、ベッドの片側に置いてある赤と白のストライプの枕に頭を乗せた。黄色のベッドシーツとのコントラストが鮮やかな枕だ。僕は昨夜のことを改めて思い返す。初めて彼女の寝室に足を踏み入れた時、彼女は「凄く散らかってるけど、見えてないことにしてね」と言った。実際は、全然散らかってなかった。少なくとも僕のワンルームの部屋に比べれば、全然ましだ。僕の部屋は、服やバッグや楽器や、ピザの空箱なんかが常に散乱していて、結構上の階だから良かったものの、もし1階や2階だったら、まず間違いなくネズミの問題を抱えていただろう。
二人の体のどの部分も触れていない状態になると、僕は妙な違和感を覚えた。通常の状態に戻っただけなのだが、二人の間に少しでも空間が空いていると、急に耐えられなくなったようなもどかしさを感じた。彼女もそう感じているのではないか、と僕は思った。しかしそれは、もし表現するとすれば、センチメンタルな衝動が、いつもべったりしていたいという妙な方向へと僕を推し進めているのであって、決してロマンチックな、僕自身の自発的な感情ではない気がした。
「じゃあ」と僕は言った。「ずっとそうやって横になって、起きてたの?」
「考え事をしてたの」と言って、彼女はちょっとはにかんだ。
「『何を考えてたの?』なんて聞いて、感傷的なゲームはしないよ、エズミー」
「あらそう、私だってするつもりはないわ」
「でも...」と僕は少し間を開けてから、言った。「何を考えてたの?」
「はっ! やっぱり聞くと思った」
「まあまあ。僕は自ら進んで嫌われ役を買って出てるんだからさ」と僕は言ってから、一瞬口を閉ざして、彼女の方へ体を寄せた。「それで?」
「あなたならわかってくれると思うけど、行動原理というか、行動を支配するルールについて考えてたの」
「ルール? ああ、昨夜のことね?」と僕は言った。昨夜、エズミーにシャワーを借りた後、パンツ一丁でキッチンにいたところ、急に見知らぬ女性がキッチンに入ってきて、僕を見るなり目を見開き、キャーと悲鳴を上げたのだ。図らずも、上の階の住民がその声を聞きつけ、ヒーロー気取りで駆け付ける、という騒ぎに発展した。彼女はエズミーの同居人で、寝室は別々だけど、居間とキッチンを共有しているらしい。上の階の彼は、ヒーローを気取っているわりには、クリケットのバットを構えて、やや腰が引けていた。ヒーローベルトは腰に巻かれていないようだった。
「そうじゃなくて、なんていうか、こういう関係になっちゃうこと」
「ああ、そっちか」
「そっちって?」
「この共同住宅の同居人とか、上の階の隣人のことかと思ったよ」
「違うわ。でも繰り返しになるけど、昨夜の彼女のことはごめんなさい」
「僕は水を一杯もらおうと思っただけなんだけどな」
「私がいけなかった。彼女に一言メールを送っておくべきだった...お客さんが来てるって」
「お客さんって誰のこと?」
「トム。私は冗談なんて言ってないのよ...私はね、こんな事はめったにしないから。めったにっていうか、絶対にしないから」
「じゃあ、僕は特別ってことだね。なんか光栄な気分だよ」
「そうね」とエズミーは言って、羽毛布団の下で僕の手を握りしめた。冗談を言い合っているような雰囲気がさっと消え、急に彼女が真剣なまなざしで僕を見つめてきた。その手の感触に、僕の頭は昨夜の〈セント・マーティンズ通り〉に飛んだ。彼女が初めて僕の手を握った瞬間、未知の世界とつながった気がした。一晩一緒に過ごして、少し馴染みのある感触になったけれど、手をつなぐと世界がつながった感じがするのは今も変わらない。
僕は枕の上で頭を横向きにし、彼女を見た。僕が寝そべっているのはベッドの右側だった。エズミーは「壁に近すぎる」という理由で、ベッドの右側では決して寝ないそうだ。右側に置かれた枕はふっくらとしていて、ほとんど使われていない感じだった。使ってなくても、左右対称の方が見栄えがいいからという理由で、装飾品として置いているらしい。
「とにかく」と僕は言った。「それは君の行動原理だよ」
「ああ、そうね。わかったわ。じゃあ、私たちの基本的なルールを考えましょ。私たちの関係性を統括する行動原理よ。初日から...いつまでかはわからないけど」
「関係性?」と言って、僕は微笑んだ。
「そうよ。まず、ルール1。私たちが付き合ってるって完璧にわかりきってる時に、付き合ってるかどうかは聞かないこと」と彼女は言った。それから少し間を開けて、付け加えた。「まあ、聞きたいでしょうけど?」
「そりゃ聞きたいよ」と僕は言った。なんだか、不思議な魔法にかけられているような気分だった。彼女が目に見えない魔法の杖を振りかざして、一瞬で僕らは恋人関係になってしまったような。―とはいえ、魔法のわりには、ちょっと事務的なプロセスに感じられたけど。僕は今までの恋愛を思い返した。どの恋愛も不運な末路に至ったわけだけど、最初の数週間は、前置きがあったというか、セックスしたらパートナーになったことを意味するのか? と不確かさの中であれこれ思い悩む期間があった。その関係性が、〈頻繁に会っている〉とか、〈デートしている〉というあいまいなタイトルではなく、もっと確かな言葉でラベル付けされるくらいに強い結びつきなのかどうかを、数週間考えたあげく、「僕たちって付き合ってるんだよね?」みたいな会話をしてしまう。そして、そういう独占性をめぐる会話というのは常に、より良い選択肢が他にあることをほのめかす感じになってしまう。だから、僕はかつてある女の子に、直接的に付き合ってるのかは聞かずに、こう聞いたことがある。フェイスブックの僕のステータスを「恋人あり」に変えた方がいい? と。
「私は自分がどこで何をしているのかわからないっていうのが大嫌いなの」とエズミーは説明口調で言った。「あいまいな期間を過ごすくらいなら、最初から〈付き合ってる〉ってラベル付けしちゃった方が楽でしょ。それで、3週間経って、やっぱり間違いだったとわかれば、シールを貼り替えればいいわけだし」
「なんか君は、楽観的な見方と悲観的な見方が混在してるみたいだね」
「私はそういう風に考えるのが好きなのよ。コップに水が半分入っていたとして、『半分はいっぱい』と考えるのと、『半分は空』と考える二つの見方があるでしょ。私は両方の見方で見たいの」
「ってことは、3週間後にチェックインするホテルの部屋を、今から予約しちゃうってこと? 見極め期間みたいな感じで」
「私を信じて。予約しちゃえば、後からなんとでもなるから」
僕は笑った。そして聞いた。「ルール2はどんなの?」
「これは大きなルールよ」
「オーケー」と僕はいぶかしみつつ言った。
「ルール2はね、これは必ず守ってほしいんだけど、私が仕事をしている時は、私は仕事をしているんだってちゃんと受け入れてほしいの。私は今までに二人の男性と付き合ったことがあるんだけど、二人とも勝手にどんどん予定を入れて、私が仕事で行けなくなると、ぐちぐち文句を言い出す男だった。週末しか会えないなんてつまらない女だって言われたわ。一人は親がお金持ちのぼんぼんで、働くってどういうことか何もわかってないのよ。私が仕事をすっぽかしたり、適当に急いでやっちゃったりしたら、かわいそうな子供たちのコミュニケーション能力に、文字通りどれだけ影響を及ぼすかが、全然わかってないの」
「その関係はどのくらい続いたの?」
「一ヶ月」
「もう一人は?」
「もう一人はマットよ」
「アングリー・マット(怒れるマット)?」
「みんな彼をそう呼ぶけど、私はその呼び方が嫌い」
「僕は彼にまだ2回しか会ったことないけど、実際、彼はかなり怒りっぽい人だっていう印象だったよ。それはともかく、彼はどんなことをしたの?」
「もう、いろいろやらかしてくれたわ。彼はバンドのツアーから自分が帰ってくると、私には世界一周できるほどの時間が有り余ってるって思い込んでるのよ。金曜の午後に〈オールトン・タワーズ〉の遊園地のチケットを予約しちゃったりとか。私はセラピーの面談が3人続けて入っていて、絶叫マシンとか乗ってる場合じゃないっていうのに、彼ったら学校まで車で迎えに来る始末よ。その時に、これはもう続かないって悟ったわ」
「それが原因で、彼は帰ってこなくなっちゃっ...」
「黙って」とエズミーが遮って、笑みを浮かべた。「とにかく、私はいつも仕事のことを気にかけてるのよ。それはそれとして、この後、9時から書類仕事を始めないとだから、それまでにはさっさと帰ってちょうだいね」
「わかった。君が仕事好きだって知れて良かったよ。僕はそういうの好きだよ」と僕は言った。言いながら、彼女の仕事は何だったっけ? と昨夜の記憶を呼び起こしていた。たしか、子供に関係する仕事だったはず。
「それに私はまだ勉強中の身だから」とエズミーが言った。「あなたもそうでしょ。人と接する仕事っていうのは常に勉強なのよ。特に子供相手だとね」
「僕は子供に教えるのが、へどが出るくらい嫌いなんだ」
「トム!」
「毎週、9歳の男の子がピアノで『Merrily We Roll Along』を弾こうと頑張ってるのを、1時間見てるんだけど、一向に上達してくれない。まあ、下手になることもないけどさ。毎回うんざりして、それが毎週繰り返される」
「それは大変そうな仕事ね」
「実際大変だよ」
「でも、それって教えてる人が悪いのかもよ」
「ちょっとそれは」
「いずれにしても、私だったらそんな風には教えないわ」
「まあ...そうだろうね」
「もしかしてあなた、私の仕事忘れちゃった?」
「児童心理学者だったよね?」と僕はピンと来て言った。
「100万マイルまでは遠くないわね」
「精神科医?」
「言語療法士よ」とエズミーが言った。そうだった、と僕はすぐに思い出した。昨夜、彼女が話してくれたんだ。それが頭をすり抜けるみたいに抜け落ちてしまったことを気まずく思い、他にも忘れてしまったことがあるんじゃないか、と頭を巡らせた。たしか、彼女にはミドルネームがあったはず。
「私はなぜ子供が言葉を話すのに苦労したり、全く話せなかったりするのか、その理由を調べてるの」とエズミーは続けた。「多くの自閉症の子供たちとか、学習障害のある子供たちと一緒に働いていると、時々凄く悲しい気持ちになるわ。子供の親と会う時なんか特にね。だけど大抵は、私自身の励みにもなるし、素晴らしい仕事よ」
僕はもぞもぞと彼女に近づいた。ベッドサイドのテーブルに置かれた芳香剤入りの容器から、バニラとハッカの香りが立ち込めていて、ベッドの彼女の側に近づくと、その香りも強まった。
「どうやってその道に入ったの? 子供の言語とか、そういう世界に」
「大学では国語を専攻してたんだけど、中でもどのようにして言語が発達していくのか、ということに一番興味を持ったの。それで、幼少期の言語発達について研究して修士号を取って、そこから色々始まった感じね。最初の仕事はセント・バーツ小学校だったわ」
「今も学校で働いてるの?」
「学校の仕事もしてるし、NHS、つまり国民保健サービスの仕事とか、こまごまと色々よ。ほんと色々」
「それは素晴らしいね」と僕は言った。「大事な仕事だ。ほら、僕みたいに、パブやバーでしか演奏機会がないギタリストとは違って」
エズミーが笑った。
「あなたはあなたのやり方で変化を起こそうとしてるのよ、きっと」
「僕もそう思いたいよ」と僕は言った。「じゃあ、君は医者とかじゃないの?」
「ただのセラピストよ」
「かっこいい」と僕は言いながら、少し気が散っていた。自分がセラピストと対峙した時の記憶が急に頭に浮かんできたのだ。―そんなに目立たない都会風のタウンハウスに入っていくと、立派なオフィスが並んでいて、ふっくらとした大きなソファーが置かれているのが目に入る。NHSのオフィスは、中でも機能重視な感じで、プラスチックの部屋といった印象だった。しっくい塗りの壁には剥がれ落ちそうなポスターが何枚か貼られていて、インフルエンザの予防接種や、髄膜炎や、喘息についての注意を喚起していた。
「あなた大丈夫?」とエズミーが聞いてきた。意識が飛んだような僕の無表情に気づいたらしい。
「大丈夫。それで、ルール3は何かな?」
「えーとね」
「もしかしてさっきから、今考えながら適当に作ってる?」
「違うわ!」とエズミーが言った。その言い方がむしろ、違わない、と言っているようだったから、僕の口元はゆるんでしまう。「ルール3はね、私には嫌いな言葉があって、嫌いっていうか、それを使う人を軽蔑してるんだけど、―holibobs、nom、foodieみたいな、意識高い系の言葉は使わないでちょうだいね。普通に祝日って言えばいいのに、holibobsとか言ったり、普通に食べるって言えばいいのに、nom nomとか言い出したり、美食家アピールに、食べ物のことをfoodieって言ってみたり、そういうのを聞くと、むかむかするの。フルーツスムージーのボトルの側面に印刷されてるような言葉よ。もし使ったら、私たちの間に亀裂が生じるでしょうね」
「聞いたこともない言葉ばかりだな」
「冷蔵庫にリストを貼ってあるわ。ローラが嫌いな言葉も入ってるから」
「マジで?」僕はA4サイズの紙に、赤ペンで怒ったように、それらの言葉がなぐり書きされているのを思い浮かべてしまう。
「ほんとよ。そういう言葉を使った者には、地獄にそれ相応の場所が用意されてるんだから」
「それ相応ってスムージー地獄とか?」と僕は言ってみた。
「あなたはこう言いたいんでしょ。何を言われたって、しょせん言葉だろって。文字通り相手を殺したくなるほどの言葉なんて、この世にないって」
「いや、なんていうか、僕にも嫌いな言葉はあるよ」
「たとえばどんな?」
「さあ、何だろう? ちょっと思いつかないな」
「じゃあ、もっと真剣に考えて」
「わかったよ」と僕は言いながら、頭の片方で言葉を探した。「あ、見つけた。僕はあれが嫌い。時計を見て、『ワインの時間だ』って言うやつ。何時だったとしても、その台詞言っただろって思っちゃう」
「それはウエッてなるね」
「でも僕は、そういうことを言ったからって、必ずしもその人が嫌いになるわけじゃないよ」
「べつに嫌ったっていいのに。自分だけいい人ぶってずるいわ。冷蔵庫のリストにそれも書き加えちゃおうかしら」
「ぜひ、むしろ光栄だよ。ねえ、聞いてもいいかな? そういう、ある種の言葉に対する嫌悪感って、何か理由があったの?」
「一緒に働いてる同僚にそういう女性がいるのよ。四六時中そんな言葉ばっかり使ってて、アンジーっていうんだけど、彼女が近くにいると、歯がゆいっていうか、ほんとイライラする」
「さっきの言葉も聞いたことなかったけど、彼女のことも聞いたことないな」と僕は言いながら、アンジーという女性を勝手に思い浮かべていた。少し太りぎみで、ブーツを隠すようにベルボトムのジーンズを穿いていて、何かのスローガンが書かれたTシャツを着ているんじゃないかと思った。
「それが一番ね。私も見ず知らずの他人だったらよかったのに」とエズミーが言った。
僕は笑った。まだ灰色のカーテンは閉じたままで、マグノリアの花のような淡いクリーム色をした壁とカーテンの隙間から、朝の日差しがひっそりと差し込んでいた。その光の筋は、光沢のあるオーク材の床を照らし、ちょっとけばけばした青と白のストライプの絨毯まで伸びている。絨毯の上には、昨夜僕が穿いていたジーンズが脱ぎ捨てられていた。その光景は、この状況の異常さを改めて物語っていた。僕は他人のベッドで頻繁に目を覚ますような人間ではないし、エズミーも、必死になってこういうのは珍しいことだってアピールしていたから、僕と同じなのだろう。ということは、気持ちが高ぶった二人が、思い余って突発的に起こしたあやまち的なことなのか? それとも、二人が本気で、真剣に望んで、こういうことになったのか? どちらなのか、すぐに答えはわかるだろうと思った。エズミーが掛け布団をめくり上げ、寝たまま腕を頭上に上げて伸びをする。彼女はパジャマ代わりにグラストンベリー・音楽フェス2005のTシャツを着ていて、ちょっとめくれ上がったそのTシャツを直している。一昨年の6月、あの野外フェスに誰と行ったのだろう?
「もう一つ」彼女がこちらを振り向き、そう言った。彼女の茶色の瞳に見つめられ、僕の目は吸い込まれそうになる。これから彼女に見つめられるたびに、こんな風にドキッと胸が締めつけられて、目から全身に、じわっと癒しが広がるような喜びを感じることになるのだろうか? 「ルール4は真面目なものよ」
「真面目中の真面目? それとも僕をおちょくってるの?」
「真面目中の真面目」彼女はベッドの上で身を起こしながら言った。横になったまま、お互いに目を見開き、じっと見つめ合って話すような内容じゃないわ、とでも言いたそうだった。
「オーケー」僕も身を起こす。
「私は、あなたのこれまでの歴史とか、大きな出来事とか、どこ出身とか、そういうことを今すぐ知りたいっていう気持ちはないの。でも、これだけは知っておいて。私は嘘が大嫌い。浮気は絶対に許さない。中にはそういうことを乗り越えられるカップルもいるんでしょうけど、私には無理。交渉の余地なしだと諦めてね」
「君の言う通りだよ」
「勘違いしないで。あなたがそういうことをしそうって言ってるわけじゃないの。ただ、最初にはっきり言っておいた方がいいと思ったのよ。過去にそういうことがあって、私の家族も巻き込んで、私と家族の仲が悪くなるくらい大変だったから」
「それはお気の毒に」
「いいのよ。もう昔のことだし。でも、そういうことっていつまでも引きずるのよね?」
「たしかに、引きずる」と僕は言った。言ってから、次に何を言えばいいのかわからなくなってしまった。沈黙が二人の間に舞い降り、僕が戸惑っていると、エズミーが話を引き継いでくれた。
「私は前から思っていたんだけど、大きな問題になる前に話し合えば、それがどんな問題であれ、きっと抜け出すことができるんじゃないかしら。どんな問題とはいっても、あなたが何かの常習犯とかじゃない限りね」
「えっ。それってあれのこと...」
「嘘でしょ? っていうか、やっぱり。さっきあなたの目の中を覗き込んでみたら、何かやましいことが見えた気がしたのよね」
「実は二年前から、拳銃を片手に強盗を繰り返してるんだ」
「ウエッ」
「いや、失敗してひどい目にあって、もうこりた」と僕は冗談めかして、ベッドから降りるそぶりを見せた。すると、エズミーが僕の腕を掴み、僕を彼女の隣に引き戻した。
「私が言いたいのはね」彼女はどうしても話題を戻したいらしい。「もしそんなことが私の身に起きたら、私は見て見ぬふりをするみたいに、そのまま付き合っていくことはできないって前からずっと思ってたのよ」
僕はうなずいた。心配しなくてもそんなことは起きないよ、と言いたかったけれど、僕はそう言う代わりに、彼女にキスをした。―絶対的な約束ではないとしても、暗黙の了解としてのキスだった。唇が離れると、すかさずエズミーは話を続けた。
「じゃあ、その次の段階を考えましょう」
「はい?」
「結婚よ」と彼女が言った。
「これってそういう関係じゃないよね? セックスしたから婚約したとか、まさか言うつもり? 君がキリスト教のカルト的な宗派に入っていて―」
「そうじゃなくて、実際、真逆よ」エズミーは掛け布団を見下ろしたままで、僕の目を見ようとしない。「こんなこと言ったら頭がおかしいって思われるでしょうけど、先に知っておいてほしいの。私は絶対に結婚したくないのよ」
「絶対に?」
「そう、絶対に。私は本気で言ってるのよ、トム。プロポーズされるまでは「絶対に結婚しない」とか言ってるような女の子たちとは違うの。私は絶対に絶対にしないタイプってこと。こんな話を持ち出すのは早すぎるっていうのはわかってる。だけどね、中にはふざけた男がいるのよ。私がそういうタイプだってわかった途端、アングリーになるような男が」
「そうなんだ」としか言葉が出てこなかった。いきなり結婚の話題が出てきた時点で少し驚いていたけれど、その理由を聞いて、啞然としてしまった。「大丈夫。僕はそういうタイプじゃないよ。落ち込むかもしれないけど、怒ったりはしないから」
「それでもいいのね?」
「まあ、それでもいいよ。僕はまだ結婚とか、そういう長期的なことは考えたことがないんだ」と僕は言った。その裏にはいくつかの原因がひそんでいることを、僕自身わかってはいた。
「よかった」とエズミーがほっとした様子で言った。「あなたがそれでもいいのなら、私は安心よ。私は気が気でなかったから。といっても、ほとんどの人とは心配するポイントが違うんだけどね」
「ルール5」と僕は彼女の手を取って言った。「結婚はしない」
「いいわ」とエズミーが笑顔で言った。「ところで、もし私がキリスト教のカルト的な宗派に入っていたらどうする?」
「おお、そしたら、僕も入らないといけなくなるよね?」
エズミーが笑って、こう言った。「ロマンチックなのね」そうして、焦りのない沈黙が二人の間に舞い降りた。僕は満ち足りた気分で、ここに至るまでのいきさつを振り返っていた。
一昨日、パーティーで出会った僕らは夜中の3時に一緒に帰った。僕は彼女を自宅まで送り、中には入らず玄関先で別れた。その時に、11時間後の午後2時に〈セント・ジェームズ・パーク〉で会いましょう、と待ち合わせの約束をした。僕は意気揚々と家に帰り、寝ようとしたけれど、気持ちが高ぶったままほとんど眠れず、ファーストデートに出かけたんだ。公園では池の周りを歩きながら、売店でコーヒーとアイスクリームを買った。二人でベンチに座って、それを食べながら、ペリカンやアヒルやガチョウが水面でたわむれているのをしばらく眺めていた。
それから、僕が参加しているコピーバンド〈トップ・ガンズ〉が、その日の夜、ケンティッシュ・タウンにある〈ヤギとブーツ〉という名のうらぶれたパブで演奏すると言ったら、彼女が見に来てくれた。僕は演奏しながらずっと彼女の方を見ていた。彼女は立ち飲み用のテーブルに向かい、脚の高い椅子に軽く腰かけていた。彼女の目の前では、酔っ払い達が『Chelsea Dagger』や『I Predict a Riot』などの歌に合わせて踊っていて、彼女は物珍しそうにその様子を眺めていた。シンガーは一人で悦に入り、バックで伴奏している僕たちなどそっちのけで、それらの曲を熱唱していた。
演奏が終わり、次にエズミーに会えるのはいつになるだろうか、また今夜も悶々とした眠れない夜を過ごすのだろうか、などと思いながら楽器をしまっていたところに、エズミーが近寄ってきて、なんと、タクシーで彼女の家に行きましょうと誘ってきたのだ。驚きを隠せないまま、タクシーで彼女の部屋に到着すると、僕らはそっと忍び込むように彼女の部屋に入り、そのまま彼女のベッドの上に二人で倒れ込んだ。そして十代の若者みたいな不器用さで、お互いの体をまさぐった。オレンジ色の街灯が薄手のカーテンを通り抜けて、ベッドの上をぼんやりと照らす中、僕たちは遠慮がちにお互いの洋服を脱がしていった。セックスは緊張していて、途中で挫折してしまった。30分後に2度目の挑戦をして、1回目の失敗から学んだ教訓を胸に、その分ましなものとなった。
何もかもがめくるめくような速さで進んでいた。今年はまだこういうことはしてはいけないと自分自身に言い聞かせていたのだが、周りの人たちからも、しばらくはこういうことからは遠ざかって、今年はゆっくり過ごした方がいいと助言を受けていたのだが、自分を抑えられなかった。
しかし、これが正しい行いだったとしたら? エズミーがちょうどいいタイミングで僕の人生に現れ、そして僕もちょうどいいタイミングで彼女の人生に登場したのだとしたら? 今朝、目覚めて感じた心地良さ、彼女が隣にいることのときめき、こんな希望に満ちた朝は、もう何年も過ごしていなかった。もしかしたら、とうとう僕はぴったりの相手を見つけたのかもしれない。今までの長い年月、自分にしっくりくる人生をあれこれ模索してきて、やっとたどり着けたのかもしれない。
そうして今、朝のピロートークが一段落した頃合いで、僕は僕自身のことをいくつか彼女に話しておいた方がいいと思った。予め彼女は知っておいた方がいい事柄。知る権利がある事。だけど、せっかくいい雰囲気なのに、ムードを台無しにしてしまうのではないか。僕たちは今、幸福感に包まれている。僕は今、幸せだ。それに、時間はたっぷりある。もしこの先も彼女と付き合っていくことになるのなら、僕の問題を話すタイミングはいくらでもあるはずだ。今じゃない。
「わかったわ。もう真面目な話はおしまい」とエズミーが言ってくれて助かった。脳内ディベートにけりが付いた。「ルール6もあるんだけど、知りたい?」
「あといくつあるかによるね」
「これが最後の一つよ。約束する。でも、たぶんこれが一番大事なこと」と彼女は言った。「ルール6、今日みたいに一緒のベッドで一晩を過ごした翌朝は、必ずあなたが最初に起きて、紅茶を入れてちょうだい。私の紅茶はミディアム・ストロングにしてね。キャラマックのチョコレートみたいなクリーム色になるくらいの濃さよ」
「ちょっと待って」と僕は言った。「もし僕の中のルール1が、お茶を入れるのはいつも君っていう方針だったらどうする?」
「まあ、見た感じそれはないでしょうね。ただ、もしそうだったとしても、この事に関して最初に言い出したのは私なんだから、そういうこと。お願いね」
「たしかにそんな主義はないけどさ。ってことは、そうだな、たとえば50年一緒に過ごすことになったとして、毎朝僕が君に紅茶を入れ続けるってこと?」
「そうよ。50年後は、私は70代半ばだから、その頃には誰かがホームヘルパーロボットを発明してくれてるといいんだけどね」
「僕が足を骨折したら?」
「ティーメーカーを買えばいいじゃない。旅行用の水筒と、スティックシュガーとミルクをベッドわきに置いておくの。っていうか、あなた、昨夜の私との絡みで足を骨折したの?」
「いや、してないけど」
「ならいいじゃない。あなたはもうキッチンがどこにあるかわかってるんだから、ほら...」
「今? 文字通り君の部屋に初めて入った初日から?」
エズミーがうなずいた。彼女はいたずらっぽく微笑んでいた。
~~~
〔新たな登場人物〕
アンジー:エズミーの同僚、意識高い系女子
ローラ:エズミーの同居人
上の階の住人:正義感が強い or エズミーに惚れてる or ローラに惚れてる or 藍みたいに誰でも大好き。笑
〔途中の感想〕
いやー、書く順番が素晴らしい! この順番で書かれたら、絶対にパーティーから直行でエズミーの部屋に行ったと思っちゃう!! 小説の特性を最大限に活かした、藍をうならせる小説だ。
小説の醍醐味は時間がかかるところにあって、小説の中の世界では3分くらいであっても、読むのに3日かかったりするわけです。その間にあれこれ考えることこそが、藍をつかんで離さない「やみつきポイント」なのです。藍の人生と照らし合わせながら、いろんな可能性に思いをはせる...
〈キャラマックのチョコレート〉

要するに、このくらいの色になるまで、紅茶にミルクを入れて! という命令です。笑
〈ケンティッシュ・タウン〉

トム(僕)が住んでいるカムデンから、少し北へ行ったところです。
〈セント・ジェームズ・パーク〉

エズミーが住んでいるピムリコから、ちょっと北へ行ったところにあって、ペリカンやアヒルやガチョウがいるみたいです。エズミーの家からは近いので、待ち合わせ場所には最適ですね💙
~~~
「ティーバッグはガスコンロの横の食器棚にあるわ。ミルクは冷蔵庫よ。マグカップはカップ掛けにかかってるおしゃれなデザインのを使って。Darling Daughter(可愛い愛娘へ)って書いてあるカップはだめよ。もしそれをあなたが使っちゃったら、ローラは一目散に上の階へ駆け上がって、クリケットのバットを借りてくるでしょうね。ああ、それとちゃんと服は着てから行ってね」僕が裸のままベッドから出ようとすると、彼女がそう言った。すきま風がかすかに入ってくる室内はひんやりしていた。
僕は絨毯の上に脱ぎ捨てられていたジーンズを拾い上げ、服や本が山積みになっている椅子の下に僕のシャツが滑り込んでいるのを見つけた。僕はそれを着ると、振り返った。エズミーはベッドの上で座ったまま、こちらを見ていた。ベッドサイドのテーブルに置かれた、金管楽器を思わせる色味のアンティーク調の丸い目覚まし時計の針が、7時45分を指していた。
「とてもセクシーだわ」と彼女が言った。僕は鏡に向き合うと、ぼさぼさの茶色い髪を手荒く撫でつけて、どうにか人前に出れるくらいには整えた。「キッチンへ行くだけなのにそんなにかっこつけちゃって、いったい誰に会いたいのかしら?」
「なんかいちいち面倒臭いな」と僕は自分の自尊心を保つために言った。「それと、僕はまだ僕のルールを君に言ってないからね」
「あなたにルールなんてあるの?」
「ルールといえるほどのものはないけどさ」と僕は寝室のドアを開けようとしたところで、言った。「でも質問ならある」
「私たちの関係はどういう関係だとか、そういう質問じゃなければ聞いてもいいわ。さっきの話は早すぎたのはわかってる。でもね、私はただ―」
「そういう質問じゃないよ。僕はこういう...名前のない関係に満足してるし」
「なら良かった。じゃあ、なんでも聞いて。どうぞ、トム・マーレイ」
「僕たちは金曜日に出会ったんだよね」
「そうね」
「土曜日の早朝って言った方が正しいかな」
「そうかもね」
「それで昨日の昼間、再び待ち合わせして...なんていうか...デートした」
「したわ」
「そうすると、それって僕らのファーストデート? それとも二度目のデートになるのかな?」
「いい質問ね。あなたはどっちだと思う?」
「ちょっと」と僕は言った。「君に聞いてるんだよ」
「いいわ。じゃあ、私は二回目と言いたいわね。だって、ほら...そっか、ファーストデートの延長戦って感じかな」と彼女は周りの布団を手でいじりながら言った。「わからないわね。あなたが私のカップを持ってきてから、紅茶を飲みながら決めましょう」
キッチンには誰もいなかった。僕はこの1日半の間の出来事を思い返していた。アリのパーティーで思い切ってエズミーに声をかけた瞬間から、今に至るまでに起こったすべてのことを。ありえないくらい、驚きの連続で、素晴らしい1日半だった。そういえば、まだアナベルに知らせていなかった、と思い出した。この後彼女にメールしなくちゃな。彼女はエズミーが僕を受け入れるわけないとか言ってたけど、間違ってたじゃないか、と単刀直入に言ってやるつもりだった。もちろん、彼女は僕の言うことを認めないだろう。やめておいた方がいいと言うかもしれない。でも、彼女にはこの関係がどういうものかわからないんだ。
お湯が沸騰してきて、やかんがカタカタと音を立て始めた。その時、玄関のドアが開いて、バタンと閉まる音がした。それから、廊下をきしませる足音がこちらへと近づいてきた。ほどなくして、キッチンは一人で物思いに耽る空間ではなくなった。
「また君か」
まだ外が暗かった時間に、ここで出会った金髪の女の子だった。今回の彼女はジョギングでもしてきたらしく、体にぴったりフィットしたレギンスを穿き、レギンスとひと続きのタンクトップを着て、「サンデーテレグラフ」の新聞を脇に抱えていた。ローラだ。昨夜、彼女のことはある程度エズミーから聞いていた。彼女は駆け出しの政治記者で、エズミーによると、「骨の髄まで完全に保守党員」らしい。さらに、彼女のスタイルは、キャメロン首相の妻、サマンサ・キャメロンをお手本にしている、とも言っていた。それにもかかわらず、ローラは素敵な人よ、とエズミーは言って僕を安心させた。
「おはよう」と僕は明るく言って、マグカップからティーバッグを持ち上げ、一旦スプーンの上に置いた。
「受け皿なら、流し台の下の棚にあるわ」
「ああ、ありがとう」
「なるほど。彼女はもう君に紅茶を入れさせてるんだね」
僕は微妙に笑って、言った。「ローラだよね?」
「そうよ」
「僕はトム」
「また会えて嬉しいわ、トム。昨夜はあんな大事になっちゃってごめんなさいね」
「もういいよ」
「家まで押しかけてくる人ってだいたい紳士ではないですからね。おわかりでしょ」と彼女は堅苦しい言い方をした。わざとそういう言い方をして、逆に堅苦しく張り詰めた空気感を和まそうとしているようだ。
「本当にもういいよ」と僕は言いながら、最後に僕の部屋に誰かが泊まったのはいつだったか、と振り返っていた。1月だ。イズリントンのパブ〈Hope and Anchor〉でライブがあって、それまで3ヶ月くらい「ガーディアン・ソウルメイツ」のサイトでやり取りしていた子が、ライブを見に来てくれたんだ。翌朝は、良い言い方をしても、静かで気まずい朝だった。
「君にも何か入れようか?」と僕はローラに聞きながら、頭を振ってジュリー(ジュリアだったかな?)のことを忘れようとした。
「大丈夫よ。私は自分で入れるから」
彼女は高そうなコーヒー豆が入ったガラス瓶を棚から取り出した。瓶の正面には、マーカーペンで「ローラ専用」と書かれている。彼女はエスプレッソマシンのフィルターをすすぎ始める。
「じゃあ、あなたが仮装パーティーの人だったの?」とローラが聞いた。「彼女からメールで聞いていたんだけどね」
「たぶんそうだと思う」
「そうすると、2回目のデートになるの? まだ1回目が続いてるとか、聞かない方が良かった?」
「実は今、その話をしてたところなんだけど、今のところ、まだ決まってない」
「まあ、どっちにしても、うまくいったってことでしょ」と彼女はコーヒー豆をコーヒーメーカーに入れながら言った。「私はエズミーのことをよく知ってるからね」
「そうだといいんだけど」僕は紅茶が入ったマグカップを二つ両手で持ちながら、彼女の言葉が正しければいいな、と期待した。エズミーの寝室に戻ろうとした時、ローラに名前を呼ばれた。
「はい?」
「聞いて。私は今までこんなことを言ったことはないし、他人にあれこれ口出しして...ああしろこうしろって指示を出すようなタイプじゃないのよ」と彼女は言った。エズミーから聞いていた彼女のジャーナリストとしての評判から考えると、かなりがさつな言い方に思えた。「でもね、これだけは言わせてちょうだい。彼女には優しくしてあげて。エズミーは親切で、他人に対して思いやりがあって、賢い女の子なの。もしあなたが彼女に優しくしてあげれば、きっと彼女は、あなたが今までに出会ったことのないような最高の親友になれるわ」とローラは鋭い視線で僕を見つめながら言った。「彼女をよく知る人が言ってるんだからね、信じて。いい?」
僕はうなずいた。
「よし」と言って、ローラは突然振り返り、自分の朝食を運び出した。狭い船内の厨房のような、真っ白なキッチンの端に置かれた薄っぺらいダイニングテーブルの上に、彼女はコーヒーを運んでいく。「それじゃあ、またそのうちね」
ベッドルームに戻ると、エズミーがカーテンを開けたようで、窓から朝日が差し込んでいた。ベッドの後ろに掛かっているロイ・リキテンスタインが描いたポップな版画、賃貸住宅の少し汚れた灰色のカーペット、松の天然木で作られた木目調のたんす、ノートパソコン、積み上げられた本、木の形をしたアクセサリーハンガーには過剰なくらい大量のジュエリーがぶら下がっている。そういったものすべてが朝日にまばゆく輝いている。細長い寝室の隅には、両開きの扉が一つ付いたワードローブがあって、そこに今にも倒れそうな形で僕のギターが立てかけてあった。彼女の全身鏡には、昨日彼女が着ていた緑地に小さな花が散りばめられたドレスが掛かっていて、鏡の半分以上を隠している。昨夜二人でベッドに入る前に、掛けたものだ。
窓も少し開いていた。エズミーの部屋の窓辺には、ちらほらとロンドン鳩が集まっていて、くぐもった鳴き声を響かせている。近くのヴォクスホール・ブリッジ・ロードからは、車の走行音や人々の話し声がハミングのように僕の耳に届く。太陽は輝いていて、ピムリコに建ち並ぶ白と黄色のレンガ造りのタウンハウスの屋根を明るく照らしていた。窓の外に見える木々のてっぺんが揺れていて、そよ風が頬をなでる。完璧な一日の始まりだった。
エズミーはベッドに座って、白い歯を見せてにっこりしていた。僕は彼女の隣に座り、マグカップを差し出した。彼女はそれを受け取らず、両手で僕の顔を挟んで引き寄せると、僕の唇にチュッとキスをした。
「幸せ?」と彼女が聞いた。
「幸せ」と僕は答えると、ベッドの頭部に背をつけて、まだ少し熱すぎる紅茶を一口すすった。
「結構時間がかかったわね」
「またローラに会ったんだ」
「あらまあ。彼女、何か言ってなかった?」
「特には」と僕は噓をついた。「何も言ってないよ。ただおしゃべりしてただけ」
「ローラは誰ともおしゃべりなんてしない人よ。彼女は一方的に話すだけで、相手には何も言わせない。まあ、たまにはね、彼女の機嫌が良ければ、相手の話を聞くこともあるにはあるけど、めったにないわ」
「機嫌はいいみたいだったよ。ほんとに」
「それで、あなたはどっちだと思うの?」
「ああ、デートの件ね。ファーストデート、かな。二度目のデートって呼ぶには、間に1日かそこらの間隔は必要だと思って」
「じゃあ、11時間は、単なる休憩?」
「まさにそんな感じ」
「まだ36時間のファーストデート中ってことね」
「そうだね」
「まあ、私もそれでいいわ」
「よかった」と僕は言って、エズミーに彼女の紅茶を手渡した。そして、彼女の目の中を覗き込んだ。自分の人生がこんなにも急変するなんて、僕はまだ信じられずにいた。まさか夜中の2時半に、ストックウェルのパーティーがぐだぐだになって、流れ解散的に幕を閉じようとしている時に、エズミー・サイモンと出会うことになるとは思ってもみなかった。ロンドンの南部へテムズ川を渡って、彼女を家まで送ることになるなんて。しかも、彼女がその日のうちにまた僕と会いたがるなんて。予想だにしないことの連続だった。その中でも予想外のリストの最上位に位置するのが、6月下旬の明るく晴れ渡った朝に、エズミーのベッドで目覚めたことである。僕は彼女に恋をしている、そうはっきりと、決定的に実感した。
「でも一つ質問がある」とエズミーが言った。
「どうぞ」
「記念日はどうするの? 一日を引き伸ばすの? 二日にまたがる? それとも―」
「それは来年になったら、また考えよう」
「そうね」とエズミーは言うと、ベッドの上で腰をずらして、僕に近づいた。「私たちには、時間はたっぷりあるしね」
チャプター 3

この時計の絵は、エズミーのベッドサイドのテーブルに置かれていた目覚まし時計の絵だということが、チャプター2の後半で判明しました♪リンリン
ロンドン動物園の東側にトムは住んでいまして、
そこから北へ行ったところにハムステッドはあります。というか、あるっぽいです。笑

午後9時~10時
最高の自分自身を
2007年10月 — ハムステッド、ロンドン
~~~
〈チャプター 3の登場人物〉
ニール:昔とは変わった。
パドレイグ(愛称はパッド):ローストフト在住。仕事でロンドンに来ている。
トム・マーレイ(僕):おなじみのトム
アナベル(愛称はアニー):おなじみのトムの連れ
自然と笑みがこぼれちゃうくらい、『1日でめぐる僕らの人生』と『ダッシュとリリー、その隙間に気をつけて』が色々リンクしていて、嬉しい!笑←そりゃ舞台が同じロンドンなら、色々かぶってくるだろ!笑
~~~
「おい、9時ぴったりだぞ」とニールが腕時計のデジタル表示を見ながら言った。「彼女はどこだよ?」
「もうすぐ来るよ」
「もう30分もそう言ってるじゃないか。本当にお前が言うような、そんなにキラキラした素敵な恋人が実在するのか、あやしくなってきたな」
「黙れ、ニール」と僕は言った。
「アニーは彼女に会ったことがあるんだろ?」とニールがアナベルに聞いた。アニーというのはアナベルの愛称だ。
「そうね。何度か会ったわ」
「何度か?」
「トムが彼女と付き合い始める前に、何度か」とアナベルは言って、〈ギネスブラック・ラガービール〉を一口飲んだ。
「ふーむ」ニールはドラマの探偵を真似るように顎を撫でた。「トムがパーティーでその子に一目惚れして、それから空想しすぎて、勝手に新しい情人だって思い込んでる可能性は十分にありえるな」
「情人?」と、パドレイグ(愛称はパッド)がニールに聞き返した。
「スラングだろ? 昔は恋人のことをそう言ってたんだよ」
「そんな言葉聞いたことないぞ。少なくとも俺の知る限りでは、ない。昔ってどれくらい前だよ?」
「知らん」
「友達や同僚に恋人ができるたびに、『情人とはうまくいってる?』とか聞いてたら、頭がどうかしちゃったと思われるだろ」
「まあ、俺は頭がおかしいからな」とニールは返した。そして彼は、テーブルの真ん中に置いてある花瓶から花を一本を引き抜くと、自分の髪の毛に当てがった。
「あなたはアホなのよ。頭がおかしいのとは全然違うわ」とアナベルが言った。ニールはそう言われて数秒間黙り込んだが、注意されて少しだけしゅんとしたわがままっ子のように、またすぐにしゃべり出した。
「いずれにしてもだ。お前たちは、俺の理論にはかなりの信ぴょう性があることを認めざるを得ないんだよ。このトム・マーレイは、夢でその女に会ったんだ。逢瀬を重ねたのも夢の中だろうな。そして、こうしてハムステッドのしゃれたバーに俺たちを呼びつけた。夢の中の彼女を紹介するから、と言ってな。もう、あと10分もしたら、どうせこいつはこう言い出すぞ。携帯の画面を見ながらメールが届いたふりして、『彼女は仕事で来れなくなっちゃった』とな。あるいは、『彼女が働いてる研究室で爆発騒ぎが起きた』とか言い出しそうだな」
「彼女が働いてるのは研究室じゃないよ、ニール。彼女は病院とか学校で働いてるんだ」と僕は弱々しい声で言った。小学校時代の記憶が蘇る。―僕はニールに繰り返し、からかわれ、おちょくられ、いじめられた。ニールは僕の頭を両腕でヘッドロックし、拳で頭をぐりぐりやりながら、くだらないことを僕に認めさせた。校長には金玉がないとか、要するにゲイだとか、そういうことだ。でも、それは14歳の時に、ぴたりと止んだ。アナベルが、ニールと僕に打ち明けたのだ。要するに彼はゲイだと。「少なくとも、バイセクシャルみたいなんだ」とアナベルは言った。それからというもの、ニールは同性愛擁護派になった。当時は90年代半ばで、まだそういうことを大っぴらにはできない時代だったけれど、学校でみんながホモを小馬鹿にしても、ニールは一人立ち上がって、アナベルをかばう側に回ったのだ。
「同じことだろ」
「どこが同じなんだよ?」と、僕はせせら笑った。
「研究室、病院。どっちも理系で、白衣を着てるだろ」
「じゃあ、学校は?」とパッドが言った。
「知的ぶって細かいことにこだわるな」
「学校といえば」と僕は言った。「時々思うんだけど、僕らがまだこうして友達でいられるのは、同級生の中でロンドンに引っ越してきたのは僕らだけだから、なのかな?」
「ローストフト出身のロンドナーなら、他にもベン・メリウェザーがいるぞ。ベンとつるめばいいだろ」とニールが言った。彼はこの話題が持ち上がるたびに、その名前を出してくる。ローストフトから首都に最初に上京してきたのはニールだから、ロンドナーとしては彼が先輩だった。彼はインターンシップからそのまま銀行の職を得て、こちらに移り住んだのだ。続いて、両親と衝突して家を飛び出したアナベル。それから数年後、二人とは全く異なる理由で、最後に僕が引っ越してきた。
僕は何か言い返そうと思ったが、やめておいた。ニールみたいなタイプと議論しても埒が明かないのだ。彼はいつも正しいし、たとえ彼が間違っていても、適当に事実をでっち上げて、いつの間にか彼に有利な方向へ話を持っていかれてしまう。
「僕が言いたいのは、君が僕らをここに引きずり込んだってことだよ―」とだけ僕は言った。
「ニール、あなたは5分で行ける範囲内に住んでるでしょ」とアナベルが言った。
「俺が住んでるゴルダーズ・グリーンは地下鉄で10分はかかる。バスだと15分だぞ。それはともかく、パッドがはるばるローストフトから来てくれたんだ。お前の夢の彼女を一目見ようってな!」
「いや、俺はちょうどロンドンにいたんだよ」とパッドが、無邪気さと困惑が入り混じった口調で言った。「仕事でこっちに来てたんだ。っていうか、俺がこっちにいるから、今晩みんなで会うことにしたんじゃなかったの?」
「ニールの言うことは無視していいのよ」とアナベルが言った。
「そりゃお前はいいだろうな。すでに彼女に会ってるんだから」とニールが返した。
「いずれにしても、トムが私の忠告に従って、彼女と付き合ったりなんてしなければ、私たちがこうしてここに集まることもなかったし、あなたもゴルダーズ・グリーンで、馬鹿みたいに飽きもせず、Xboxで遊んでいられたのよ」
「それはどうも。PS3だけどな」
「どっちだっていいのよ、このゲームオタク。私はちょっとタバコを吸ってくるわね。まったく腹が立つわ、パブでもうタバコが吸えないなんて、一体どんなふざけた時代よ。トイレでおしっこの臭いを嗅ぎながらタバコを吸っても、ちっとも美味しくないわ」彼女はそう言いながら、テーブルから立ち上がった。僕はもう一度携帯を見た。エズミーは違う店に行ってしまったのかもしれないと思った。あるいは彼女から、今夜は行けなくなった、とメールが来ているかもしれない。
しかし、受信画面はさっき見た時と同じだった。
トム:ハムステッドの〈ロスリン・アームズ〉っていうパブなんだけど、どうかな?😘
エズミー:わかるわ。じゃあ、スペイン語のレッスンの後で会いましょう😘
僕はさらに他のメッセージを送ろうかとも思ったけれど、もうすでにたくさん送ってしまった。
大丈夫?😘
何かあった?😘
そして、何気ない感じで、それとなく必死さを醸し出しつつ、こうも送った。
今晩来れるかどうか知らせてくれないかな😘
これ以上何か言えることがあるだろうか?
エズミーは僕との関係を考え直したのだろうか? 付き合い始めてから3ヶ月以上経っていた。もしかしたら、クーリングオフというか、やっぱり止めましたってことか? 前にもこんな経験あったな。―僕はその兆候に気づいていた。先週、彼女は映画に行こうという僕の誘いを、土壇場になってキャンセルした。僕はそのお返しに、パブで演奏した後の週末、いつもだったら彼女の部屋に泊まりに行くんだけど、行けない、と言った。そして、今度はこれだ。
「さっきのはどういう意味だ?」とニールは、アナベルがいなくなってから、僕に聞いた。「彼女の忠告って何?」
「ああ」と僕は言った。彼らには言いたくなかったが、僕が言わなければ、アナベルに聞くだろうし、彼女はさらりと答えてしまうだろう。「なんていうか、付き合わない方がいいって。つまり、エズミーと。アナベルは心配してるんだよ、あんな事があったから」
「なんで? そのエズミーって―」
「いや。そういうんじゃない。彼女のことじゃなくて、僕自身のことだよ。アナベルはまだ早すぎるって思ってるんだ」
「でも、うまくいってるんだろ? つまり、そのエズミーと」とニールが言った。僕は彼と長い付き合いになるから、彼の物腰が昔とはだいぶ変わったことがわかる。声の感じとか、話ぶりも違う。からかったり、おちょくったりすることがなくなり、代わりに、似つかわしくないほどの真剣さが前面に押し出されることがある。まさに、今のこの感じだ。
「うまくいってるよ」と僕は答えた。「アナベルは...ただ心配してるだけだよ。ほら、君ならわかるだろ? わかんないけど、たぶん彼女の言うことにも一理あったのかな」
「どういう意味?」
「要するに、彼女の忠告は正しかったってことだよ。早すぎた。わかんないけど。僕は頭で考えてただけだから」
「おい、トム。しっかりしろよ。お前が言ってることを総合すると―」
「僕が言ってることを総合すると、彼女は僕の夢の中の人ってことかな」
「それでもいいだろ。それのどこが悪いんだ?」
僕は一瞬考えた。何も悪くないな。エズミーとの関係は初めから信じられないものだった。初めて会った時から、急激に僕らを引き付ける、抗えない力が働いていた。その引力に身をまかせるように、あれよあれよという間に、僕らの関係は完璧なまでに進展した。
では、急に押し寄せてきたこの疑念や不安感は何なのだろう? 僕はなぜ、彼女が現れないのは僕のせいだと理由を探しているのだろう? 僕は前にも似たような経験をしたことがある。―誰かと友達や恋人になっても、僕は少しずつ、友情や恋人関係の土台となるはずの石を削ってしまうのだ。そして基盤はいつしか音もなく崩れ落ちる。僕の場合、絆を破壊するのに、何か大きな、ドラマチックなことをする必要はない。僕は今、エズミーにも同じようなことをしているのだろうか? そうは思いたくなかった。
「何も悪くない、と思う」僕はようやく言った。ニールが再び話し出そうとしたが、僕はそれを阻むように先に言った。「実は数ヶ月前から、ロンドンを離れようと思っていたところなんだ。どこか他の場所で心機一転、再出発しようと」
「エディンバラ?」
「そうだね。どこでもいいんだよ、ほんと。どこか新しい場所で、新しい空気を吸ってすっきりしたいんだ。アナベルには話したけど...」
「君はいっつも同じようなこと言ってるな。もう50回くらい同じような計画を聞いたぞ」とパッドが言った。
「そうかもしれない。でも今回はいつも以上に真剣だよ」
「そうか?」と彼は目を細め、疑い深い眼差しを向けてきた。
「そうだよ。もうネットでアパートとか、色々見てるんだから」
「俺だって暇さえあれば、ネットであちこちの部屋を見てるよ。だからといって、俺はそこに引っ越すわけじゃない」
「要は、ここから出て行くときの準備だよ。今はまだ、僕はここにいて、エズミーと一緒にいて、僕は―」
「幸せ?」
「僕は将来の忠誠を誓ったと思っていたんだけど...」
「将来の忠誠とか、そんなのまだ早いだろ。トム、今のお前は幸せか? エズミーと一緒にいて、どうなんだ?」
僕は少しの間、口をつぐんで考えてみたが、答えは明白だった。
「まあ、そうだね」
「それで、お前は彼女を愛してるんだろ?」
僕はそれには答えずに、ただうなずいた。彼らと知り合ってから、もう20年近くになるけど、正面切って愛がどうこうとか、真剣に恋愛について話したことは一度もなかった。ニールが大学生の時に、ガールフレンドにプロポーズするとか言っていた時も、空気はもっと軽かった。(結局、ニールはその恋人と、卒業して3週間後に破局した。)
「オーケー。じゃあ、いったい何が問題だっていうんだ?」とニールが言った。彼のがさつさがどんどん前面に押し出されてくる。「お前は幸せで、相思相愛の恋愛まっただ中にいて、それなのに、ロンドンに留まっているのが間違いだとか思ってるわけか。何の魅力もない辺ぴな場所にずらかろうとしてるわけだな」
「ニール、エディンバラは何の魅力もない辺ぴな場所じゃないよ」
「それはそうかも知れんが。ポイントはそこじゃないだろ。何をためらってるんだ?」
「僕はそういう性格なんだよ。知ってるだろ? いつだって僕が何かに自信を持って決断できたことなんてなかったじゃないか」
「たしかに、一度もないな。でも今回だけは、お前は一世一代の決断をしたんじゃないか。俺にはそう思えるぞ」
ニールはそう言うと、ビールをゴクゴクと飲み干した。そこへアナベルが戻ってきた。彼女は席についてからも、横目でバーテンダーを睨み付けている。口いっぱいに含んできたタバコの最後の煙を吐き出しながら、最近急速に広まりつつある禁煙令にあからさまにむかついている様子だ。
「まだ連絡ないの?」と彼女が聞いてきた。
「まだないけど、きっともうすぐ来るよ」と僕は言った。伝え方がちょっといけなかったかな、と思い始めていた。何人かの友達と会うんだ。君も一緒に来てくれたら最高なんだけど。というのは、表現として軽すぎたかもしれない。もっとはっきりと、大切な予定であることを伝えるべきだった。
「それで、何の話をしてたの? 」
「このマーレイくんと、そのエズミーさんの話をしてたんだよ。なんかこいつが、全部間違いだった、みたいなこと言ってためらってるからさ、思い切って突き進めって励ましてたんだ」
「僕はためらってなんか―」
「ほんとに?」とアナベルが言った。
「ためらってないよ」
「トム、大丈夫?」
「大丈夫だよ」と僕は言った。年季の入った木製のテーブルの端にはろうそくが立っていて、ぼんやりと辺りを照らしている。その明かりを見つめながら、僕はダイエット・コーラを一口飲んだ。
「トムが言うには、お前の言うことにも一理あったとさ。急ぎ過ぎたかもって」
「ほらやっぱり。私の言った通りじゃない」
「俺はそうは思わんな」とニールが言った。「こいつはここ何年かで最高に幸せそうだよ。こいつの傷だらけの人生が、やっと報われたって顔してる。だったら突き進むべきじゃないか?」
「まあ、あなたの意見はそうなんでしょうね」とアナベルは言った。「でも私はまだ早すぎるって心配してるのよ」
「僕はもう大丈夫だよ」と僕は言った。
「わかったわ」アナベルが真剣な表情で僕を見つめてくる。「一つ質問があるの。彼女にはもう話したの?」
彼女にそう聞かれたとたん、僕は黙り込んでしまった。僕は答える代わりに記憶の中に沈み込む。何度もエズミーに話す機会はあった。口の先まで出かかったけれど、その瞬間にことごとく、僕は言葉をのみ込んでしまった。つい最近も、今夜の逆の食事会があった。ソーホーでタイ料理を食べながら、エズミーの友人たちに紹介されたのだ。
あの時は僕が遅刻した。テーブルを取り囲む女子たちはみんな外で働いているようだったけれど、僕はその日ほとんど家にいたから、遅刻の言い訳ができなかった。(1時間ばかり、プリムローズにある邸宅にお邪魔して、豪華なリビングでそこの息子にレッスンはした。僕がいつか買える日が来ることを夢みていたギターを、その息子は買い与えられていたが、大して興味もなさそうだった。)
僕がようやくレストランに到着すると、エズミーと友人たちはすでにテーブルをぐるりと取り囲み、会話に花を咲かせていた。僕は一瞬入り口のところで躊躇して、彼女たちの様子をうかがった。彼女たちは僕が到着したことに気づいていないようだった。僕は急いで心を落ち着けて、緊張を隠した。こういう食事会には慣れていないのだ。全体的にとても大人な雰囲気が漂っていた。人生に大きな問題を抱えていない人たちの集まりだと思った。僕は自分がこういう雰囲気に向いているのかどうか、彼女たちの中に割って入ってもいいものかどうか、確信が持てなかった。
僕は気を取り直して、テーブルに向かって歩き出した。iPodの停止ボタンを押すと、「彼が来たわ!」という甲高い声が耳に飛び込んできた。
「カラ」とエズミーが子供を叱る学校の先生のように言った。甲高い声の女子はカラという名前らしい。「彼は着いたばかりなんだから、そんなに急かさないであげて」
「なんで彼の顔がわかったんだ?」とカラの隣の男が聞いた。
「フェイスブックで見たのよ」とカラが言うと、他のみんなは「あんなのやってるの?」と言うようにうめき声を上げた。「えっ? もうみんなやってると思ってたけど」
「あんなのやるわけないじゃない!」と別の女子が言った。彼女はタイの漁師みたいなダボダボのズボンを穿いていて、髪を細かく編み込んで垂らしていた。エズミーが言っていたフィリーだと、ぴんと来た。彼女は1年ばかり、東南アジアをめぐる旅に出ていて、最近帰ってきたらしい。旅先でのんびり、アジア(と彼女自身)を見つめ直してきた、という話だった。
「どうしてよ?」とカラが言って、フェイスブックの功罪についての軽い議論が始まった。彼女たちは簡単に居場所などが特定できてしまうことの善悪についてあれこれ言い合い、(知り合いの中で誰がフェイスブックを始めたかを教え合っていた。)僕はまだ突っ立ったままだったが、彼女たちの注意が自分から逸れたことに、ほっと胸をなでおろした。僕はテーブルの奥に座っているエズミーに視線を投げかけた。おそらく僕の居心地の悪さを察知してくれたのだろう、彼女は立ち上がると、僕の腕を取って、彼女たちの輪の中に僕を導いてくれた。
「遅くなってごめん、エズ」と僕は彼女の耳元でささやいた。僕たちは結婚披露宴で入場する新郎新婦のように、彼女の友人たちに見守られながら席につく。「馬鹿げているように聞こえると思うけど、本当に何を着ていけばいいのかわからなくて、迷ってたんだ」
「あなたはシャツを3着しか持ってないでしょ」
「そうなんだけど、3着のうちどれを着ればいいのかわからなかったから」
「あなたは素敵よ」と彼女が僕の手を握って言った。「どれを着たって、あなたはいつも素敵」
エズミーが僕を連れてテーブルを回り、彼女の親しい友人やその恋人を一人ずつ紹介してくれた。それは良かったのだが、僕はYさんを紹介されている時にはすでに、Xさんの名前を忘れているという有様だった。
8人のうち、僕が覚えられたのは、エズミーの「ここだけの話よ」で始まる内緒の話によく出てくる人たちだけだった。彼女のルームメイトのローラはすでに知っていた。それから、ジャム。―彼女はエズミーが大学時代に知り合ったケニア人とのハーフの女の子で、ジャミラを縮めてジャムと呼んでいた。
「ジャムは再開発が進みそうな地区に住みたがってるの。それで実際に近くの道路で工事が始まったら、美味しいコーヒーと焼きたてのパンを楽しみながら、窓の外から聞こえる騒音に文句を言いたい子なのよ」とエズミーは、親友であるジャムの人となりを、その核を成す部分にずけずけと入り込んで行くような切り口で語っていた。
そして、マーティン。彼はエズミーが一番親しくしている男友達だと聞いていたから、紹介されるまでは若干身構えていたのだが、実際に会ってみると、思わず僕はにやけてしまった。彼はかなり太っていて、ぎとぎとした長い髪の男だった。しかも、そこはおしゃれなレストランだったにもかかわらず、彼はウォーキングブーツにカーゴパンツを穿き、『シンプソンズ』のアニメキャラが描かれたTシャツを着ていたのだ。
僕が落としそうになるほど重いボトルをつかんで自分のグラスに水を注いでいたら、僕に直接、質問が投げかけられて、ちょっと水をこぼしてしまった。
「トム、あなたはカムデンのどの辺りに住んでるの?」とジャミラが聞いてきた。
「鍵かけ橋の近くに〈ロック〉っていう音楽スタジオがあって、そのすぐそば。大した場所じゃないよ」
「その辺りに住んでる人を知ってるわ。いいところだけど、観光客が多いって言ってた」
「そんな感じかな。僕は昼間はあまり外出しないから、日帰り客で賑わってるところに出くわす、なんてことはないけど」
「ロンドンに来てどのくらい?」
「もうすぐ4年になるね。元々はローストフトに住んでたんだ」
「そこってウェールズの方?」飛んできたその質問に僕が答えようとしたところ、テーブルの端から声が上がった。マーティンだった。彼がグローブをはめた手を伸ばしてボールを横取りするみたいに、横から割って入り、僕の代わりに答えてしまった。彼の喋り方は、だるそうで、どこか恩着せがましい感じだったが、彼はいつでもどこでも誰に対しても、そういう喋り方をするんだと、だんだんわかっていった。
「フィリー、ローストフトは東だよ。海岸沿い」
「ウェールズも海岸沿いよ」という返事が返ってきた。
「あなたはミュージシャンだってエズミーが言ってたけど?」とジャミラが言って、僕の注意を彼女の方へ引き戻した。
「えー、かっこいいー」と別の女の子が声を上げた。彼女の名前はたしか、ソフィー、クロエ、シボーンのどれかだったと思う。
「ミュージシャンっていう響きほど、かっこいいものじゃないよ。僕は音楽を教える方がメインだから」
「じゃあ、音楽の先生なの?」と彼女が言った。
「まあ、近くの学校で少し教えてることは教えてるけど、音楽の特別講師だし、どっぷりと先生って感じじゃないよ」
「そうなの?」と、その女の子は少し混乱したように言った。
「それ以外は、お金持ちの家の子供に個人レッスンをしたり、あとは、いくつかのバンドを掛け持ちで、ギターとかキーボードを弾いてる感じかな」
「そこそこ有名なバンド? 私たちの耳にも届くような」とローラが言った。相変わらず、質問をする時の彼女の口調には、手厳しさが滲んでいる。一瞬、僕に対する嫌悪感がそうさせているのかと思ったけれど、彼女は常に、ジャーナリストとしての本分から完全には離れられないのだと気付いた。誰かに何気ない質問を投げかけるだけで、相手を心底パニックに陥れてしまうほど、彼女はどっぷりとジャーナリストなのだ。
「たぶん誰の耳にも届いてないね」と僕は言った。なんとか僕の話題から、違う話に持っていきたかったのだが、この夕食会が、そもそも僕と会って僕を知ることを唯一の目的として開かれたことを考えると、それは難しかった。「結婚披露宴で演奏するバンドとか。あと夏に時々、〈スーパーソニック〉っていうオアシスのトリビュートバンドで代役を務めることもある」
「噓でしょ? 私はそのバンドを見たことがあると思う」とカラが割って入った。「何年か前に知り合いに連れられて行ったのよ。あなたがあの時、舞台上にいたノエル?」
「いや、違うと思う。ノエル役はもう一人いるんだ。僕は年に数回しかライブに出ない。いつもの二人が出られない時だけね。ほとんどのライブでは、その二人がノエルとリアムを演じてる。あの二人は髪型もぴったりなんだよ」
「ノエルって歌わない方でしょ? 誰も見てない方って言った方がいいかしら」
「そう。だから僕も楽な仕事なんだ。―ポロシャツを着て、1時間かそこら、笑顔を封印して、ニヒルにギターをかき鳴らしてればいいだけだから」
僕の話を聞いていた何人かが笑ってくれたので、僕は少し自信を取り戻した。すぐに別の話題が立ち昇りテーブルを席巻し出すと、僕はようやく話の中心から解放され、ほっとした。フィリーがギャップイヤーを利用して海外旅行に行った話をすれば、ローラも同じような体験をしたけれど、泊まったユースホステルがことごとく居心地の悪いところだったらしく、「私のギャップイヤーは散々だったわ」と言って、フィリーの思い出話を打ち消していた。
ようやく、僕もその晩の雰囲気になじんできたと思った矢先、僕が恐れていた質問を浴びせられた。答え方を心得てはいたが、それでもその質問をされるたびに、僕はうろたえてしまう。誰にも気づかれないことを願っていたが、彼女たちは気配り上手でずっと僕に注意を払っていたから、やはり気づかれてしまった。そうして僕は、この新しく友人になれるかもしれない人たちに対して、初めて嘘をつくことになった。
「あら! ごめんなさいね、トム。あなたのグラスが空っぽになってるの気づかなかったわ。赤と白、どっちがいい?」とジャミラが言った。
「あ、ワインはやめとくよ。ありがとう」
「それじゃあ、ビールでもどうだ? これでよければ」とマーティンが〈シンハービール〉の瓶を掲げて言った。
「いや、遠慮しとくよ。ありがとう」僕は内心ひやひやしていた。「僕は今、錠剤を飲んでるから、一緒にお酒を飲むわけにはいかないんだよ。だからコーラだけで大丈夫」
「ほとんどの錠剤はお酒と一緒に飲めるのよ」とローラが主張した。「それってよくある誤解で、お酒と一緒に飲むと、吐いちゃった場合、薬も吐き出すことになっちゃうから、医者が飲むなって言ってるだけなの」
「なら吐くといけないから、僕はコーラでいいよ」
そう言いながらも、僕はみんなに嘘を見抜かれていると確信していた。こんな取って付けたような、薄っぺらい言い訳、言ったそばから見破られるに決まってる。こうして嘘をつくのは数ヶ月ぶりだった。もしかしたら1年ぶりくらいかもしれない。練習不足は否めず、ぎこちない言い方になってしまった。汗ばんだ手のひらをジーンズで拭って、トイレに逃げ込もうとしたとき、エズミーが体を寄せてきて、耳元でささやいた。「あなた、錠剤を飲んでるなんて一言も言ってなかったじゃない」
「錠剤なんて飲んでないよ」と僕はささやき返した。「そう言った方が手っ取り早いんだよ。単にお酒は飲まないことにしてるって言うと、変わった人だと思われるだろ」
「そんなこと思わないわ」とエズミーが言った。「私の友達はみんないい人よ」
「勘弁してくれよ。前にも似たようなことがあったんだ。お酒は控えてる、とか言うとすぐに、「それでどうやって楽しむつもり?」みたいな馬鹿げた質問が返ってくるんだよ。いちいちそんなやり取りしたくない」
「わかったわ」とエズミーが言った。僕の声から苛立ちを感じ取ったようで、彼女は僕から離れると、ローラを中心に繰り広げられていた会話に加わった。―会話というより、ローラが一人で、最近首相に抜擢されたばかりのゴードン・ブラウンについて、手ぶりを交えて熱弁をふるっていた。
その間、僕は一息ついて、気持ちを落ち着けた。断崖絶壁のふちに立っている気分だった。今はまだなんとか持ちこたえているが、いつ落ちるか気が気でない。今夜この会がお開きになるまで、ずっとこんな状態なのかと思うと、うんざりした。―ある時は注目の的になり、嵐が去った後は、冷や汗をかきながら、静かにみんなの様子を観察していた。―そんなこんなで午後10時になり、僕たちはようやく店を出た。ジャミラが「そこの角にパブがあるから行こう」と誘ってきたけれど、その誘いを断ると、僕とエズミーは腕を組んで、一団から離れていった。一瞬解放されたかに思えたが、気づけば、そこは新たな崖っぷちだった。
「大丈夫だった、よね?」と僕は聞いた。地下鉄のトッテナムコートロード駅に向かって、二人で歩いていた。
「良かったわよ、トム」
「うまく立ち回れたかな?」僕はエズミーに聞きつつ、自分自身にもそう問いかけた。
「上出来。でもどちらかというと、あなたが私の友達に気を配っていたというよりは、私の友達があなたを気遣っていた感じだったわね」
「わかってる。彼女たちはお互いに気を遣い合って、いい仲間って感じだった。僕が思うには―」
「お酒のことは何だったの?」と彼女が唐突に聞いてきた。
「お酒のこと?」
「錠剤を飲んでるとか言い訳してたでしょ。そしたら、本当は錠剤なんて飲んでないとか言って。どうして正直に、お酒は飲めないって言わなかったの?」
「だから言ったじゃないか。そういうと変に思われるっていうか―」
「でも、あなたは私にはそうは言わなかったよね?」とエズミーは言うと、握っていた僕の手を離し、地下鉄へ続く汚い階段をコツコツと踏み鳴らすように下りて行った。踏みにじられて、ぐしゃぐしゃになった『イブニング・スタンダード』の新聞紙をまたぎながら、彼女は言った。「あなたは私にこう言ってたわ。飲むと気分が悪くなるのが嫌だから、飲まないって」
「エズ」
「あなたはこうも言ってたわ。僕はビールやワインの味が嫌いだから、飲まない。それが本当ならそれでいいのよ。でも先月、あなたはラガービール味のノンアルコール飲料を飲んでたわよね。あなたの言ってることがころころ変わるのは何なの? 私はもう何が何だかわからなくなっちゃった」
僕は何も言えなくなり、自分を呪った。もっと気を引き締めて、言動に注意を払っておくべきだった。この種のことには根気が必要なんだ。
「ねえ、どうして錠剤を飲んでるなんて言ったの?」と彼女が追い打ちをかけてくる。「トム、なんで嘘をつくの?」
僕が答えようとしたとき、地下鉄のライトがトンネルのブラックホールをピカッと照らした。数秒後、列車がゴーッという音を立てて目の前に滑り込んできて、耳を突き刺すようなキーッというブレーキ音が鳴り響いた。駅員の不鮮明な声が、「扉から離れてください。扉から離れてください」と繰り返し、扉が開く。その夜はエズミーも北上する地下鉄に乗ってカムデン・タウンへ向かい、僕の部屋に泊まる予定だった。
地下鉄の到来によって会話が遮断されたことに、僕は感謝した。一方的に攻められ続ける会話が、一時休止を余儀なくされたのだ。先に列車に乗り込むエズミーの後に続きながら、僕は頭の中で考えをまとめていた。ピンストライプのスーツを着た太った男が寝ているのが目に入り、その横の席がちょうど二人分空いている。さらにその横には二人の少年が並んで座っていて、悪臭を放つアルミホイルに包まれたブリトーにかぶりついている。
エズミーが空いている席に全体重を投げかけるように腰を下ろした。夜も深まり、一日の疲れが相当足に溜まっていたようだ。僕も彼女の隣に座り、ボロボロの茶色い肩掛けカバンを足のふくらはぎとファンヒーターの隙間に置いた。どこへ行くにも常に持ち歩いている年季が入ったカバンだ。ファンヒーターから生暖かくて、かび臭い温風が吹き上がってくる。地下鉄の扉が滑るように閉まっても、僕は黙っていた。エズミーから何か言ってくれるのを期待しながら。
「飲みたくないのなら飲みたくないって言えばいいじゃない。そう言ったって誰もなんとも思わないわ」と、徐々に速度を上げる列車の中で、彼女は言った。彼女の口調は先ほどと打って変わって、柔らかくなっていた。憤りや漠然とした怒り、苛立ちといった感情は影を潜め、代わりに、共感や優しさ、広い心で受け入れようとする姿勢がはっきりと伝わってきた。
「わかってる」と僕は言った。
「じゃあ、なぜ錠剤を飲んでるなんて言うの? 味が嫌いとか言うの? お酒で何かあったのなら、話してよ。誰だって嫌な経験くらいあるわ」
「わかってる」
「トム、あなたは『わかってる』以外に何も言えないの?」
それに答える前に、僕は少し逡巡した。またこの感覚だ、と思った。僕の内面をどこまでさらけ出せばいいのか? 僕のどの部分を彼女に差し出せばいいのか? と問われている感覚。ただ、今回は考えがまとまるまで待っていられない。とにかく、何かを言わなければならない。
「あったんだ」と僕は言った。
「何があったの?」
「嫌な経験だよ。本当に嫌な経験を、何度かね」
「どんな? 吐いたとか? 気を失った?」
「まあ…そんな感じかな…両方とも、いっぺんにって感じ」と僕はどもるように言った。「とにかく、その種のことがあったんだよ」僕は再び手のひらに汗をかいていた。心臓がバスケットボールくらいの大きさまで膨れ上がり、肋骨を押し広げ、喉元を突き上げてくる。
「それでお酒をやめたの?」
「そう…たぶんそうだと思う。それで気づいたんだよ。わかるだろ? あれは…僕には合わないって」
僕がそう言い終えたところで、列車はユーストン駅に到着した。地下鉄を降りてからも、エズミーは黙り込んでいた。冷えた舗道に積もった雪のように、彼女は頭の中で言葉が固まるのを待っているようだった。ほんの少しの沈黙だったけれど、僕には何時間も続くように感じられた。エズミーの斜め後ろを歩きながら、僕はさらなる質問が飛び出してくるのか、それともこれで終わりなのか、と身構えていた。
「わかったわ」エズミーは静かにそう言いながら立ち止まると、僕の手を握った。「それは誰もが通る道よ。わかるでしょ?」
僕はうなずいてみせたけれど、本当はこう言いたかった。「違う。誰もが通る道なんかじゃない。君が経験したことと、僕がたどった『道』は全く異なるものなんだ。君は友達に長い髪を抑えてもらいながら、飲んだ酒を全部吐き出してしまった、とか、そういう酒に酔った夜の経験を言っているんだろ」と。
「飲まないなら飲まなくてもいいのよ、トム」とエズミーは続けた。「それはあなたが決めることよ」
「わかってる」と僕は言った。「ごめん、エズ。どうやら僕は、気にしすぎていたみたいだ…周りの人にどう思われるかって」
「それじゃあ、周りの人次第の人生になっちゃうでしょ? あなたの人生なんだから、あなたが道を選ぶのよ。他の人と同じ事はしないっていうあなたを誇りに思うわ。だからこそ、私はあなたを愛してる」
エズミーが僕に抱きつくようにキスしてきた。カムデンの冷えた路上で、しばらく僕たちは熱くキスを交わしていた。
☆
「トム、まさか言ってないの? バッカじゃないの」とアナベルは言って、手に持っていたパイントグラスを勢い良くテーブルに置いた。グラスからビールが飛び散るくらい、彼女は怒っていた。彼女が怒るのも無理ないな、と僕は思った。
「アナベル、僕は―」
「時々、あなたが本当に信じられなくなるわ」
「ほっといてやれよ、な?」とニールが言った。
「ニール、ただの風邪じゃないんだから、ほっといたって治らないのよ」
「いいか、こいつはまだ今の時点では、彼女に知られたくないと思ってるんだよ。だったら俺たちが口出しすることじゃないだろ。こいつだって時期が来れば、ちゃんと話すさ」
「ニール」
「この話題を持ち出すのは禁止な。それと、トムの元カノの話も禁句」とニールが言った。僕は不安な表情を隠すように、もう一度腕時計に目をやった。
「待て、禁句はないだろ。彼女がここに到着したら、さっそくトムの元カノの話で盛り上がろうと思ってたのに!」とポッドが言った。「あの時は大騒動だったよな。町全体でトム・マーレイを捜索したら、こいつは土曜日のバイトをさぼって、地理教師の娘といちゃいちゃ乳繰り合ってるところを発見されたんだ」
「ポッド、やめてくれ」と僕は言った。アナベルの苛立ちがますます膨れ上がるのを僕はひしひしと感じていた。
「あの話はどうだ? お前が案山子を盗んで、それにドレスを着させて、さも恋人のようにナイトクラブにこっそり持ち込もうとしたら、入口で止められた事件は?」彼は続ける。「あれもあったな、お前がパトカーに雪だるまを投げつけて、逮捕されそうになった事件は?」
「どれも言っちゃだめ」と僕は言った。「彼女には知られたくないんだ、僕がそんな―」
「嫌な奴だと思われたくないんだな」とニールが言うと、ポッドも笑い声を上げた。僕は俯いて口をつぐむ。
「まったく何がそんなに可笑しいのかしらね、お二人さん」とアナベルが、いたずらっ子をたしなめる教師のような口調で言った。
「ちょっとみんな、こういう話はやめてくれないかな?」と僕は意思を固めて言った。「今は大事な時期なんだ。なんか…最初にこういう人かなって思ってた人と違う、みたいに思われたくないんだよ。わかるだろ? まだ僕自身を少ししか見せてない段階なんだ。君たちもさっき、彼女とどんどん突き進めって言ってたじゃないか。僕だってそうしたいのはやまやまなんだよ。ただ、ちょっと自分自身をさらけ出すのが怖いっていうか、わかるだろ?」
幼なじみたちが一斉に静かになった。彼らは皆、僕が何のことを言っているのかわかっていた。5年前のあの夜に、僕の中の一部分は死んでしまったんだ。
「僕は彼女を愛してる。彼女も僕を愛してる。僕たちは上手く行けば、きっと素晴らしい関係になれる」
テーブルが静まり返る。軽口も冗談もすっかり消え失せていた。
「いいわ、トム。でもね、心の底ではわかってるんでしょ。彼女にあの事を話さないってことは、あなたたちの関係が『上手く行く』助けにはならないのよ。早く気づいた方がいいわ」
「アニー、もういいだろ」とニールが僕をかばうように、再び間に割って入ってくれた。
「彼女が知らないままでもいいと思うの? ほんとにそれでいいと思うの?」
「それはトムが決めることだろ」
「あなたたちは付き合い始めてどのくらい?」と彼女が僕の方に向き直って、聞いてきた。
「もうすぐ4ヶ月になるけど」
「それで彼女は全く何も知らないの?」
「少しは話したよ。断片的に」
「断片的って」
「アナベル、ちょっと」
「それは間違ってると思う」と彼女が話す後ろで、店の扉が開いた。
「黙って」と僕は言った。
「黙らないわ、トム。もしあなたがこれからも彼女と上手く付き合っていきたいのなら、ちゃんと―」
「ほんとに黙って」と僕は固めた言葉を投げつけた。アナベルが辺りを見回す。「彼女が来たんだよ」と僕は言った。
チャプター 4


今回の舞台はベルサイズ・パークです。
プリムローズ・ヒルは高級住宅地で、トムの教え子が住んでいます🎸
(そして、ただ今、ダッシュがキーツハウスを抜け出して、ハムステッド・ヒースに迷い込んでしまいました...)
~~~
午前8時~9時
二人で一つの家庭を築くということ
2009年4月 ― ベルサイズ・パーク、ロンドン
目が覚めてからすでに1時間近く経っている。ガシャンというガラスが割れる音がして、唐突に覚醒の世界へ引っ張り出されたっきり、目が冴えたままだ。隣のパブで昨夜飲み空かされた大量の空き瓶を、ゴミ箱からゴミ収集車に積み込んでいる音だとわかったが、再び眠りの世界へ戻ることなど不可能なくらい、ひどい気分だった。隣を見ると、エズミーはまだすやすやと眠っている。
だから言ったんだよ、と僕は思った。こういうことが起きる可能性を想定できなかったわけではない。
「窓ガラスが一枚張りで薄そうだし、〈エセックス・アームズ〉っていうパブから10メートルしか離れてないじゃないか、エズ」と僕は8週間前に言ったのだ。その時はまだ、二人で僕のワンルームの狭い部屋のベッドの上にいて、ついに一緒に住もうという話になり、引っ越し先を話し合っていた。「僕は本当に眠りが浅いんだよ」
「仲介業者の人が言うには、夜もパブの音はほとんど聞こえないそうよ」
「そう言ってる人は実際そこで何泊過ごしたと思う?」
「トム、お願い。ここにしましょうよ。ベルサイズ・パークにあって、しかも、私好みの年代物の外観と内装なのよ」
「壁も薄いし、隙間風が入ってきそうだし。それに、いくら年代物が好きっていっても、建物に入ってから部屋までの共有廊下は、まるで殺人鬼のすみかみたいじゃないか」
「あなたって、満足ってものを知らない人ね」と彼女が言った。
公正を期して言っておくと、僕は代替案を示していた。―ロンドンの中心街からは離れるけど、ハムステッド・ヒースの近く、フィンチリーロードの端にある部屋で、寝室が二つあって、窓からは線路が見える。線路にはネズミはいるだろうけど、繫華街みたいにハトはあまり見当たらない。正直言って、その部屋の唯一のとりえは静かなことだったが、静けさこそ、僕が住む家に求める最重要事項なのだ。ただ、ネットでこの物件を見つけた瞬間から、彼女は絶対に嫌がるだろうな、とはわかっていた。
一方、エズミーはたくさんの候補物件を示してきたが、どれも僕には似つかわしくないものばかりだった。マスウェル・ヒルという、ハムステッド・ヒースよりさらに北に行ったところにある部屋は、「ちょっと郊外に行き過ぎだね。〈ピザ・エクスプレス〉の支店が近くにないのが難点」と言って、僕は拒否権を行使した。彼女はカムデンの物件も示してきたけれど、玄関が大通りに面していたため、毎週金曜と土曜の夜には、酔っ払いが小便をかけていくと僕には予見できたので、却下した。彼女が示した中で唯一、完璧に思えた物件は、ウェスト・ハムステッドにある広々とした間取りの部屋だった。最上階にあって静かだし、ここなら、と同意するつもりでいたのだが、僕らが下見に訪れた際、薄気味悪い男が「隣に住む者です」と言って、挨拶にやって来た。彼が去ってから、僕たち二人は困ったように顔を見合わせ、その部屋もあえなくおじゃんになった。
その年の1月、僕らは週末になると、北ロンドンの不動産屋に出向き、部屋を探し回った。どの不動産屋も似たようなミニクーパーを所有し、僕たちを後部座席に乗せて、ぶっきらぼうな表情で小型車を走らせた。そして、薄汚い、まだ引っ越す前の人の荷物でいっぱいの部屋に案内されるのが、毎週末の常だった。
そんなこんなで、ようやく見つけたのがこの部屋だった。
エズミーとって、ここはようやく出会えた「運命の部屋」だった。僕にとっては、まあ今まで見た中では、最も「運命の部屋」に近かった。居心地よさそうで、家庭的でもあった。この二つはどちらも重要な要素だった。―というのも、エズミーと一緒に住むことを考えると、空恐ろしい気分になったからだ。二人で部屋探しを進めるうちに、その気持ちはますます大きくなっていった。
彼女はアドバンテージを(いくつも)持っていた。そのうちの一つが、ルームメイトと一緒に暮らしていた、という経験だった。彼女は、あの同居人との暮らしから、同居することの駆け引きのようなことをすでに学んでいたのだ。なんとかうまく一緒に暮らしていくために、お互いに口には出さないけれど、実践していくようなこまごまとした事だ。一方、僕はそのようなことを何も知らなかった。同棲すると決めてから、部屋を選び、その空間を共有するに至るまで、ありとあらゆる事が僕にとって初めての経験だった。
大学卒業後、2年くらい実家に戻って両親と暮らしたけれど、その期間を除けば、僕は同居とは縁がなかった。―まあ、ハートフォードシャー大学に入って、初めは学生寮に入れられた。他の7人の学生と一緒に、1970年代に建てられた古びた寮にキツキツに詰め込まれたわけだ。ベニヤ板と家具に塗られた安っぽいニスの臭いがきつく、高学年になって一人暮らしを許された時には、開放感でいっぱいだった。一方、エズミーは大学の寮で、またしても僕とはまったく違う経験をしていた。オックスフォード大学で英語の言語学を学ぶために3年間、ロンドン大学で児童言語療法士になるための実習に2年間、彼女の5年間の学生生活は、高等教育という名にふさわしい華やいだもので、彼女はその期間のあらゆる瞬間を愛していた。それは寮生との同居の日々でもあり、誰かと暮らすことは彼女にとって当たり前の日常なのだ。
結局、僕の恐れや不安や、もやもやとした気持ちは、クイーンズ・パークのスターバックスで解消されることとなった。ホットチョコレートを飲んでいたら、その湯気とともにふわっと、どこかへ消え去ってくれたのだ。いや、ホットチョコレートよりも、エズミーの言葉に救われたというべきだろう。僕たちは最終的に4つの候補まで絞り込み、その4つの物件リストを見開き1ページに並べるようにして、スターバックスのテーブルの上に置いた。僕が細かいことにいちゃもんをつけ、エズミーが反論する、という定番の会話が始まりそうだった。
「ねえ、あなたってほんとに一緒に住む気ある?」と彼女が聞いてきた。僕がつい、お金をかけて引っ越すくらいなら、あと何ヶ月か様子見で、このまま僕のアパートで暮らしていようよ、と提案してしまったのだ。
「そりゃ、もちろん一緒に住みたいよ」と僕は言ったが、またしても言えなかったことが二つある。家と呼んで慣れ親しんだ場所を離れるのが怖い、という事実。それから、エズミーと一緒に暮らすことで得られるはずの親密さ。後者はちゃんと言葉にして言うべきだった。
「それなら、あなたは二つの事実を乗り越えなければならないわね。どこに住んだって完璧な場所なんてないってこと。それくらいわかるでしょ、トム。それから、ここはロンドンなのよ。2年も住めば下衆(げす)な大家が家賃を上げて、結局どこかへ出て行かざるを得なくなるわ」
「それもそうだね...」
「だったら、いちいち重箱の隅をつつくみたいに、見てきた物件のあらさがしばかりするのはやめてくれないかな?」と彼女は続けた。僕の物件リストを見る目が、文句をつける気満々だったのかもしれない。まだ文句を言う前に、先に制されてしまった。「今まで見てきたどの部屋も、べつに大きな問題はなかったでしょ。あ、あのカムデンの部屋の、ドアにおしっこをかけられるっていうのだけは、問題だけど」
「わかったよ、エズ。もうあらさがしはしない」
「それで、あなたの中のもやもやは何なの? あなたのことだから、この状況にまつわるすべてに恐怖を感じているんでしょうけど。新しいことを始めるわけだし、今まで居心地いいと感じていた場所から出るのは、さぞかし怖いでしょうね。でも、それは自然なことなのよ、トム」と言って、彼女は僕の手を握った。「ジーザス、私だって怖いわ。神の名を呼びたくなる時もあるの」
「君も?」僕は驚いてしまった。彼女の告白は、二人の関係にすでに確立されていた前提構造に反しているように思えたのだ。つまり、僕の人生はぎこちなく不安定で、社会不適合者のそれ。一方、彼女の人生は健全でぐらつきがなく、しっかりとした未来の見通しも立っている人が送る人生、という大前提があったはずだ。
「もちろん、めちゃくちゃ怖いわよ。怖くないとしたら、逆に心に何か問題があるってことじゃない? あのね、トム。普通に生活してるだけだったら、同僚とか友達がどんな人か、ほんの20パーセントくらいしか見えないものなのよ。だけど、一緒に暮らすとなったら話は別。相手の100パーセントが見えるようになるんだから。可愛げがあるところも、みにくいところも、何もかも全部よ。たとえば、私があなたに来てほしくない夜があったとする。ジョギング用のジャージを穿いて、フェイスパックをしてたら、そんな姿見られたくないでしょ? だけど、否が応でもあなたはそこにいるの。気分がすぐれなくて、一人にしておいてほしい時も、あなたはそこにいる。ああ、なんてこと! 最悪のことに気づいちゃった。私たちは同じバスルームを使うことになるんだ! 想像できる範囲内で最も恐ろしい事態だわ」
「それはそうなるね...」と僕は、引きつった笑みを浮かべながら言った。
「誰かと生活を共有するっていうのは、まるごと全部を共有するってことなの。他の人に見てもらいたい部分だけじゃなくて、全部よ。だけど、他にどうしろっていうの?」
「君の言う通りだよ」と僕は言った。「君が正しいことはわかってる」
「よし。じゃあ、この中からひとつ選んで」と彼女は言うと、トランプの手品のように3枚の紙を手に持った。「今ちゃんと言っておくけどね、トム。私は、一緒に暮らして、なんてあなたにお願いつもりはないの。私はそんなことしない。あなたが選ぶのよ」
彼女の表情から、固い意志のようなものが感じられた。僕の内面の、どうしようもなく変化を恐れてしまう生まれつきの性分(しょうぶん)とか、そういうことを持ち出す時ではないと気づいた。エズミーは、単に住む場所を選んでほしいと言っているのではなく、二人の未来を確認したいのだ。これから長い年月を一緒に築いていける何かがある、と確かめたいのだ。僕たちの関係は、1年やそこらで、将来の話が出た途端に壊れてしまうようなものではない、と。
僕らはもう後戻りできないほどに親密だった。
「これにする」と僕は、ベルサイズ・パークのメゾネットタイプの集合住宅を指差した。「君がこれを気に入れば」
「気に入ったわ」とエズミーは笑顔で答え、「さっそく仲介業者に連絡しましょ」と携帯電話を取り出した。
そうして今、僕たちはここにいる。
エズミーはまだ眠っていて、外の騒音はどんどん大きくなっていく。スポーツカーの一団が朝一で週末のドライブに繰り出すエンジン音、バタンと閉まるドアの音、トラックがバックするピーピーピーという音、さまざまな音が混じり合い、1日が始まろうとしている。その時、上品そうなマダムの声が聞こえた。「ああ、ディグビー、そこにしちゃだめでしょ」ディグビーとは、彼女の飼い犬だろう。そして「そこ」が、僕らの新居の玄関ではないことを願った。
壁際にはまだいくつものダンボール箱が積み重なっている。北ロンドンのスーパーマーケットからくすねてきたダンボールには、スナック菓子の〈モンスター・マンチ〉や、洗剤の〈フェアリー・リキッド〉、〈ペディグリー・チャム〉といった商品名が書かれているが、中身は商品ではない。昨日、カムデンとピムリコの家から持ってきた僕とエズミーの全財産が入っている。僕らはワゴン車いっぱいにダンボールを積み込み、(その重さにハンドルを取られながらも、)なんとかここに運び込んだのだ。
目覚まし時計の針は8時30分を指していた。つまり僕が目覚めてから1時間半以上になる。その間、彼女はどんな物音にも動じずに眠り続けている。たぶんこれが、と僕は予見できた。これがずっと続くのだ。こんな感じで毎朝早くに目が覚めて、この雑音に慣れることはなくても、なんとか折り合いをつけて生活していくことになるんだ。今までもそうだった。壊れたドアベルや、きしむ床板のように、最初は気になってもすぐに忘れてしまう。そしてそこを去ってみると、そんな悩ましかったものが、なぜか妙に懐かしく思えてくるものだ。エズミーは胎児のように横向きに丸まって、ぐっすりと眠っている。羽毛布団を彼女の首と顎の間まで引き上げた。
僕は彼女を起こすことを諦め、ベッドから出ると、狭いリビングルームに入った。一応キッチンとは分かれていて、朝食を食べられるカウンターで仕切られている。プラスチック製の安っぽいダイニングテーブルが置かれ、他にも大家さんが予(あらかじ)め、一揃(ひとそろ)えした最も基本的な家具類が並んでいる。僕らの新居は、どこに目をやっても、まだカオス状態だ。キッチンの調理台には、昨夜テイクアウトしてここで食べた中華料理の残飯があり、チーズおろし器が3つ、やかんが2つ、穴開きボウルにいたっては4つもあった。―仕方ないことだ。僕らはそれぞれに物質的な生活を送ってきたわけで、それが合わさるとこうなる。
積み重なっていたエズミーの本を手に取って、パラパラと見ていると、彼女がリビングに、足を引きずるようにして入ってきた。彼女は赤いチェック柄のパジャマのズボンを穿き、上半身には、僕の大きめサイズの紺色のパーカーを羽織っていた。長い袖を肘までまくり上げている。
「おはよう」と僕は明るく言った。
「いつから私を起こそうとしていたの?」と彼女は寝ぼけまなこで言った。
「どういう意味?」
「ぶつぶつ文句を言ったり、音楽を口ずさんだり」そこで彼女はあくびをした。「ベッドの周りを歩き回ったり」
「なんだ、起きてたんだ?」と僕は言った。彼女は僕の頬にキスしてから、もう一度あくびをすると、髪の毛に指を走らせた。それから食器棚を開けて、何かを探しだしたけど、それはそこにはないものだったらしく、結局あきらめて冷蔵庫を開け、中からパンを取り出すと、トースターに入れた。
「うとうとしてたのよ」と彼女が言った。「ていうか、どうしてパンを冷蔵庫に入れておくわけ?」
「パンは冷蔵庫に入れておくものだよ」
「パン専用の入れ物があるでしょ」
「僕たちは持ってないみたいだね...」
「じゃあ、買うものリストに追加して」と彼女は言い、冷蔵庫にマグネットで貼られた紙を指差した。彼女はそこに現在不足していて、数日以内に必要になりそうなものを一つ一つ書き出していた。アイロン台、お皿を追加で何枚か、ティースプーン、バスマット。バスマットに関しては、床にタオルを敷けばいいじゃないか、と僕は反論した。しかしエズミーが、もうすぐ30歳になる女性として、学生や不潔な独身男性のような生活はしたくない、と再反論した。
「今紅茶を作ってるんだ」と僕は言った。「君は朝食を作りながらでも、仕事の続きをやればいいさ」
「いいえ、結構よ」と彼女が言った。「ルール6、覚えてる? それに、私は私の朝食を作ってるの。あなたはあなたで自分のことをやればいいわ」
「こんな感じがずっと続く感じ?」と僕は言いながら、彼女がコップ類専用として指定した棚から、彼女の色あせて少しふちが欠けた〈オックスフォード大学〉のマグカップを取り出した。「自分のことは自分で。それぞれに」
「あのね、目覚めたとき、私は自分がどこにいるのかわからなかったの」と彼女は、僕の発言を無視して言った。
「君はエズミー・サイモンだよ」と僕は皮肉っぽくゆっくりと言った。「僕はトム・マーレイ。そしてここが」手を広げて部屋の中を示しながら、「ロンドンのベルサイズ・パークにある僕たちの新居。今年は2009年で―」
「うるさい。バカ」彼女はそう言うと、トーストにマーマレードを塗り、お皿を持たずにリビングに持っていった。昨夜もお皿が見当たらずに、僕らは中華を、テイクアウト用のアルミパックから直接食べた。
彼女はソファに腰を下ろすと、トーストを一口かじった。僕は紅茶を、イケアの手狭なコーヒーテーブルの上に置いた。そういえば、これまで内見してきたどの賃貸住宅にも、似たようなイケアっぽい箱型テーブルが備え付けられていたな、と思っていると、彼女が紅茶の表面の色具合をじっくりと確かめている。僕が紅茶をいれた時の、彼女のいつもの所作だ。
「ここはひどい騒音の渦の中だって知ってるだろ」と僕は言ってみた。
「平気よ」
「毎朝、そこのパブから業者がビンを回収していくんだ」
「まだ引っ越してから、朝は1回しか来てないでしょ」
「じゃあ、毎朝ではないかもしれないけど、そこのパブから業者がビンを回収していくんだ」
「だから?」と彼女はソファから身を起こして言った。
「脳に響く。この世の終わりのような音なんだよ」
「大袈裟ね。メロドラマみたいなことを言うのはやめて、トム」
「外で話してる人もいて、結構うるさいよ」
「でしょうね。っていうか、人が話すなんて異常事態だわ。人が話してるんですって陳情書を書いて、評議会に訴えたほうがいいんじゃない?」
「犬が吠えたり。ランニングしてる人もいる」
「でしょうね。トム、あなたね、ここはロンドンなのよ。わかってる?」
「わかってる、けど―」
「あなたの前の部屋は4階だったって言いたいんでしょ。そりゃ通りから離れれば、その分静かになるのは当たり前でしょ」
「うーん」
「ここが気に入らないって言いたいの? もう?」
「違うよ! ただ僕は―」
「ここを見つけるのに、かなり時間がかかったものね」
僕は少しの間何も言えなくなってしまった。心に不安やもやもやはまだ残っていた。しかし、その部分は見ないようにすることが、彼女にとって、二人にとっても、重要なんだとわかっていた。
「エズミー、違うんだ。そうじゃなくて...僕はここに満足してる。ただ、ベルサイズ・パークにもっと人が少なければいいのにって」
「この辺に住んでる人はみんな同じことを考えてるでしょうね。それがロンドンなのよ。そうでしょ? 誰もが他の人の近くに住みたいとは思わない。けどね、誰だって近くに全く誰もいないところに住みたいとも思わないのよ」
「うーん、いまいちぴんと来ないな」
「ゆっくり考えなさい」とエズミーは言うと、腕を伸ばしてあくびをした。この議論は終わり、という合図らしい。
「あとね」と彼女が言った。「あなたはCDを持ってきすぎ。少し処分しないといけないわね。通りの向こうにリサイクルショップがあったから、持っていきましょ」
「わかったよ。っていうか」
彼女が「何?」と言った。『小説 A~M & 花瓶類(割れ物注意!)』と書かれたダンボールを、僕が指さしたからだ。
「ガラクタが多すぎるっていう話なら、君の本はどうなのさ? アルファベット順に4つの箱に分けるほどあって、しかもそのほとんどがもう読んだものだろ。なんで本はリサイクルショップに持っていかないの?」
「また読みたくなるかもしれないし」とエズミーは素っ気なく言った。
「本気で言ってる? 実際に読み返したことは、どれくらい...」と僕は言いながら、箱の中から適当に本を1冊手に取った。ジョン・グリシャムの『甘い薬害』だった。
エズミーが自己弁護するように何か反論してくるのがわかったので、僕はそれを遮るように先に言った。
「ついでに言えば、なんでジョン・グリシャムの『甘い薬害』なんて読んだの?」
「それは休日用ね! 先が気になってめくる手が止まらなくなる系は、休日に読むことにしてるの」
「ということはだよ。もう先がわかってしまった今となっては、つまり、今後この本を読むことはないって君は自ら認めてるようなものじゃないか。まあ、それこそ何かの小説にあったみたいに、スペインのマルベーリャとか、どこかのリゾート地で記憶を失いつつ、余生を過ごすことになれば、また読み返すってこともありうるだろうけど」
「そうね。言われてみれば、それはもう読まないかもしれないわね―」
「じゃあ、捨てよう!」僕はそう言うと、その本をリサイクルショップ行きの箱に投げ込もうとした。中には二人の要らなくなった物がたくさん入っている。この部屋に引っ越す前に、それぞれで処分すべきだった物たちだ。そこでエズミーが手を伸ばし、僕の腕を掴んだ。
「待って! 本をいつ捨てるかは、私が決める。あなたじゃない」
「だけど―」
「じゃあ」と彼女は言うと、僕のCDを1枚手に取った。ディレイズというバンドのアルバム『Faded Seaside Glamour(かすみゆく海辺の幻影)』だった。
「そ、それをどうしようっていうんだよ?」と僕は言った。
「取引よ。これとそれを交換、いい?」
「そんなのむちゃだよ」と僕は言った。
「CDなんて、今はもう価値がないのよ。あと2年もすれば、こんなの誰も持ってないわ」
「僕以外はそうかもね。そのレコードは残すよ」
「ちょっと、CDをレコードって呼ぶのはやめて。レコードはかっこいいけど、CDはくだらないガラクタよ」
「ちょっと、CDをレコードって呼ぶのはやめて」と僕は、声を裏返して、すねるような口調で繰り返した。
「子供みたい」とエズミーが言った。
「僕はそれをまた聞くかもしれない。けど君はこれを、もう二度と読まないってわかってるんだろ」
「そういう問題じゃないわ」
「問題はね、君が物を捨てるのが嫌いだってことだよ。たとえそれが全く役に立たない物であってもね」
「そっくりそのままお返しするわ」とエズミーが言って、CDを振り上げたから、僕は笑ってしまった。「何がおかしいの?」と彼女が聞いてきた。
「いや、なんかそのCDを僕の頭に投げつけようとしてるみたいだから」
「逆よ、あなたから遠ざけてるの。っていうか、あなたがその本を下に置かないのなら、投げつけるかもしれないわね」
「それはできない相談だね」
「いいわ。ならゲームで決着をつけましょう」
「いったい何を言い出すんだよ」
「お互いに、これは捨てた方がいいと思うものを一つ選んで、それについて質問をする。持ち主がその質問に正解すれば、それは残す。間違えれば、それは捨てる」
「僕が先に質問してもいいなら、いいよ」と僕は言って、ガンマンのメキシカン・スタイルに終止符を打った。なんだか二人のガンマンが銃口を向け合ってるみたいだったな、と思いながら、手に持った銃ではなく、本を裏返して宣伝文を読んだ。「余談だけど、君は即興で、こういうゲームを思いつくのが得意みたいだから感心したよ」
「そうなのよね。私がテレビ業界に入れば、この才能を遺憾なく発揮できるんだけど」と、彼女は僕のCDを持ったまま言った。
「わかった。じゃあ、『甘い薬害』の主人公は誰?」
「クレイ・カーター」とエズミーは、考えるまでもないわ、という感じで軽く答えた。
「なんでそんなことまで覚えてるんだ?」
「クレイ・カーターみたいな名前を忘れるわけないでしょ? はい、私の勝ち。その本は残す」
僕は仕方なく、ポイッとその本をエズミーのそばの床に投げるように置いた。そこには革張りのハードカバー版『くまのプーさん』や、サイン入りの『ハリー・ポッター』1巻から3巻までといった、〈残す/捨てる〉ゲームをするまでもなく、取っておく本が置いてある。
「私の番よ」とエズミーが言った。「このCDの3曲目のタイトルは何?」
僕は頭をひねったが、それらしいタイトルは何も浮かんでこなかった。何年か前にこのアルバムを買った時に聴いて以来、ずっと聴いていなかったのだ。正直に言えば、その時に最後まで全曲聴いたかどうかもあやしい。
「わからない感じ?」
「ちょっと待って」と僕は、一か八ばちか賭けてみる覚悟で言った。「えっとねー」
「5秒」
「エズ!」
「3。2」
「ちくしょう」
「1。さあ答えて」
「だめだ。パス。さっぱりわからない」
「答えは『Long Time Coming(やっとここまで来れた)』よ。知ってる曲?」
「ああ、それか。それはシングルカットされた曲なんだ。そのアルバムの中で唯一の、いい曲だよ」
「じゃあ、最後にもう一度聴いてみたらどう?」とエズミーは言って、自分の本とは分けるようにしてCDを置いた。そこに捨てるCDを重ねていくつもりらしい。「だってこれは売っちゃうから」
それからそのゲームを3回した。その間、僕はエリオット・スミスのアルバムと、ライアン・アダムスのアルバムを失った。一方、エズミーは、黄ばんでボロボロになったイアン・ランキンの小説を失った。何度も読み返したのかと思ったけれど、裏を見ると、古本屋の割引シールが貼られていた。しかもかなり前に潰れたチェーン店のシールだから、元からボロボロだったのだろう。それから、どうやらエズミーが、僕の好きなCDや、何かしらの思い入れがあるCDばかりを狙っていることに気が付いた。友人からのプレゼント、サイン入りのCD、限定版のCDにさえ手を伸ばす始末だ。
「このゲームは好きになれそうもないな」と僕は、ザ・ベータ・バンドの『The Three EPs』に入っている曲名が出てこなくて、このCDも失いそうになりながら言った。「僕はこういうのは下手くそみたいだから」
「楽しいじゃない」
「だろうね。君は本を一冊しか失っていないのだから」
「私はこの種のゲームの才能があるのよ」
「まあ、君が作ったゲームだからね」
「そうかもしれない。でもね、私のゲームには、どのゲームにもちゃんと、背後にメッセージが込められているのよ」
「このゲームのメッセージは、『トムの荷物を片っ端から片付けろ』だな」
「というか、『思い出と妥協』かしらね。二人で一つの人生を築いていく上で、それって重要な要素だと思うの。どの思い出を残して、どれを忘れるか、そういう折り合いをつけていくことが、二人でうまくやっていくコツなのよ」とエズミーが言った。「そう思わない? これから先、私たちの前には新たなことがどんどん押し寄せてくるのよ」
彼女がにっこりと微笑んだので、僕も微笑み返した。すぐ外の通りを大音量のカーステレオを響かせた車が通り、その重低音が去ると、子供たちの笑い声が聞こえてきた。犬が吠え、またトラックのバック音が聞こえる。近くに運送会社の車庫でもあるのだろう。これから、これらすべての音に慣れていかなければならない。慣れればきっと、ここがホームになるから。
「曲名すら覚えていないってことは、それだけの物なのよ」とエズミーは言うと、次にふるいにかける本を差し出してきた。「さあ、何でも聞いて」
チャプター 5
午後6時~7時
二人で過ごす初めてのクリスマスは秘訣に満ちて
2007年12月 ― ローストフト、サフォーク
アン・マーレイは、クリスマスにしか使わないグレービーソースを入れた食器を洗い流すと、トムに手渡した。この魔法のランプみたいな食器を使うことは、マーレイ家のクリスマスには欠かせない、伝統の一つなのだ。トムの父親のゴードンは、ブランデーと葉巻(クリスマスだけは家の中で吸うことが許されていた)を手に持っている。姉のサラと婚約者のネイサンは、音楽を選曲し、ダイニングテーブルをゲーム用にセッティングしている。トムとアンは洗い物をしながら、来年の抱負をお互いに語り合っている。
しかし、今年は何かが違っていた。クリスマスのランチを終え、洗い物をしているキッチンカウンターの前に、3人目がいたのだ。
「これはどちらへ置きますか?」とエズミーが聞いた。フルーツサラダを入れていた大きなクリスタルボウルを掲げている。エズミーがそれを振り上げたとき、母親が一瞬身構えたのをトムは見逃さなかった。
「その棚の一番上よ、エズミーさん。それ用の箱があるの」
トムは、重ねたお皿を食器棚に運んだ。そこには最高級の陶磁器類が保管してあって、今日それらをしまい込んだら、また来年のクリスマスまで使われることはない。一方、エズミーは流し台の前、アンの横に立つと、湿ったティータオルを手に取った。
「変な感じでしょ?」とアンが聞いた。「クリスマスに家族と離れて過ごすなんて」
「昨夜は二人で彼女の実家に泊まってきたんだよ」とトムが言った。
「わかってるわよ。でもクリスマス当日は今日でしょ」
「母さん、―」
「いいえ、全然そんなことありませんよ」とエズミーが割って入るように言った。きっぱりとした、それでいて丁寧な言い方だった。トムが「馬鹿なことを聞くなよ」的なことを母親に向かって、息子特有の憤(いきどお)った、イライラした感じで言うのを見越して、先回りしたようだ。
「私たち家族が、いい気分転換になってくれればいいんだけどね。そんなに変に思わないでちょうだいね」とアンは言った。マーレイ家は普通の家族よりも、まとまりがなく、手に負えない家族であると、アンは信じて疑わなかった。
「素敵な時間を過ごせています」
「あなたの家のクリスマスはどんな感じなの? 今頃、あなたの家族は何をしてるのかしら? まさか、何か知的なことをしてるとか言わないでちょうだいね。私たち家族は食べることしか能がないみたいに、ただ食べてグダグダしてるだけだっていうのに」
エズミーが笑った。「特別なことはしてないと思いますよ」と彼女は言った。「両親はハンガリー出身なので、前日のクリスマスイブの方が特別な夜なんです。なので、毎年イブはお祝い事をしていますけど、今日は散歩に出かけたり、映画を見に行くくらいだと思います」
「じゃあ、七面鳥のお肉とかは食べないの?」
「鯉(こい)だね」とトムが言った。
「どういうこと?」
「彼女の家では鯉を食べるんだ。川にいるやつだよ」
「こい?」
「彼の言い方だと、なんだかまずい食べ物みたいに聞こえますけど。でも、すごくおいしいんです」
「あなたも食べたの?」とアンは、少し驚いたようにトムに聞いた。子供の頃、パン粉をまぶした揚げ物ばかりを食べて、他の物はことごとく拒絶していた息子が、鯉を食べる姿を想像できなかったのだろう。
「食べたよ」とトムは言った。
「こい」とアンはもう一度呟いた。また少し信じられない様子だ。
「母さん、ハンガリーは内陸国だからね。つまり海に面していないってこと。だから、1匹のタラでも釣り上げるのが大変なんだ。網で一気にってわけにはいかないからね。貴重なんだよ」とトムは知識をひけらかすように、得意げに言った。実は1週間ほど前にエズミーが彼に言った、そのままだった。
「ジンジャーブレッド・クッキーも作ります。それを包んで、近所の人たちに配るんです。それからイブの夜に教会に行って、真夜中のミサに参加します」
「あら、あなたのおうちって...その...」
「信心深いってことですか? そういうわけでもないんですよ。ただクリスマスの讃美歌が好きなだけで」
「素敵よね。トムも連れて行ったのかしら?」
「いいえ」とエズミーは言って、トムに微笑みかけた。彼は昨夜、午後10時頃まで、ひき肉の詰まったロールキャベツや、ポピーシード・ケーキをたらふく食べて、テレビでクリスマスイブの〈トップ・オブ・ザ・ポップス〉をうつらうつら見ているうちに、肘掛け椅子に座ったまま眠ってしまったのだ。午前3時に目覚めると、毛布をかけられていて、テレビはすでに消えていた。「彼はパパと家で留守番してました」
冷えたリビングルームで目覚めたとき、不思議な感覚がした。なんだか自分の家にいるようだったのだ。今まで誰かの家に行って、そんな風に感じたことは一度もなかった。タマス・サイモンとレナ・サイモン(エズミーの両親)が彼を受け入れ、昨夜二人の話を聞かせてくれたからかもしれない。20代前半だった彼らは異国の街(ロンドン)で出会い、二人で生活を始めた。そういう話だった。彼らはクリスマスプレゼントもくれた。楽しい時間を過ごしているうちに、彼らの家族の中に引き込まれていったのだろう。
「他に何かお手伝いできることはありますか?」とエズミーは、ナイフやフォークをひと掴み、コンロの下の引き出しにしまい終えて、言った。
「あなたはもう十分に手伝ってくれたわ」とアンが言った。「さあリビングに行って、座っててちょうだい。仕上げは私とトムがやるから」
エズミーはティータオルをすすいで、しぼって広げた。赤鼻のトナカイのルドルフが描かれていた。小学生が描いたみたいな大雑把な絵だったので、トムの絵をタオルにプリントしたのかもしれない。彼女はそれをキッチンカウンターに置くと、トムと彼の母親がいるキッチンを後にした。
彼はラジオのつまみをひねって、周波数を合わせた。クリスマスの定番曲『ニューヨークの夢』がキッチンに流れだす。今年の冬もすでに何千回と聴いたような印象の曲だ。それから彼は、母のワイングラスにスパークリングワイン〈プロセッコ〉を、巨大なボトルを両手でかかえるようにして注いだ。食材でいっぱいの冷蔵庫には入らないということで、母が氷と冷水を入れたバケツに入れて冷やしておいたワインだ。
「それで?」と彼は言った。
「それでって何?」
「それで、どう思った?」
トムの母親が、彼から受け取ったオタマを持ったまま、一瞬動きを止めた。調理器具を立てておく円柱型の容器にオタマを立てると、バランスが傾いて容器ごと倒れる恐れがあるので、キッチンカウンターの引き出しにしまおうとしているところだった。
「彼女は完璧よ、トム。ほんとパーフェクト」
彼は微笑んで、ありがとう、と言おうとしたところ、その前にアンが、斜め上を見上げるようにして、エズミーの美点を挙げていった。
「彼女は賢くて、面白くて、彼女が近くにいると場が和むわね。ああ、それに、すごく可愛い子じゃない、トム。あなたが連れてきた子の中で一番じゃないかしら」
「彼女を気に入ってくれて嬉しいよ」
「あなたも好きなんでしょ」
「まあ、そうだね。もちろん」
「でも、私はそれ以上のことを感じたわ、ね?」と彼女は言った。彼女は何気ない感じで、さまざまな感情や意味合い、言外の含みを込めようとしているようだった。「私にはわかるの。彼女は違う。この子は、今までの子たちとは違うって。ニアムとも違うし、エマとも違う。あと、もう一人、誰だっけ? あのオーストラリア人の子」
「カーラ」
「そうそう、カーラ。エズミーは誰とも違う。何かが違う。お父さんもそう思ってる。あなたのお姉ちゃんも。それにネイサンもね」と彼女は、姉のサラの婚約者の名前も挙げた。
「ネイサン? 彼は何も知らないでしょ? 彼は最近うちに来るようになったばかりだし、エズミー以外の子たちには会ったこともないじゃないか」
「ああそうね。でも彼は、そうやって家族の中に含めてあげると喜ぶのよ、ね?」アンはそう言うと、ゴム手袋をパチンと勢い良く外した。「彼女の家族はどうなの? あなたはうまく溶け込めてるの?」
「いい感じだよ、うん。いい人たち。ほんと、すごくいい人たちなんだ」
「なんだか、あまり煮え切らないような言い方ね」
「そんなことないよ。僕を受け入れてくれて、昨日だってすごく楽しかった」
「不思議だったでしょ。前日のクリスマスイブに、こい、でお祝いだなんて」
「でも、それはいいことだよ。イブに彼女の家でお祝いして、クリスマスにうちでお祝いすれば、毎年両方の家族に会えるんだから」
「うーん」とアンは言いながら、食器棚に向かった。そしてガラス扉を開くと、エズミーが間違った場所に置いた食器を直したり、バランスを考えて、上に重なったものを下にしたりし始めた。
「何?」
「あなたの言い方が気になったのよ。毎年両方の家族に会えるんだからって」
「それが?」
「なんだか、これからもクリスマスを一緒に過ごすことが決まってるみたいな言い方じゃない」
「そうなるといいな、とは思ってるよ」とトムは言った。
その言葉が引き金となって、彼の思考が数年先の未来へと飛んだ。エズミーの実家で彼女の両親と一緒にいる、数年後の自分の姿が浮かんだのだ。一瞬、全く別の誰かの姿も見えた気がした。子供かもしれない。その存在を何よりもほのめかしているのは、玄関のそばに置かれた子供用のキックスケーターだった。トムは頭を振って、その想念をすぐに振り払った。そのようなことを考えるのはまだ早い。もしかしたら、そういうことは僕には向いていないのかもしれない。
「そうなるといいわね、トム。で、あなたはどう思ってるの? 彼女って...」アンは食器棚から離れると、調理台の上に手を伸ばし、薬指に指輪をはめる真似をした。
「いや、エズミーはそういうんじゃないんだ」
「そういうんじゃないって?」
「彼女は結婚が嫌いなんだよ。その考えを嫌ってる」
「どうして?」
「嫌いなものは嫌いなんだよ、母さん。どうして? なんて、そんなこと彼女に聞くもんじゃないよ」
「わかったわ」と彼女は言ったけれど、この問題を放っておくつもりはないわ、と示唆するような言い方だった。
「母さん」とトムが言った。
「なんだか悲しくなっちゃうわね」
「そういうことなんだから、仕方ないだろ」
「じゃあ、もうそのことについて話し合ったのね?」
「彼女が結婚には興味がないってことを確認しただけだけど」
トムには母親の気持ちがわかるようだった。エズミーのことははっきりと好き、だけど、自分が今まで築き上げてきた伝統的ともいえる家庭をエズミーは嫌悪している。その相反する相関関係をなんとか丸く収めようと必死なのだ。
「まあ」と母は言った。「彼女の気持ちも変わるかもしれないものね」
トムはこれに反論しようと思ったが、反論したところで得るものは何もないと思い直し、やめておいた。エズミーの結婚観は彼の中で揺るぎないものだったし、彼女の気持ちを変えようとするほどの関心は彼の中になかった。
「サラはもうすぐ結婚生活を始めるんだろ?」とトムは、姉のことを考えながら言った。彼女は今頃、クリスマスにしか日の目を見ないゲームセットを開けて、トランプやカジノコインを準備しているはずだ。
「もうすぐね」と言った後、アンは真剣な声音(こわね)に変えた。「トム、あなたに聞きたいことがあるのよ」
何を聞かれるかはわかっていた。予期していたことだった。しかし、彼が何か言う前に、リビングから声が聞こえ、会話が中断されてしまった。
「〈ラミー〉をやりましょ! 準備完了よ」
「僕たちも行かなくちゃ―」
「まだよ」と、アンはしっかりとトムを見据えて言った。
「母さん」
「トム、私たちはね―」
「今じゃない」とトムはピシッと言うと、母をキッチンに残してリビングへ向かった。
その15分後、マーレイ家がみんなでゲームに興じている最中、エズミーはわざとトムの目を引くように、こめかみに手をあてた。
「大丈夫?」と彼が口にした。彼女は赤ワインをもう一口飲み、微笑むことで、その質問に答えた。そして彼女は、3枚のエースをテーブルに置くと、5、6、7、8というハートの連続技を繰り出した。
「またか」と彼の父親が叫んだ。「これで4回連続エズミーさんの勝ちだ!」
「なんだか申し訳ありません...」
「このゲームを一度もやったことがないってのは本当かい? 君は私たち一家の貯金をごっそり頂戴するために参上した〈カード・シャーク〉じゃないのか? うちの5ペンス硬貨をすっからかんにしようって魂胆か」
「私は何とも言ってませんよ」とエズミーは言うと、6枚重ねのシルバーコインを自分の方に引き寄せ、すでに溜まっていたコインの山に加えた。
トムも一緒になって、憤りやイライラを抱えたふりをして、ぶつぶつ文句を垂れたけれど、実際、彼の心のうちは晴れやかだった。この何週間かずっと、エズミーは彼の家族に打ち解けられるか心配していたし、彼も心配だった。それは杞憂だったわけだ。他人の家で過ごす初めてのクリスマスには、家族に溶け込むコツのようなものが必要なのだ。それを間違えると、二人のうちのどちらかが、あるいは二人とも、理解もできなければ破ることも許されない、その家族の伝統やしきたりの迷宮に何時間も迷い込んでしまう。すぐに追い出されるから、何日も迷い込むことにはならないとしても。
時折、母親の様子を見ながら(彼女はキッチンでの会話をすでに忘れたように楽しそうだ)、トムはエズミーを観察していた。不快感やストレスを感じている気配はないかと、彼女の細かな表情の変化に気を配ったが、彼女はどの時点でも満足し、くつろいでいるように見えた。彼女はサラとネイサンに、幼児期の言語発達に関わる仕事をしている、と話し、それから彼女はネイサンに、アングリー・マットについても話した。マットはドラマーで、トムと出会う前の数ヶ月間、彼女と付き合っていた元カレだ。ネイサンが彼のバンドのファンだったのだ。ゴードンは彼女に、オックスフォードでの勉強について尋ねたけれど、大学というより別の惑星について聞いているみたいだった。アンは彼女に、ローストフトの歴史をざっくりと語り、彼女の友人や、友人の友人にまつわる噂話のような逸話(いつわ)を語っていた。
彼は、クリスマスに両親を訪れることについて、エズミーと話した時のことを思い出していた。会話の流れによっては、この計画は流れていたかもしれない。
12月中旬のある晩、エズミーはピムリコの彼女の部屋でプレゼントを包装しながら、砂糖を入れて温めたグリューワインを飲んでいた。トムがその様子をじっと見つめていると、彼女が「もしかしたら、やめておいた方がいいかもしれないわね」と言った。
「何を?」
「クリスマスにお互いの両親に会いに行くこと」
「僕は平気だよ」
「ああ、それはよかったわね」と彼女は皮肉っぽく言った。「あなたはいいかもしれないけど、私のことを話してるのよ。もし私がクリスマスに何かやらかしちゃったら、毎年クリスマスが来るたびに、そういえば、あの時のあの子って思い出されることになるわ」
「君は何も失敗しないよ」
「するかもよ。飲みすぎてバカなことを言いだしたらどうしよう」
「じゃあ、飲み過ぎなければいいよ。僕も飲まないようにする」
「ゲームはどうするの? あなたの家ではクリスマスにゲームをするんでしょ?」
「するね」
「それって、どんな?」
「大体トランプだね。時々クイズもするけど」
「そう」と、彼女は緊張ぎみに言った後、黙り込んでしまった。
「今度は何?」
「ルールがわからないんじゃないかって心配なのよ、トム。私はポンコツだから、新しいルールをその場で覚えられるかどうか」
「エズミー、君はオックスフォード大学で学位を取ってる。今まで僕が出会った人の中で、一番頭がいいんじゃないかな。〈オールド・メイド〉のルールだってちゃんと覚えられるよ」
「〈オールド・メイド〉って何?」
「それはしないかもしれないけど」とトムは言った。
彼女はまた、しばしの間黙り込んでしまった。うつむきながら、ケイト・ラズビーのアルバムに耳を傾けている。トムが、一度聴いてみてよ、と言ってかけたアルバムだ。聴いてるとウキウキしてくるし、彼女ほどクリスマスのこの時期にぴったりな歌手は他にいないよ、と。しばらくすると、再び彼女の心配が噴き出した。
「私のことを好きになってくれるかしら?」と彼女が聞いた。
「もちろんさ。好きにならないわけないだろ?」
「じゃあ、あなたの前の彼女は気に入られた?」
「ナイアム?」と聞き返しながら、2年前の春、復活祭の週末にサフォークに連れてきた、内気なアイルランド人の女の子のことを思い返していた。彼女はこっちがドギマギしてしまうほど物静かで、ほとんど何も喋らず、ゆえにその数日間はとても長く(ひどく長く)感じられた。「何とも言えないな」
エズミーが深いため息をつく。
「いや、君は大丈夫だよ、エズミー」とトムは言った。「君が気に入られないわけないじゃないか」
そして今、すべてが正しかったと思えた。ちゃんとしっくり、僕の家族に溶け込めてるじゃないか。彼女は準備したのかもしれない。僕の家族と打ち解けるために、まるでゲームを秘訣をつかむように。そんなことを思いながら、〈ラミー〉に興じるエズミーを見つめていた。彼女が僕の視線に気づき、にっこりと微笑み返してきた。彼女がワインの最後の一口を流し込むと、グラスが空になった。
「もう一杯飲む?」とトムが聞いた。
「もうすっからかんだよ」とゴードンが言った。
「大丈夫。もう1本ボトルを持ってくるから」
トムはテーブルから立ち上がって、キッチンへ向かった。ワインは冷蔵庫の上のラックに入っている。6×6で36本入るラックには、ウォッカの〈スミノフ〉も入っている。母親が土曜の夜にたまに、トニックと混ぜて飲んでいるボトルだ。昔は1本飲み干すのに1年ほどかかったボトルも、息子が成長し、母親に内緒でこっそり口をつけるようになってからは、〈スミノフ〉の減りも早くなった。他の穴はコーラのボトルで埋まっていた。
彼は赤のボトルを引っ張り出した。ねじ蓋(ぶた)式のワインだ。半年前であれば、お酒を手にした感触は、今とはだいぶ違っていただろう。今はもう、切羽詰まった誘惑は芽生えてこない。代わりに、もっと感覚的な、人生への満足感のようなものが、胸のうちに初めて芽生えつつあった。彼がしみじみとボトルを見つめていると、スリッパが床とこすれる柔らかい足音が聞こえてきた。
「あなた、さっき私の言ったことに答えなかったじゃない」と後ろから声がして、振り向くと、母親がキッチンの入り口に立っていた。
「答えるって何のこと?」
「とぼけないで。わかってるでしょ、トム」アンはそう言うと、表情を引き締めた。彼女が最も嫌っている話題を今にも持ち出す構えだ。
「母さん、頼むよ。もうちょっと待てないの?」
「あなたが今日来てからずっと気になってたのよ」と彼女は言って、彼をじっと見つめた。
「そんなの、気にしなくていいよ」
「彼女がもう知ってるのなら、私だって気にしないわ。でも、あなたがそうやってこの話題から逃げてるってことは、彼女はまだ知らないんでしょ」
どう答えればいいのかわからずに、しばし立ちすくんでしまう。本当のことを言えば、母親を困らせ、怒らせるだろう。ここは適当に嘘をでっち上げた方が賢明か。軽い嘘なら問題ないはず。しかし、母親の目を真正面から覗き込むと、彼女の目があの時と同じ目だと気づいた。僕が病院のベッドで取り乱している時に、僕を見下ろしていたあの目だ。
「彼女はまだ知らない」と彼は言った。「けど、正確に言うと、そうでもない」
そう付け加えると、母親はみぞおちにパンチを食らったかのように、目を点にした。彼女が驚くのも無理はない。エズミーとの関係はこれまでとは違う、そう言っている割には、他の子たちの時と、どうせ同じだと高を括っていたのだろう。
「そうでもない?」と彼女が、信じられないような表情で彼の発言を繰り返した。
「彼女は僕がお酒を飲まないことを知ってる」と彼は言った。
「でも、それがなぜなのか、理由はまだ彼女に話してないのね?」
「母さん―」
「トム、彼女にちゃんと話しなさい」
「わかってるよ」
「だったら、早く―」
「母さんってば、そんなに慌てないでよ。今日じゃなくてもいいじゃないか。もう少し時間をくれないか? 今日はクリスマスなんだし」
「私だってこの話題は好きじゃないわ。わかってるでしょ。クリスマスは特にね」
「じゃあ、なんでこんな話を持ち出すのさ?」
「だって、今までの子たちもそうだったでしょ? 何ヶ月間か、あなたのお酒の問題を知らないまま付き合って、ダメになっちゃったじゃない。いつも言ってるでしょ、トム」彼女はそこで、口を開こうとする彼を遮るように手を挙げた。「前から言ってるように、あなたを知るためには、あなたのすべてを知らなければならないの。あなたの問題なところも含めてすべてよ」
「彼女はすべてを知ることになるよ。全部話すって約束する」
「いつ?」と彼女は彼を見据えて言った。
トムは躊躇した。いつ言えるかを今決めることは不可能だ。そのような会話をするタイミングなんて、計画することはできない。実は今日の午前中、エズミーの実家からここまで車を走らせている間に、話そうと計画していた。しかしなぜだか代わりに、彼はローストフトで育った昔話をしてしまった。あれは18歳の誕生日を過ごしたパブなんだ、とか、昔通っていた中学校だよ、と、個人的な、どこにでもあるような思い出話をしていた。
「そのうち」と彼は言った。「タイミングが合えばね」
「じゃあ、もしタイミングが合わなかったら? 打ち明け話が大変だってことくらい、私だってわかってるわ」
「僕の方が大変だよ」と彼は言った瞬間に、ちょっと言い方がきつかったかな、と反省した。母親も彼女の両親に隠し事をしていたことがあったらしい。両親を怒らせたくなかったのよ、と彼女はトムに向かって胸のうちを吐露(とろ)したことがあった。そのことを思い出したが、今それを持ち出すのは、彼女に対してフェアではない気がして、やめておいた。
「ごめん」と彼は言った。「だけど、今回は違うと僕も思ってるし、台無しにしたくはないんだよ。僕のやり方でやらせてくれないかな」
「わかったわ。でもなんか心配ね。これまでのあなたのやり方は、正直に話すって感じじゃなかったでしょ?」
「母さん」と彼は言った。ほとんどささやくように、必死に声を抑えて言った。「正直に話すよ。今回は違うんだ。ちゃんと彼女に話す」
「全部?」
トムはため息をついた。
「全部話さなきゃだめよ、トム。ぜーんぶ。そうしないと、あなたが望んでいない時に、すべてが明るみに出るわ」
トムは再び口を開くのをためらった。
「全部言うよ」
「私に約束して」
トムは頷いた。すると、何の前触れもなく、アン・マーレイは息子のところに歩み寄り、彼を抱きしめた。彼女は泣いていた。体を引き離し、見れば、彼女の頬に涙がつたっている。涙が描く川のような線は、まるで彼女の内面を映し出すように、優しい流れだった。
「どうしたの?」
「私も今回は違うって思いたいのよ」
「わかってる」と彼は言った。
「そんなこと願ったって仕方ないのにね」アンは心を落ち着けるように間を空けてから、言った。「でも、ずっと考えていたのよ」
「何を?」
「そううまくはいかないのはわかってる。こんなこと言ったら、あなたは私に腹を立てるでしょうね」
「母さん、そんな風に思わないでくれよ」
「私はただ、思い描いていただけよ。わかるでしょ? 彼女があなたの助けになってくれるのなら、あなたはもっと...良くなるんじゃないかって」
「母さん」
「いいえ...良くなるなんて言うもんじゃないわね」と彼女は自分に言い聞かせるように、訂正した。「もっと幸せになれるんじゃないかって。今のあなたは―」
「そんなに簡単じゃないんだよ、母さん。そんなにすんなりいかないってわかるよね」
「もちろん、わかっています」と彼女はきっぱりと言った。「息子が自殺しようとしたんですもの」
彼女の発した言葉にトムも、そして彼女自身も驚いたように動きを止めた。数年前までは、トムはこのような母親を見たことがなかった。しかし今は、このように生々しい怒りが彼女からほとばしる瞬間が、時々訪れるようになっていた。トムは責任を感じていた。全部僕のせいだ、とはわかっていても、母親に何もしてあげられない自分がもどかしかった。母親の口から飛び出した言葉はいつまでも宙をさまよい、二人は沈黙の下にすっぽりと閉じ込められる。まるで冬の分厚い掛け布団のように、重い沈黙に閉ざされた。
「私はただいつも願っているだけなのよ」と彼女は、口調を和らげて言った。彼女の中で嵐は過ぎ去ったようだ。ほとばしる怒りが稲光(いなびかり)となって放出し、黒い雨雲は過ぎ去った。「トム、こうしてあなたを見てるとね、今のあなたは違うって思うのよ。前のあなたよりずっといいわ」
彼女が数歩あとずさる。トムは、離れていく母親の顔が少し陰(かげ)るのを見て取った。もう大丈夫だと彼女に言ったところで、自分と同じような症状に関する最新のネット記事などのリンクを彼女に送ったところで、親にとっては気休め程度にしかならないのだ。前からずっと、そして今でもまだ、両親は息子の治療法を探している。そのことがトムを悩ませた。
「僕は幸せだよ」と彼は言った。「彼女のおかげでだいぶ助かってる」
母親は頷いた。瞳の中の小さな妖精がまた泣き出さないようにと、下唇を軽く噛んでいる。その時、彼女が驚きの表情を浮かべた。トムの肩越しを見つめている様子だ。
「大丈夫ですか?」と、トムの背後からエズミーが言った。
「大丈夫よ、エズミーさん」アンはそう言うと、〈フェアリー・リキッド〉というラベルが貼られた食器用洗剤を指さした。「ちょっと妖精がね、洗剤の妖精が目に入ってしまったの。私ったら、ほんとおっちょこちょいなんだから。ちょっと目を洗ってくるわ」と彼女は言うと、目の辺りを隠すようにして、エズミーのわきをすり抜け、廊下に出ていった。「目を洗ったら、私はサラのところに行って、ゲームに混ぜてもらおうかしらね」
トムは振り返り、エズミーと向かい合った。彼は、母親と話した時に感情的になった部分が、悲しげな目の奥や、心配そうな表情に表れていないか気になった。彼女に気づかれてしまうかもしれない。
「本当に大丈夫なの?」とエズミーが言った。「久しぶりにご両親に会ったんでしょ」
「彼女は大丈夫。ただおしゃべりしてただけだから」
「私はサラに言われて来たのよ。あなたを連れて来てって」
「じゃあ、戻ろう」とトムは言って、元々取りに来たはずだったワインのボトルを手に取ると、キッチンのドアに向かって進んだ。エズミーはまだドアのところに立っている。
「もし何かあるのなら―」
「何もないよ」とトムは言った。
「わかってる。でも、もし―」とエズミーが言ったとき、炊飯器がピッと鳴り、赤く光ったデジタル時計が17:00を示した。まるで告白タイムの始まりを告げるように。
〔訳者なかがき〕
トムの衝撃の過去が明かされました! 実は藍も10年ほど前にトムと同じようなことを、考えたことがあって...←考えたことがあるくらい、誰だってあるよ!笑
なので、ひとごとではないというか、僕の話だなと思いました。←いやいや、君には元カノとかいないっしょ!笑笑
ダッシュもひねくれてる部分はかなりあったのですが、
トムのこじらせ具合は、一線を超えていたみたいです。
ただ、エズミーのやばさ、というか、負けん気の強さというか、むしろ台風のうずの中心は、彼女の方っぽいですね! この二人、大丈夫なんでしょうか?笑
相性はぴったり合うんでしょうか?
実は藍も上原レナちゃんという元カノがいたのですが...←お前の話はいいよ!!笑笑
パート 2
チャプター 6
午後3時~4時
やっと1マイル(1年)、まだまだ先は長そうだ
2008年6月 ― ウィスタブル近郊、ケント
「トム」と、エズミーが助手席から彼に耳打ちするように言った。「やめて。ほら、みんな私たちを見てるじゃない」周りを取り巻く車からの視線に、トムの注意を向けさせようとする。
それでもトムはもう一度クラクションを鳴らし、頭を窓の外に出すと、見えないとはわかっていても、高速道路の前方で何が起きているのか突き止めようとした。諦めて首を引っ込め、運転席に身をうずめると、再びブルーベリーの芳香剤の臭いにむせ返りそうになった。この日のために借りた車〈ボクスホール・コルサ〉は、ドアを開けて運転席に入った瞬間、吐き気がするような臭いがした。そして今、1時間以上もその中に閉じ込められたまま、渋滞が始まってから10メートルも進んでいない。
「まったく災難もいいところだよ」と彼は言った。「この分だと、高速を降りて、着いたらすぐにまた引き返して、家路につかなければならない」
「2、3時間は取れるわよ」
「まあ、それくらいなら。だけど、予定では丸一日楽しむつもりだったんだろ? ランチ、ビーチ、ディナー。夕方までに着くかな? 潮が引くのを見られれば、御の字ってところだな」
「満ちるのよ」
「何?」
「満ちるの。潮が引くんじゃなくて、夜になると潮は満ちるの。あなたは海辺の町で育ったんじゃないの?」
トムは何も言わずに、カーラジオをつけ、交通情報に周波数を合わせた。エズミーはなんだか物珍しそうに、周りをキョロキョロ見ている。こんな状況なのに、はしゃいでいるということは、渋滞に巻き込まれるのは初めてなんだろうな、と思った。よくイライラせずにいられるな、と。付き合い始めて1年の記念日は、海に行こう、ということになって、ウィスタブルの海岸へ通じているはずのM2高速に乗ったはいいけど、このざまだ。
「やっぱキャンピングカーかよ」とトムは声を上げた。ラジオによると、フォルクスワーゲンのキャンピングカーがエンストを起こし、2車線の真ん中で立ち往生しているという。ここから3マイルほど先の〈ボートン・アンダー・ブリーン〉という町の近くで、エンジンが煙を噴き、周囲にオイルをまき散らしているらしい。
「仕方ないでしょ。彼らだってわざとじゃないんだから」
「消防車が4台だってよ」
「こういうことだって起こるのよ。少なくとも、けが人はいないみたいじゃない」
「どうせ調子こいてる若者たちだろうな、車の点検くらい、しとけっての」と彼はぶつくさつぶやいた。「あいつらは他人のことなんてどうでもいいんだ」
「トム」
「それにしても、〈ボートン・アンダー・ブリーン〉ってどんな場所なんだ? 誰が町に〈ボートン・アンダー・ブリーン〉なんてクソみたいな名前をつけたんだよ?」
「トム、私は真面目な話をしてるのよ。そんな汚い言葉ばっかり吐いてるのなら、ほら、あそこに行って、お父さんたちに混ざって来なさいよ」と彼女は言って、窓の外を指さした。ボルボのボンネットの周りに数人の中年男性が集まっている。それぞれの家族を乗せたステーションワゴンから脱出し、この状況を嘆き合っている様子だ。「彼らが持ってるスポーツ新聞でも借りられるかもしれないわ。高速道路(express way)で、〈デイリー・エクスプレス(express)〉を読むのも、おつじゃない?」
「おい!」
「そんなに声を荒げないでよ。リスナー参加型のラジオ番組でわめいてる素人みたいね」
また閉口させられてしまったわけだが、まあ言われてみれば、エズミーの言う通りだな、と思った。トムは座席にゆったりともたれ、晴れた土曜日にウィスタブルの海に行く、という希望に満ちた旅が、いかにして、エアコンのない小さなレンタカーの中で、4時間かけてじんわりと蒸し焼きにされる旅になったのかを考えた。南東部の人口の半分が同じことを考え、一斉にケント州の海辺に向かったためかもな。
すべては彼のアイデアだった。ハムステッド・ヒースでピクニックをして、どこかでディナーを食べるという、いつもの休日の過ごし方ではなく、行ったことのない場所に行こう、と彼が言いだしたのだ。車のほうがどこへでも行けるし、帰る時間も自由に決められるから、レンタカーを借りて、丸一日ロンドンを離れようと提案した。そうして、アリの家での仮装パーティーでの出会いから始まった、奇妙で、向こう見ずで、刺激に満ちた365日を祝おう、と。
ウィスタブルは、「ロンドン近郊の最高のビーチ」に対するGoogleの答えだった。検索の一番上に表示された〈Time Out〉の記事だけを見て、トムはここだと確信すると、すぐさま他の案を思考から排除し、計画を実行に移したわけだ。
「絶対ここがいいよ」とトムは、なんだか訝(いぶか)しげな顔をしているエズミーに言った。「牡蠣を食べて、浜辺を散歩して、見知らぬ町を見て歩いてさ。夕食は、魚とフライドポテトを食べよう」
「あなたが運転しても大丈夫だって言うのなら、いいわ」
「全然大丈夫だよ!」
しかしそれは真実とはほど遠いものだった。
実際、レンタカーを借りる段からすでにトラブルの予兆は始まっていた。ロンドンの北西部キルバーンにある、泥(どろ)がぬかるんだような敷地のレンタカー屋に、トムは文字通り足を踏み入れた。そこのディーラーの男は、その風貌からして、泥棒や詐欺師を生業(なりわい)にしているのではないか、という印象しかなかった。トムは、なるべく安く借りたいと、評判の良いレンタカー屋を避け、一緒にカバーバンドを組んでいるドラマーに勧められた安価な店を選んだのだ。そういえば、エズミーの元カレもドラマーだったな、と思い出し、ドラマーを信用してはならない、と彼は自分に言い聞かせながら、白髪交じりの熊みたいなディーラーが、〈ボクスホール・コルサ〉の鍵を持ってくるのを、泥地に立ちすくんで待っていた。
トムはしばらく車の運転をしていなかったし、ロンドンでは全くしていなかった。高速道路のない田舎町で育ち、運転免許もそこで取ったトムにとって、突然ロンドンの、ゆっくり流れてはいても、―どこか常に危うさを漂わせている―交通量の多い道路に放り込まれることは、以前からずっと頑(かたく)なに避けてきたことだった。大都市ロンドンでライブをするときも、彼は車の運転を拒み、バンドメンバーに頼んで、うらぶれたパブであっても、コミュニティセンターであっても、彼の楽器やアンプを車で運んでもらうように手配していた。
キルバーンからレンタカーを運転し、エズミーの住むピムリコに向かった。〈ボクスホール・ブリッジ・ロード〉を走っていると、片側にはスポーツタイプの自転車を無鉄砲に走らせる人、逆の片側にはパトカーに挟まれ、やっぱり運転はストレスが溜まるな、と再認識した。エズミーの部屋へ通じる道に入るには、車線を二つ移動させてから、その先を曲がらなければならない。この分だと、海岸までの長い道のりは、予想以上に緊張をはらんだ旅路になるかもな、と先が思いやられた。それでも何度か迂回したり、方向転換したりして、なんとかピムリコの〈デントン・ロード〉にたどり着いた。エズミーの家の5軒先に車を停めて、道端に立つと、3、4回深呼吸をして、フラストレーションを体外へ放出した。車を運転している時にしか湧き上がらない種類の、嫌なストレスが溜まっていたのだ。
「まだ準備できてなかった?」と彼は言った。ドアを開けた彼女が、サンダルをつっかけ、ジョギング用のジャージを穿き、ゆったりとしたTシャツ姿だったからだ。彼女の髪はお団子状に束ねられ、メガネをかけている。トムと会うときはコンタクトを入れるのが、付き合い始めてから1年目までは常だった。台所のテーブルには、NHS(国民保健サービス)と書かれた、使い古されたファイルが積み上げられ、その横には、紅茶の入ったマグカップと、開封済みの〈ミルキーバー〉の袋が置かれている。袋の口から丸いホワイトチョコが見えた。
「あと10分いい?」と彼女が、部屋に上がり込んだトムに言った。
「5分」
「トム、そんなの絶対無理よ」
「やってみなければわからないだろ」
「わかったわよ。あなたってほんと気分屋なんだから。突然海に行こうだなんて」
「エズ」
「車の運転は大丈夫そう?」
「たぶんね」と彼は言いながら、窓の外に目をやると、黄色いジャケットを着た交通監視員が〈デントン・ロード〉に入って来ようとしているのが目に入った。「やばい」
「私もすぐ行くから」とエズミーが言うより先に、トムは駆け出した。交通監視員が来る前に車に乗り込むと、駐車禁止の標識が立つ〈デントン・ロード〉をゆっくりと進み始めた。そして道路の端まで来ると、狭い道路なので一度ではUターンできずに、何度かハンドルを切り返しながらターンをし、またゆっくり戻ってくるという、猫とネズミの追いかけっこのような、この上なくくだらないゲームを、エズミーが出て来るまで20分間も繰り返した。
ようやくロンドンから抜け出た頃には、トムの神経はすり減り、最初は高かったエズミーのテンションも下がりつつあった。この日のためにと、好きな曲を並べたプレイリストも、ひと通り聴き終わり、ありふれた週末のラジオ番組に切り替えた。口数が少なくなり、息が詰まるような苛立ちが、車内に立ち込め始めた頃だった。地平線に向かってずっと伸びる赤いブレーキランプの海が、目の前に立ちふさがったのだ。
「気持ち悪い」とエズミーが窓から顔を出して言った。有毒な車の排気ガスと、焼き付くようなアスファルトから立ちのぼる蒸気、そしてダッシュボードに貼り付けられた芳香剤の、吐き気がするような臭いの混在に、彼女は明らかに滅入っていた。
「ミントのキャンディーでも舐める?」とトムは言った。「あ、買いに行かなきゃなかった」
「ああ、まったくもう、トム! いい加減にしてくれない? あなたのせいで頭がおかしくなりそうだわ」
「僕だってイライラしてるんだよ」
「でしょうね。私だってそうよ。でも、そんなイラつく顔しないでちょうだい。全然動かない渋滞のお化けに取りつかれたみたいに、しゃくにさわることばっかり言ってる中年男の隣になんて、私だって座りたくないわ」
「僕は中年じゃないよ。まだ30歳にもなってない」
「あなたのその態度で言えばよ、トム。あなたは43歳といったところね、ステーションワゴンの運転席に退屈極まりない顔で座って、あ~、サッカー見て~、〈スカイスポーツ〉でも契約すっかな~、そうすれば思う存分サッカーを見れるぞ、みたいなことばっかり考えてるのよ。そうでしょ、トム。たまたま今が2000年代ってだけで、ひと昔前の〈モンデオ〉に乗ってるおじさんと何も変わらないわ」
「うっ」
「図星ね」彼女はそう言うと、薄手の夏服のすそを持ち上げ、その縁(へり)でサングラスを拭いてから、シートにぐっと背中をもたせかけた。彼女は向こう側の窓の外を、サングラス越しに眺めている。
「今日は僕たちの記念日なんだよ。なのに、ビーチじゃなくて、車の中に閉じ込められて、こんな惨めな気分になってる」
「ええ、そうね。でもそれって、少なくとも50%は、あなたのせいよ」
「まあ、ごめん。もし僕が―」
「トム!」と彼女が叫んだ。その声は開けっぱなしの窓から外へ響き、ラジオでヨーロッパチャンピオンズリーグの実況中継を聞いていた父親たちが、こぞってこちらに振り向いた。さっきから同じサッカーの実況が、あちこちから聞こえていたのだ。
エズミーは車を降りると、小走りに道路脇へと向かい、路肩の段差に腰を下ろした。彼女が車から出て行った瞬間、自分も彼女のところに行かなければならない、と思った。二人の口論をたまたま目撃した十台以上の車に囲まれながら、彼女に追いすがる、という恥ずかしいシーンをやり遂げなければならない。運転席の父親たちは、「ほら、あいつら」と言って、にやけるだろう。昔、俺も経験したぞ、あいつはこれから彼女に、ごめんって頭を下げるんだ。そんな会話があちこちから聞こえてくるようで、一瞬足がすくんだが、トムは勇気を振り絞って、勢い良くドアを開けた。
エズミーはサングラスを取り、空を見つめていた。彼女の視線の先には、一羽のカモメが飛んでいて、しばらく一点に浮いていたと思ったら、夏の上昇気流に乗って、遠くへ飛び去った。
「ごめん」とトムはぶっきらぼうに言うと、直射日光で暖まった路肩に手をつき、彼女の隣に座った。「ああいう人にはなりたくないんだ」
「どの人?」
「退屈極まりない顔をして、〈スカイスポーツ〉の映像を想像しながら、交通渋滞に文句を垂れてるような人」
「誰だってなりたくないわよ。でも彼らを見てるとね、そこに堕落するのは簡単なのよ。ほら、あのカーゴパンツに色あせた黄色いポロシャツを着た男、見えるでしょ? 彼はきっと、かつては劇作家だったのよ。ガーディアン紙が彼を「英国演劇界のアンファン・テリブル(若き天才)」だって評して、もてはやされた口ね。で、今の彼はどうなったかというと、彼はバスルームのタイルを販売する会社の、エセックス州とケント州を担当するセールスマンって感じね。それもこれも全部渋滞のせい。演劇界も才能が渋滞してるのよ」
「それに、子供が2人いそう」
「渋滞よ、トム。子供の渋滞」と彼女が言った。
トムは、ふふ、と軽く笑った。
「じゃあ、あの人はどうかしら? あのサイズが小さすぎる、ぴちぴちのTシャツを着てる人。彼はね―」
「ああ、やめてくれ」とトムが言った。「なんだか彼らが気の毒になってきたよ」
「心配しないで。彼らは幸せよ」と彼女は言った。「あるいは、そうではなくても、嫌なことは圧縮して小さく丸めて、持ち運びながら人生を送ってるのよ」
「エズ! 絶対彼らに聞こえてるよ」
「馬鹿ね。ラジオのサッカー中継に夢中で聞いてないわよ」
二人はしばらく黙って座っていたが、不意にトムはエズミーの手を取ると、彼女の頬にキスをした。
「なんていうか、記念日が台無しになっちゃって、ごめん。こんな、思い描いていた感じとはほど遠い一日になっちゃったから、僕はちょっとイライラしてた。ごめん」
「私も」と彼女は言って、腰をずらし彼に少し近づいた。「でもね、記念日って今日だけのことじゃないのよ。1年を通してお祝いすることを忘れちゃだめ。こういう風に改まって計画なんてするから、台無しになった、とかってなるのよ」
「わかってる」と彼は言った。「君の言うとおりだ」
「それに、今日一日だって台無しにはなってないわ。ここで何かできるかもしれないじゃない」
「ここで?」と彼は言って、すっかり動きを止めた車の列を見回した。窓から中央分離帯をつまらなそうに眺めている子供たちがいる。若いカップルはせっかくの機会だからと、ライトバンの屋根の上に寝そべり、日光浴をしながら、一冊の週刊誌『Nuts』を二人で眺めている。
「そうよ、ここで。ウィスタブルまで行く必要はないわ。楽しみは自分たちで作れるんだから...どこにいたってね」
「3マイル先は〈ブリーン〉の支配下の町らしいけど、ここは誰の支配も及ばない場所だな」とトムは言った。「知ったこっちゃねー」
「その通りよ。知ったこっちゃねーの精神で楽しみましょ。私たちは後々までずっと、今日のことを覚えてるわ。M2高速で座り込んで過ごした記念日なんて、忘れるわけないじゃない」
「しかし、何をしよう? 食べ物は持ってきたけど、〈フムス〉はこの暑さに溶けだしちゃったかも」
「食べ物はいいわ。さっきからゲームを考えてたの」
「だろうね、君はいつもそうだ」と、彼は少し不安げな表情で言った。地平線の向こうに大きな灰色の雲が浮かんでいたが、エズミーには言わないでおくことにした。
「どうしたの?」
「僕はゲームとかそういう気分じゃないんだ」
「まあ、私もそうなんだけどね。でも、いい? あなたは未(いま)だに私に本心を打ち明けてないのよ。1年経っても取り繕ったことばかり言ってる」
「そうかな?」
「そうよ。そろそろ心を開いて。ルールはね、私たちが一緒に過ごした最初の1年間の、ハイライト的な良かった事と、逆にローライト、取るに足りない事をそれぞれ挙げること。それから、次の1年のプラン、どういう1年にしたいかっていう計画もね」
「ハイライトだけでいいんじゃない?」
「現実にそくしたゲームにしたいのよ。最初の1年って、わくわくして素敵な時期でしょ。セックスだって、最初は新鮮で驚きに満ちていて、仕組みやツボを探るみたいにして、非日常的な冒険って感じだけど、1年くらいすると、それが普通になってくるのよね。お互いの欠点を友人にこっそり話しだす時期でもあるわ。将来的に一緒に暮らすことになっても、その欠点に耐えられるかどうか、望みをかけて友人に打ち明けてる感じね。つまり、1年目には妥協点やデメリットがいっぱいあるの。シャンパンとバラの花だけしか見ないなんて、大馬鹿者のやることよ」
「かなり現実的だね。っていうか、セックスのことは、マンネリ化してたらごめん」とトムは言いながら、セックスに対する劣等感が胸中(きょうちゅう)に湧き上がるのを感じた。僕はエズミーを失望させていたのだろうか。いつ? 毎回? だけど、もしあれがエズミーの演技だとしたら、僕に彼女の胸中を知る術はない。彼女に聞いてみたいことの一つではあったが、これは聞かないでおくのがベストだろう。
「それは仕方ないからいいわ。とにかく、それぞれのカテゴリーで、3つの出来事を考えてちょうだい。それぞれにつき、1点ずつポイントが加算されていくの」
「ちょっと待って」とトムがエズミーの方を向いて言った。「ポイントがつくかどうかの基準は? 僕のハイライトは、そもそも僕にとってはハイライトなんだから」
「そうね。だけどこのゲームでは、私が『ハイライト』、『ローライト』、または『プラン』って言ったら、あなたは即座に答えなければいけないの。躊躇したらだめ。もし、う~んとか、あ~とか言ったり、何も思い浮かばなかったら、もうポイントはもらえない。順番で交互に聞いていくのよ」
「これって君が今、自分で考えたんだよね」
「そうよ」
トムは思わずにやけてしまったが、正直なところ、少し不安でもあった。彼女が楽しかった出来事として言うことが、何らかの形で僕の傷口に刺さるのではないか。あるいは、僕が間違ったことを言ってしまうのではないか、と心配だった。
「君にとってはすべてがゲームなんだね?」と彼は言いながら、彼女と一緒に過ごした1年間の記憶を整理し始めた。できるだけ多くの思い出を引っ張り出し、うまくいったことと、そうではなかったことのファイルに、頭の中で仕分けしていった。
「よく気がついたわね。でも、それはポイントには入らないわ。準備はいい?」
「ちっ。僕から? そうだな、僕にとってのハイライトは―」
「あ、ああ、ああ!」エズミーが彼の発言を遮った。「聞いてた? 私が選ぶのよ、覚えておいて。じゃあ、ローライト」と彼女は早口で言った。テレビのクイズ番組で、解答者が気を緩めているところを狙い撃ちする司会者のような言い方だった。
「何?」
「ローライトよ。早く言って」
「えっと...あ~...」
「0点ね」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。1秒くらいは考えさせてもらわないと」とトムが言った。
「ルールはルールよ。はい、今度はあなたが私に聞く番」
「よし。じゃあ、ハイライト」
「はは! やっぱりそう来たか。あなたが私の家に初めて泊まった夜のこと。あなたは喉が渇いて朝の4時に起きた。そしたらローラが、キッチンにいるあなたを見つけて、泥棒だと勘違いして、上の階のジョーがクリケットのバットを持って駆け付けてきた」
「あの時はひどい目にあったよ」
「可笑しかったわ」とエズミーが言った。「後から思い返せばね」
「っていうか、クリケットのバットを持って駆け付けるやつなんて普通いるか?」
「下の階に住む女の子のことを夢見ていたら、まさにその子の悲鳴が聞こえたんだから、ここは自分の出番だって思ったんでしょ」
「彼は結婚してないの?」
「それで?」とエズミーが言った。
「それで、それが君のハイライトなんだね? 1年間ともに過ごしたすべての事柄の中で、それが君の心をつかんで離さない出来事ってこと?」
「残念ながらそうよ。じゃあ、今度は私が聞く番ね...ハイライト」
「一緒に行ったアムステルダムへの旅行だね」とトムは焦ったように早口で言った。エズミーが彼のこめかみに拳銃を突きつけているかのような焦り方だった。
「もっと詳しく言わなきゃだめよ」
「わかったよ。街の中を船でめぐった」
「あれは捨て去りたい記憶ね」
「いやいや、君が言ったのよりはマシだよ。少なくとも、クリケットのバットで殺されそうになった人はいなかったんだからさ」
「いいえ、私はあなたのことを考えて、あなたがメインの出来事を言ったのよ。だけどそれは、あなたが楽しかった思い出でしょ、トム。あのアムステルダムでの退屈な船旅を、あなたはさぞかし楽しんだんでしょうね。私はそうでもなかったけど」
「もっと具体的に言えばいいんだろ」
「そうだけど、どうせ建築物がどうとか、天気はどうだったとか、そんな話をするんでしょ。思い出はね、あなたと私をめぐる話じゃないとだめ。あなたと私が何をしたかって話じゃないのよ」
「ばかばかしい」とトムは言って、さっきよりもぐっと近づいてきた黒い雲を再び見上げた。「僕はこういうのは苦手なんだ」
「話し方を工夫すればいいのよ」と言って、彼女は彼の腕をポンと叩いた。「アムステルダムの街自体は素晴らしかったし、船の上で配られた音声ガイダンスの機器をあなたはうまく操作できなくて、ずっとドイツ語が流れてたのは笑えたから、0.5点あげるわ」
「お、おう」
「気を取り直して、どうぞ」
「ローライト」とトムが言った。
「食あたり事件ね。ビクトリア地区で行われたアイリッシュ・フェスティバルで、あなたがトリビュート・バンドを組んで演奏するっていうから、見たかったのに」
「いったいどうなってんだよ、エズ。なんでそんなことまですぐに思い出すんだ?」
「私は記憶力がいいのよ」
「ってことは、これはあれだな、不正が行われてるってことだ」
「全くそんなことないわ。じゃあ、今度は私ね。ローライト」
トムは何も言わなかった。手の甲に落ちた一粒の水滴に気を取られていたのだ。続いてもう一粒。それから、次々と水滴が落ちてきた。
「感じた?」とエズミーが言った。
「うん。記念日に雨に降られたことを、ローライトの一つにしようと思ったんだけど、―でも、今思えば、高速道路でこんなことをしてること自体が、本当のローライトだと気づいたよ」
「ローライト中のローライトってことね?」
「その通り」
「私たちも戻ったほうがいいわ...」エズミーが車の方を見ながら立ち上がった。大粒の雨が降り始め、立ち話をしていた父親たちが、それぞれの車へと散らばっていく。
雨脚が勢いを増していく中、小型車の〈コルサ〉に向かって、エズミーが先を走り、トムも後に続いた。しかし、二人がそこにたどり着いたとき、ドアが開かなかった。
「トム、さっさと鍵を開けてちょうだい!」と彼女が、ワンピースの首元を引っ張り上げ、髪の毛を覆い隠そうとしながら叫んだ。その横で彼は、あちこちのポケットをまさぐりながら、必死に鍵を探している。「トム!」
「見つからない」
「ちゃんと鍵をかけたんだったら―」
「絶対に鍵はかけてポケットに入れたよ」
「だったら、とっとと開けてよ。このままだとびしょ濡れになっちゃうじゃない」と彼女が大声を上げた。雨が〈コルサ〉のトタンのような薄い屋根を、ドラムロールみたいに叩き始めた。「それにみんなが見てるじゃない」
「クソッ」とトムは言いながら、体のいたるところを叩くように鍵を探したが見つからず、さっき二人で座り込んでいた路肩まで、うつむき加減で跳ねるように戻っていった。
「あった!」と彼がエズミーの方を振り向いて叫んだ。座った拍子に落ちたのだろう鍵を拾い上げると、小走りに車まで駆け戻った。ようやく彼女が握ったまま待っていたドアが開いた。初夏の雨に打たれるのは、実際のところ彼女にとって心地よかったのだが、全身を包んでいた爽やかな夏の香りは、車内に入ったとたん、吐き気がするようなブルーベリーの芳香剤で一瞬にして打ち消されてしまった。
「やめてよね」とエズミーが言った。「ほんとにもう、冗談じゃないわ」
「座った拍子にポケットから落ちたみたいだ」
「もうびしょびしょ」
「ごめん、エズ」
「それから、みんなが見てたわ。パパたちが全員こっち向いてた」
「それは、あれだな...きれいな若い子が、ずぶ濡れのワンピースを着て立ってたら、ね? そりゃ見ちゃうよ」
彼女は彼の腕をバシッと叩いた。それでも彼がクスクスと含み笑いをやめないので、もう一発叩いた。
トムは車のエンジンをかけ、ヒーターを強めに設定した。エズミーがその温風で髪を乾かし始める。ラジオをつけると、「今から2時間ぶっ通しで、あなたのリクエストにお応えして、ベスト・ミュージカル・モーメント100の中から選りすぐりの名曲をお届けします」とDJがリスナーに約束していたが、トムはすぐにラジオを消した。止まったままの車の外では雨が降り続き、フロントガラスにぶつかっては、水しぶきを上げ激しく弾(はじ)けている。髪の毛に対して今できることを、ひと通り施(ほどこ)したエズミーは、助手席に倒れかかると、トムをぼんやりと見つめ、微笑んだ。
「今日の旅は価値あるかな?」と彼が言った。
「あるわ、大ありよ」
「なんか無理やり言ってるように聞こえるけど」
「もうちょっとロマンチックな、ありがちな台詞を言ったほうがよかったかしら。『ええ、トム、最高の旅になったわ。完璧よ!』みたいな?」
「全然完璧じゃないけどね」
「そうね」
「それでもオッケー?」
「オッケー以上よ」
「君のそういう楽観的なところが好きだよ、エズ」とトムは言った。「僕もたまにはあやかりたい、というか、ちょっとでもそんな風にお気楽になってみたいよ」
「楽観的とはちょっと違うんだけどね。こういうことの方が私たちの記憶に刻まれて、ずっと覚えてるんじゃないかって思っただけ。だからオッケー以上なのよ。計画通りに、望んでいる通りにいったことなんて、必ずしも覚えてるわけじゃない」
「太陽の下、ビーチで過ごすはずだった1日と、渋滞に巻き込まれた4時間、どっちが良かったかなんて、誰も決められないってこと?」
「私が言いたいのはね、人生には意外性があったほうがいいんじゃないかってこと。例えば、結婚式の計画を細かく立てすぎて、つまらない感じでことが進むよりは、いい加減に計画して、ちょっとドタバタしちゃったほうが楽しそうでしょ。行動がその人を表すっていうけど、カップルも同じ。二人でやることなすこと、すべてが私たちを体現してるのよ」
「それで、僕たちは4時間も身動きが取れなくなってるのか―」
「どういう意味よ」と彼女が言った。
雨が少し小降りになってきた。
「そうだな、今日の旅を栄光の失敗と呼ぶことにしようか?」
「栄光はちょっと大げさなんじゃない、トム」栄光は言いすぎか、と彼の顔からも笑みがこぼれる。「少なくとも、今日のことを私たちは決して忘れないでしょうね?」
「忘れようとしたって無理だ」
トムは身を乗り出して、彼女にキスをした。彼女の顔はまだ雨で湿っていて、彼女の唇は、サクランボのような、リップクリームのほのかな味がした。
彼は帰りの運転のことを考えた。高速道路を何時間もひた走り、一般道に下りたら、ロンドンのタクシーやら、自転車やら、種々(しゅしゅ)の車が不意をつくように迫ってくる。そんな謎のバトルを思うと、気が重くなった。その後、またあのキルバーンのぬかるみのような敷地のレンタカー屋に車を返しに行かなければならない。しかも夜だ。あんなところに夜行ったら、テレビの犯罪ドラマのクライマックスシーンを、地で演じなければならなくなりそうで、気が滅入る。ふとエズミーを見ると、彼女は微笑んでいた。こんな時でさえ、些細な驚きに満ちた人生を楽しんでいるようだ。見習わなきゃな、と思った。彼女は僕に欠けているものを持っている。そしてきっと、僕も彼女に欠けているものを持っているんだ。その時、二人の間に分かちがたい一体感のようなものを感じた。二人でいれば、二人で補い合うように過ごせば、どこにいようと、何時間だって退屈なんかしない。
「続きをする? 今度は君が聞く番だったよね?」と彼が言った。エズミーが驚いたように目を見開いた。彼女が考案したゲームの続きをしようと、彼の方から言いだしたのが意外だったようだ。トムは口には出さなかったが、この1年の出来事をもっと思い出し、もっと追体験したかった。その時の彼は気づかなかった些細な驚きってやつを、いっぱい胸に刻みたいと思った。
「ああ、そうね。じゃあ、ハイライト。でも今日のこと以外でね」と彼女が笑顔で言った。
「わかった」と言って、彼は座席に深く身を沈めた。エズミーと過ごした12ヶ月を、夢うつつを漂うように、いつまでも振り返っていた。
チャプター 7
午後2時~3時
君のことをもっと知っていく
2010年3月 ― オックスフォード
トムは足元に集めた小石の山をまたぐようにして、小石を一つ拾い上げると、それを力いっぱい投げた。小石は思うように飛ばず、うまく跳ねてくれない。腕のしなりが足りないんだな、と彼は首をかしげながら、次の石を拾い、今度こそは、と目を細めた。そして腕を後ろへしならせるようにして、投げた。
「ねえ、想像してみて。トム・マーレイの生涯を示す〈ブルー・プラーク〉を掲(かか)げることになったら、どうする?」エズミーが数年前の冬に投げかけてきた言葉を思い出していた。ふるえるような寒さに、どこか南の島のビーチで太陽を浴びて過ごしたいね、なんて話していたのだが、二人ともお金がなくて無理だった。そんな会話の流れで、彼女が聞いてきたのだ。「どこに掲げる?」
「どういうこと? ブルー・プラーク?」
「建物の壁に掲げられてる、丸くて青い記念プレートよ。超重要人物とか、超有名人が住んでいた建物ですっていう看板。『ジョニー・なにがし、科学者、1881年にここに住んでいた』みたいな」
「それは知ってるけど、僕の名前が掲げられることはまずないでしょ」
「もちろん、ないでしょうね。でも、あるとしたらって想像してみて。あなたのプレートはどこにありそう?」
「さあ。ローストフトかな、たぶん。ロンドンかな。っていうか、それと僕たちに何の関係があるの?」
「それがお互いを知るための方法なのよ。どこか素敵な場所で休日を過ごす代わりに、私たちが住んでいた場所とか、大好きだった場所を訪れるの」
「じゃあ、テネリフェ島へバカンスに行く代わりに、ローストフトに行くってこと?」
「そんな感じ」
それでもまだトムは彼女の意図がよくわからなかったので、最初の行き先はエズミーに選んでもらった。2008年の2月にレスターに行き、思い出の地めぐりが始まったのだ。レスターはイングランドの中部、彼女が学生時代を過ごした町だ。彼女の通っていた学校を見ながら彼女の話を聞き、彼女が何時間も過ごしていたという図書館にも行った。なるほどね、と彼はようやく腑に落ちた。実際にその場所に来た方が、彼女のことをより深く知れたのだ。オックスフォード大学の受験結果が届いたとき、おせっかいな親の目の前で開けたくなかったから、このカフェに駆け込んで、この席で開けたの、と彼女は言った。
トムの番になり、彼は思い出の地として、イングランドの東部の町、ノリッジを選んだ。アマチュアバンドを組んでいた時代、彼はそこで何度も熱いライブをした。初めてアルバイトをしたのもそこだった。土曜日に働いていた楽器店に彼女を案内した。スケートボードで暴走し、駐車していた車と衝突して鼻を骨折した坂道に立って、ほら、鼻のここ、少しへこんでるでしょ、と、彼は自分の鼻筋をさするように指さした。
それから数ヶ月後、ローストフトにも行った。昔通っていた学校や友人の家、子供の頃にやんちゃした思い出の場所を慎重に選びつつ、めぐった。エズミーの番では、レスターの近く、バーミンガムにも行った。彼女が中部の州で過ごした10代の様子が、前よりもわかってきた。
毎回どの地に行くにも、赤い二階建てのバスに乗り、日帰りだった。いつも眺めのいい二階に乗り込むと、お互いが選んだ町を巡り、その後、バスを降り、かつて住んでいた家や、重大な出来事があった場所など、個人的な名所を3、4ヶ所めぐるという旅だった。お互いを背景まで深く知りたい人のための、財布に優しいバスツアーといったところだ。
そして今回やって来たのは、彼女が大学時代を過ごしたオックスフォードだ。二人は今、ユニバーシティ・パークにいて、チャーウェル川の土手からトムが小石を投げ、なんとか川面(かわも)にバウンドさせようと躍起(やっき)になっている。(が、ことごとく失敗している。)
「チェッ」と彼が言った。今度もまた、彼が投げた石は水面をかすめると、跳ね上がることなく、すぐに沈んでしまった。
「今のは2バウンドに見えなくもないわね」とエズミーが陽気な声を上げた。
「気休めを言うのはやめてくれ」と彼は言い、麦わら帽子の形をした小石を手に取った。平べったくて丸く、腕時計の文字盤ほどの大きさで、完璧な小石に見えた。彼はそれをすばやく投げると、期待を込めてその軌道を見守った。が、その石もあっけなく沈んでしまった。
「はぁ、なんだかむなしくなってくるわね。こうして立ったまま、あなたが水切りに躍起になってる姿を見てると、オスの求愛ダンスを見てるメスの気分だわ」
「あぶなかった~、神に感謝しなくちゃ。人類が水切りで判断される種(しゅ)だったら、僕は永遠に童貞のままだ」
「トム! 誰かが聞いてるかもしれないわ」
「だから何? この大学は優秀な学生だらけなんだろ。っていっても、学校の成績が優秀ってだけだから、あっちの未経験率はかなり高そうだな。みんな、いつになったら初体験できるんだろう、もしかしたら永遠にできないんじゃないかって心配なんじゃない?」
彼女は彼の腕を殴った。そんなことを言う彼にかつてない種類のショックを受け、周りの耳も気になり恥ずかしかった。
「う~ん、どうしてうまく石が跳ねてくれないんだろう。うまい人だったら、どんな石でも適当に拾って、ひゅっと投げると、ピョンピョンピョンってバウンドするんだよ。20回くらい跳ねながら水面を進んでいくんだ」
「そんなのできなくてもいいじゃない。なぜ気にするの?」
「自分でもなぜかわからないけど、なんか悔しい」トムはそう言って、もう一度挑戦したが、結果は同じだった。
「力を入れすぎなんじゃない?」
「ネットに書いてあった通りに投げてるんだけどな―」
「ネットで水切りの方法を調べたの?」
「まあ...」
「いったい何がしたいのよ、トム。大した芸ね」とエズミーが言った。「男のたしなみってことかしら?」彼女は疑問を投げかける。「ひげを生やしたり、川があったら石を投げたり、山小屋を所有したり、そういうことができなければ、本当の意味での男らしさは得られないってこと?」
「おそらくね」とトムは言った。「僕はサッカーボールのリフティングも、5回以上できないんだ」
「それ以上できないアピールはやめて。あなたのことを新たに発見していくたびに、あなたの魅力がどんどん失われていくわ。そんなことばかり言ってるなら、私はあそこの若者たちの一人に、運だめしにアタックしちゃおっかな~」と彼女は言って、フィールドの方を指さした。たぶん大学のラグビー部だろうとトムは思った。がたいがいい学生たちが、グラウンドに置いた赤いコーンの間をダッシュで行ったり来たりしている。
「あの筋肉隆々(りゅうりゅう)のラガーマンたち?」
「彼らはきっと水切りもうまいし、学校の成績だって良かったんだから。彼らは頭脳と腕力の両方を持ち合わせているのよ、トム。女の子が欲しがるものを両方ともね」
「集中してるから黙って」トムはそう言って、今度こそは、と大きく振りかぶって、小石を投げた。思いっきり投げすぎた石は、勢い良く弧を描き、一度も川に着水することなく、向こう岸まで届いてしまった。
エズミーが声を上げて笑い出した。
「もう気が済んだよ。このくらいにしておく」と彼は言い、ふてくされたように、集めた小石をすべて川に捨てた。「次はどこ行く?」
「寮に行きましょ。行ってみないとわからないけど、こっそり忍び込めば、私が住んでた部屋に上がれるかもしれないわ」と言って、彼女はトムの手を取った。「こっちよ」
彼女は彼の手を引きながら、ユニバーシティ・パークを抜けると、オックスフォードの街の中心部、彼らがバスを降りた辺りまで戻って来た。二人はもの思いにふけるように、黙って街を歩いていた。木々のつぼみは芽吹きつつあり、薄紫のクロッカスが道端に点在している。もうすぐ黄色い花を咲かせるはずのスイセンの新芽も、青空に向かって伸びている。3月の学生街は思いのほか、ひっそりとしていた。ランニングをしている人が時おり通り過ぎ、犬の散歩をしている人がちらほらいて、学生と思(おぼ)しき人が一人か二人歩いている程度だった。
エズミーは幸せそうな顔をしていた。ノリッジの近く、キングズ・リンの公園に彼女を連れて行った時と同じくらい幸せそうだったから、ほっとした。彼女はオックスフォード大学には馴染めなかったと言っていたから、ちょっと心配だったのだ。僕の手を引きながら、誇らしげにオックスフォードを案内する彼女の温かいまなざしは、ここが彼女にとって、居心地の良い場所であったことを示しているようだった。その横顔はとても美しかった。
彼女の故郷を訪れた時とはまるで違う、晴れやかな表情だった。彼女が幼少期と10代のほとんどを過ごした町では、嫌なことばかりが思い出されて辛(つら)そうだった。(「ここで初めて付き合ったボーイフレンドと別れたの」と彼女は悲しそうに言っていた。)父親が見知らぬ女性とキスしているのを目撃してしまったという公園にも行ったし、マクドナルドの外では、自転車で通りかかった同じ学校の3人組に飲み物をかけられたそうだ。その3人には学校でも何かにつけ、いじめられていたと彼女は打ち明けた。そのようなエズミーの人生の断片を共有することは、僕にとっても心が痛んだ。
「生まれ育った町に残ることを選ぶ人たちっていうのは、学校でイケてた子たちなのよ。人気者たちが残るの」とエズミーが、そういう苦(にが)い経験を話した後に言った。「そうじゃなかった私たちは、町から逃げるように出て行かなきゃならないの。嫌な思い出から逃れるためにね」
「そして、そういうイケてた子たちは、最終的には敗者になるんだろ?」
「そうであってほしいものね。有名なデザイナーか誰かが言ってたじゃない、誰でも一生のうちで15分間は名声が得られるって。きっとその時期が違うだけで、みんな一度は人気者になれるのよ。小学校や中学校でその時期が来る人もいれば、大学で花開く人もいる。大人になるまで待たなきゃならない人もいる」
「君はもう、そういう時期を過ごしたの?」
「それは周りの人たちが言うことだと思うわ」エズミーは彼女の故郷の町でそう言っていた。
今、オックスフォードのパークス・ロードを歩きながら、エズミーのその時期、―つまり彼女の全盛期は、―ここにあったんだと確信した。パークス・ロード沿いには風格のある建築物が並び、彼女が敬愛する知性の香りが漂っていた。ここを歩いていた大学生の彼女の姿を簡単に思い浮かべることができた。彼女はいろんな集まりに参加して、いじめられていた過去などみじんも感じさせないような明るい表情で、屈託(くったく)なく自分の意見を述べていたに違いない。それはワインとか本についての意見であったり、トニー・ブレア政権下での新自由主義の失敗に対する意見であったりしたのだろう。ピリッと引き締まった秋の空気の中、スカーフを首にゆるく巻いてさっそうと歩く彼女の姿を想像しながら、僕は彼女になりきって、気取って歩いてみた。ちょっとふざけてみた、というのもあるが、これこそがまさに、この日帰り旅行の目的だったのだ。―彼女の内面を深く知り、彼女の内側から周りの世界を眺めてみたかった。
「ここよ」とエズミーが言った。道路を向こう側へ横断すると、〈キーブル・カレッジ〉があった。オックスフォード大学はカレッジごとに校舎が別々で、それぞれに寮も付いている。彼女はトムに〈キーブル〉の歴史を大まかに説明した。非公式のガイド役をかってでて、歴史的に意義のある建築物としての校舎、学生数、〈大学クイズ選手権〉に何度も優勝してきた〈キーブル〉の輝ける実績、それから著名な卒業生についてざっと話しながら、大学に沿って道を歩いていった。彼女は校門の前で、警備員の制服を着た女性に同窓生カードを見せると、守衛室付きのアーチ型の門をくぐった。四角い中庭には手入れの行き届いた芝生が広がり、その向こうにゴシック様式の校舎が並んでいた。
「マジかよ、エズミー。こんな浮世離れしたところに住んでたのか?」とトムは、魔法学校でも見上げるように目を見開いて言った。
「まあね。寮はあそこよ。ほとんどの学生があそこで寝泊まりしてたの」と彼女は言って、比較的新しい、機能重視といった感じの建物を指さした。古くてツタに覆われた趣ある校舎の並びには、その簡素な寄宿舎は似つかわしくない感じがして、トムは少しがっかりした。「私たちはここで講義を聴いたり、担当教授から一対一で指導を受けたりしてたのよ。素敵なところでしょ?」
「『回想のブライズヘッド』に出てきそう。っていうか、君にとっては回想の〈キーブル・カレッジ〉か」と彼は、エリートの高等教育の内幕を初めて垣間(かいま)見て、ちょっとばかりショックを受けつつ言った。
「『回想のブライズヘッド』読んでくれたの?」
「読んだよ」と彼は言った。「まあ、半分くらいね。せっかく君が貸してくれたから」
「登場人物を3人挙げてみて」とエズミーが言った。
「いいよ。ほんとは4分の1くらいしか読んでないけど、ウィキペディアも見たから、もしかしたら言えちゃうかも」
エズミーが声を上げて笑った。ここに戻ってこれた喜びが彼女の顔に大きく表れ、その喜びに全身の血が沸き立つように、彼女は笑っていた。それから彼女は青、白、赤の紋章が入ったカレッジスカーフを首にかけると、大学のキャンパスに入っていった。二人は一番大きな中庭をぐるりと一周してから、芝生の真ん中を十字を切るように歩いて渡り、図書館を見学した。エズミーは様々な注目すべき特徴を指さしながら、トムに説明していった。
「そしてこれが」キャンパスの片隅、何の変哲もない場所にたどり着いたとき、彼女は言った。「私が初めてジャミラと出会ったベンチよ」エズミーは、舞台上でイリュージョンの終えたばかりのマジシャンの手つきで、そのベンチを示した。ちょうどそこに座っていた女子学生が、怪訝(けげん)な表情で二人を見上げると、立ち上がり、どこかへ去っていった。「あの時、私は彼女の身に何か良からぬことが起きたのかと思って、近づいたのよ。でも実際は、〈アフターショック〉とか〈ジン・トニック〉とかを浴びるように飲んじゃったみたいで、さっきの中庭で吐いちゃって、中庭には監視カメラが設置されてるから、それに長く映らないように、彼女はこのベンチに一旦避難してたみたい」
「いいね」とトムは、半分聞いていないようなそぶりで言った。
「なんでいいのよ?」
「ごめん。良いという意味ではなくて、つまり―」
「退屈なの?」
「そんなことないよ! エズ、全然退屈じゃないし、むしろ―」
「なんか上の空で、話を全然聞いてないみたいじゃない。つまらないのなら、もう帰ろっか?」
「正直、つまらなくはないよ。ただ、今のところ君は、友達のこととか、有名人が同じ寮に住んでたとか、同じ学年で目立ってた男子がテレビの司会者になったとか、そういうことばかり話してるけどさ、僕はもっと君のことが知りたいんだよ、エズ。君がここでどういう時間を過ごしていたのかをね。さっきここに入ってきたとき、君はとても幸せそうだった」
「わかったわ」と彼女は自信なさそうに言った。「なんていうか、あんまり話すことがないっていうか」
「典型的な君の一日を教えて」
「どこにでもいる学生と同じだと思うわ。学生寮の食堂で朝食を食べて、チュートリアルを受けたり、ゼミがあったり、あとは読書して、夕食を食べて、たまにパブに行ったりして、また読書して寝るって感じかな」
「それはどこにでもいる学生と同じだとは思えないな。まず第一に、ほとんどの学生がそんなに読書しないだろ。学生寮で朝食も、一般的じゃないよね」
「まあ、それはそうね」
「じゃあ、勉強以外に何か活動はしてた? 演劇とか、読書会とか、スポーツは?」
「演劇のことは前に話したでしょ」
「じゃあ、その演劇グループはどこを拠点に活動してたの?」
「あそこら辺のどこか」と彼女は言って腕を上げると、学生街の中心部の方向を指し示した。
彼女は妙に意気消沈していた。公園からここまで歩いてきた時には彼女をキラキラと包み込んでいた自信やら、喜びがどこかへ消え去り、代わりに寡黙(かもく)な、どことなく遠慮がちな雰囲気が彼女を取り巻いていた。
「どうしたの、エズ?」
「聞いて。私がここで過ごした時間がどんなものだったのか、あなたには美化しないでちゃんと知ってほしいの」と彼女は言って、ベンチに腰を掛けた。「正直に言うとね、私はがり勉タイプというか、勉強オタクだったのよ。ほとんど外出しなかったし、友達も片手で数えるほどもいなかった。私はここに勉強しに来たわけだしって思いながら、それを実践しちゃったの。オックスフォードかケンブリッジに入った学生だったら、街全体がキャンパスみたいなものだから、普通はもっと羽目を外すんでしょうけど、私の学生時代は結構地味だったのよ」
「それでいいじゃないか―」
「そうね、私はそんな勉強ばかりの生活を気に入ってたのよ、トム。本当に、心の底から気に入ってた。毎日が楽しくて仕方なかったわ。大学っていう場所の捉え方によるんでしょうけど、大勢の人と出会って、はしゃいで、泥酔する場所だと思って入ってきた人もいることは知ってた。けど、私にとっての大学は、教育の場なのよ。そんな考え方、退屈で堅苦しいと思われるかもしれないけど―」
「いいと思うよ、エズ。もっと多くの人がそういう風に考えるべきだ」と言って、トムは彼女の体を彼のそばに引き寄せた。「ごめん。君が僕をここに連れてきたとき、もっと華やかな学生時代の話を期待しちゃった。オックスフォードとケンブリッジに付き物の話、ダンスパーティーとか、なんちゃらソサエティとか、そんな社交界みたいな」
「ダンスパーティーはね、100ポンド払わないと参加できないとか、そんな感じなの。将来金融界に入る人とか、弁護士になる人とか、そういう人たちだけが行くところ」
「そうなんだ。無料で誰でも参加できるのかと思ってた」
エズミーは悲しそうに首を振った。「限られた人だけよ。他の人は大体みんなパブに行くんだから」
「さあ行きましょ」と彼女は言って、ベンチから立ち上がると、彼の手を引き、キャンパス内の小道を再び歩きだした。現役の学生が携帯電話で話しながら小走りに横を通り過ぎていった。何人かで話しながら並んで歩いている学生たちもいる。「そんなに私の学生生活が気になるのなら、私が住んでた部屋を見せてあげるわ」
彼女がそう言った途端、トムはちょっとしたパニックに襲われた。久しぶりに蘇った火花散る感覚だった。ここでの彼女の生活っぷりがどんなだったのかに思いをはせすぎて、個人的な領域に踏み込みすぎたかもしれない。聞かなければよかったと後悔した。大学は違えど、僕にとっては約9年ぶりに学生寮なる場所に足を踏み入れることになるのだ。トムは、もう時間がないことを期待して腕時計を見た。もうこんな時間だから学生寮は見ずに帰ろう、とでも言おうと思ったのだが、まだ2時半過ぎで、3時にもなっていなかった。
エズミーは彼を連れて、隣のゴシック様式の校舎を回り込むようにして、現代風の建物に向かった。正面玄関にたどり着くと、まずはそっと中を覗き込み、誰かが怪(あや)しんでこっちを見る前に、すっと忍び込んだ。そのまま彼女はトムの手を引き、小走りぎみに廊下を進んだ。足が覚えていた。彼女の足の筋肉に、何度も通った廊下の記憶が蘇る。冷たいリノリウムの床を踏む二人の足音が、すり傷だらけの壁に反響する。階段を上り、2階の廊下を進んでいくと、真ん中辺りでエズミーが立ち止まった。119号室と書かれたドアに向かい合う。
「ここが私の部屋だったのよ」と彼女は言って、久しぶりに見たそのドアを懐かしそうに眺めていた。「前はここに小さい表札が貼ってあって、エズミーって書いてあったんだけどね」
トムもそのドアを見つめていた。今は特に表札はなく、セロテープで貼り付けられたクリスマス飾りのティンセルが一本だけ取り残されたように、ドアにぶら下がっている。
同じだ、と思った。僕が大学時代に住んでいた学生寮との共通点が目についた。匂いまで似通っている。床から立ち込める漂白剤の臭い、学生寮特有のよどんだ空気。馴染み深い要素に囲まれていた。白い壁は長い年月をかけて汚れ、へこみ、すり傷だらけになっている。廊下の一角には掲示板が掲げられていて、ライブの告知や、学生の生活態度に関する注意喚起、火災時の行動などが示されている。
あの夜の記憶が鮮明に残っているわけではない。ただ、周りの人から聞いた話を寄せ集め、自分自身のおぼろげな記憶の断片とつなぎ合わせると、ぼんやりとあの夜の出来事が形を成し、眼前にそびえ立ってくるようだった。
事を起こしたのは夜の10時頃だった。それくらいは覚えている。僕の異変に気づいたのは、サウンドエンジニアを専攻しているジョンという学生だった。僕の部屋からうめき声と、何かを吐くような声が聞こえたそうだ。それから2ヶ月後、僕は請求書を受け取った。何かと思えば、駆け付けた救急隊員が僕の部屋のドアを壊して中に入り、僕を救助したのだが、その時のドアの修理代だった。
それ以上のことは、ほとんど何も思い出せない。
車輪付きの担架(たんか)に乗せられたことは覚えている。担架がガタガタ揺れて、青と赤のライトが見えた。僕の顔を覗き込む人たちの面影も、おぼろげながら残っている。
その後、トムは大学に戻ることができなかった。パリピに憧れて始まった彼の大学生活は、お酒とともに堕落の一途をたどり、ついに自暴自棄の自殺未遂で完結した。翌年復学して、下の学年の、彼のことを知らない学生たちに囲まれて再起を図ろうかとも思ったが、できなかった。どうせすぐに噂が広まってしまうことはわかりきっていた。大学とはそういうところなのだ。聞こえよがしの噂話でがんじがらめにして、締め出すのだ。物静かで内向的な20歳の音大生は、学生の相談に乗るカウンセラーの語り草になった。「何年か前にこういう学生がいたのよ」と語り出すのだ。―カウンセラー室にも来ないで、不摂生な生活を続けていると、彼みたいになっちゃうから気をつけなさい、という「サンプル」として、彼の存在は今も大学に残っている。
そんなところに戻りたくはなかった。当時の記憶を思い出したくなかった。人生の一時期を過ごした大学時代は、あの学期末の夜に終わったのだ。もうすぐ春休み、キリストの復活を祝う長期休暇が始まろうとしていた。これも神の思し召しだと思って去ったのに、またあの時期の不穏な感覚が舞い戻ってくるようだ。せっかく大学を辞めたことで事態は好転した、と確信しつつあったのに。
「大丈夫?」と彼女が聞いた。
「うん、大丈夫」
「なんかそうは見えないけど」
「大丈夫だよ」と彼は言った。
「ならいいけど」とエズミーは、彼が強めた語気に一歩後ずさりながら言った。
トムは廊下の壁に背中をつけ、寄りかかった。エズミーが彼の手をにぎり、そっと寄り添う。
「ほんとに大丈夫なの、トム? 顔色がすごく悪いわよ」
「だ...だいたい大丈夫。き、気にしないでくれ」とトムは、自分を奮い立たせるように言った。せっかくこれまでの時間、楽しい一日を過ごしてきたというのに、エズミーの聖地巡礼なのに、あやうく僕が台無しにするところだった。「次はどこ?」
「お気に入りのパブにあなたを連れて行こうと思ってるの。そんなに遠くないわ。パブの名前はね―」
「それはちょっと...やめてもらってもいいかな?」とトムが言った。「お酒じゃなくて、コーヒーか何かにしよう」
エズミーはさっきから解(げ)せない表情で、首をかしげ気味に彼を見つめている。
「もちろん、それでもいいわ」と言って、彼女は彼の手を取った。一瞬、彼はその手を振り払って逃げ出してしまいたい衝動に駆られた。彼女を前にしてそのような気持ちになったことは、それまで一度もなかった。
〔チャプター 7の感想〕
トムの過去の出来事がより詳細に語られましたね。「似通った場所」が引き金となって、記憶が呼び起こされる、という事象は僕にもあって、←は?
僕の場合、トムとは方法が違って、どちらかというと太宰治寄りというか、血迷って川に入ったんだけど、←海水浴?笑笑←海ではない。
それ以来、どの川にも近寄っていないのは、トムと同じ理由かもしれない。←これ感想か?笑
チャプター 8
午前3時~4時
キャンプ旅行
2012年8月 ― ウィンブルボール湖、サマセット
二人は同時に視線を上げた。テントの屋根の上に雨水がたっぷりと溜まっているのがありありとわかる。ビニールシートの屋根はげんなりと垂れ下がり、トムが天井に引っ掛けて取り付けた簡易ランプは、本来あるべき位置より少なくとも15センチも下に来ていて、二人の鼻先にもうすぐくっつくのではないか、と心配になるくらいだ。
「ていうか、ちゃんとテント張った?」
「張ったよ」と彼は声を荒げた。
「私たち、キャンプに来たの初めてでしょ」
「わかってるよ、エズミー」
「それに...なんかこのテント...ちょっと悲しそうね」
「悲しそう?」
「うん」
「テントが悲しそうってどういう理屈だよ?」
「わかるでしょ。だら~んと垂れ下がっちゃって」
「今日は調子悪いだけで、次回はちゃんと」
「キャンプのことを言ってるのよ」エズミーは激しい剣幕(けんまく)でそう言うと、エアベッドの上で快適に寝られる体勢を探すべく、体をゴロゴロと動かし始めた。トムがくすくすと笑っている。
「何がおかしいのよ?」
「だら~んと垂れ下がっちゃって、って」と、笑いをこらえるように彼が言った。
「見たままじゃない!」
「悲しいことだね、だら~んと垂れ下がっちゃったテント」と彼が言うと、エズミーもつい笑ってしまった。抑えきれず、説明もできず、どうしようもなく何かを面白いと思ったときに鼻から出てしまう、吹き出し笑いだった。彼の笑いにつられるように、彼女の笑いも大きくなり、相乗効果でお互いの笑いがハウリングを起こした。二人は雨音の中でヒステリックな興奮状態に達し、大声で爆笑したい気持ちと、音を立ててはいけないという思いが混在する複雑な心境にいた。まるで学生時代、体育館で何かの集会があって、声を出してはいけないとわかっていても、どんなに必死に抑えようとしてもこぼれ出ちゃう、クスクス笑いのようだった。
「しょんぼりテントね」とエズミーがなんとか言葉を発した。ようやく笑いが収まったようだ。
「しんなり萎(な)えちゃった」とトムがかぶせてきて、彼女が「全然物足りないわ」と言ったとき、二人の気分は頂点に達し、大爆笑の渦(うず)に包まれた。二人はキャンプ場の野原にテントを構えていたので、周りでも同じようにキャンプをしている人たちがいて、近くのテントから、うるさいぞ、と、騒がしくはしゃぐ子供をたしなめるような声が聞こえた。
「すみませ~ん!」とトムが大声で謝ると、それがさらに可笑しくて、エズミーが再び笑いのつぼにはまった。
「おい、お前ら」と、別のテントから声が聞こえた。「俺たちは明日の朝7時から、20kmマラソンのスタートなんだよ。ちょっとは寝ておきたいんだ」
二人はそれを聞いて、再びクスクスと笑いながら、寝袋は別々だったが、風船のお城の上で弾(はず)む芋虫のように、ごにょごにょと体を動かして、ぴったりとくっついた。
笑い声が消え、二人が現実世界に戻ってくると、トムは身を乗り出してエズミーにキスをした。しな垂(だ)れたテントのことで言い争うのではなく、逆に二人して笑っていることに、トムはほっと胸をなでおろした。10分前までは、テントのことで口論が始まる気配が濃厚だった。もしそうなっていたら、夏の嵐のようにすぐに通り過ぎていく、というわけにはいかず、このキャンプを早々(そうそう)に切り上げて帰ることになっていたかもしれない。また先週の続きか、とげんなりしていたのだが、テントが笑いの種になってくれるとは、予想外の好転だった。先週、いくつかの要因が重なり始まった口論は、口喧嘩に発展し、数日間続く長期戦の末、トムはソファで寝ることになった。―同棲を始めてから、ソファで寝たのはそれが初めてだった。
口喧嘩のきっかけの中で大きかったのは、彼の仕事のことだった。ある決済テクノロジーを手がけるIT企業からの依頼で、誰でも口ずさめるような陽気なウクレレサウンドを、という注文にしたがって、トムは何日も夜遅くまで作曲に専念していた。その企業のPR動画に合わせて、BGMをつけてくれ、という依頼だった。TotalPayというその企業は、かなりやっかいな依頼主だった。気乗りしない仕事ってやつだ。特に、その会社のジュニアマーケティングマネージャーとかいう奴(やつ)が、音楽をかじったことがあるらしく、評論家気取りで、競合他社の企業PR動画と比較しては、いちいちダメ出しし、納品した作品をつき返してくるのだ。だったら自分でやれよ、とは言わずに、奴の指摘にしたがって、メロディーやサウンドの微調整を繰り返していた。そもそも、奴が比べている他社は、PR動画の制作に高額な費用をかけているのだ。つまり、ちまちまと僕なんかを雇ったりしない。
「一体いくらもらってるのよ、割に合わないでしょ。馬鹿じゃないの」とエズミーがベッドの中で言った。彼がそのプロジェクトに毎日何時間もかかりっきりなことにイライラしている様子だった。しかし、この種の仕事は評判がものを言うのだ。彼は最近、大手の広告代理店との仕事に有り付けたばかりだし、彼の作品を気に入ってくれたプロデューサーも現れた。僕は良い仕事をする、ということを間接的に示したかったし、それには時間をかけることも厭(いと)わなかった。
そう言われると、彼もイラッと腹が立った。最近では二人とも、相手が正しいとわかっていても、自分からは負けを認めなくなっていた。だから、彼も話し合おうとする代わりに、叫ぶことを選んだ。
「うっせぇんだよ、エズミー。俺だってあんな仕事はやりたくないけどさ、カバーバンドも活動休止中だし、ライブのサポートメンバーにも呼ばれなくなった。どこかで金を稼がないといけないだろ!」と彼は叫ぶと、ベッドから出て寝室のドアを激しく開けた。そして一目散にリビングのソファを目指し、倒れ込むようにうつ伏せに寝転んだ。が、こんな狭苦しいソファの上ではまともに寝られない、と気づいただけだった。それから2時間ほど、悶々(もんもん)と悩ましい闇の中を漂っていた。引き下がるべきか、否(いな)か、それが問題だった。エズミーに詫(わ)びを入れ、ベッドに戻るという道もあったが、ここで一旦こっちが引き下がると、余計に問題が大きくなるだけだと思い、引き下がらないことにした。翌日、やっぱりベッドに戻るべきだった、と、彼はこの決断を大いに悔やんだ。体のあちこちが痛み、特にずっと曲げて寝ていた腰が致命傷のごとく痛み、20分以上パソコンの前に座っていられなかったのだ。
かなり歩きにくい砂利道をすでに5年ほど、共に歩んできた二人にとって、今回の「四六時中、ウクレレサウンドが部屋に流れている問題」も、些細な話題をめぐる個人的な口論が、ちょっと加熱しすぎただけだと、トムは思っていた。ただ、最近では、そんな些細な口喧嘩が、あらゆる場面で勃発(ぼっぱつ)するようになり、気がかりではあった。たとえば、夜中に幼なじみのアナベルが彼にメールを送ってきたり、エズミーが家でノートパソコンを使って仕事をしているときには、彼女が作業をしながら飲んだのだろう、飲みかけの冷たいお茶が入ったコップが家のいたるところに放って置かれていたりと、お互いの行動がお互いの気に障ることが増えてきたのだ。
きっかけの規模と、そこから発展する口喧嘩の規模はあまり相関関係がない。しかし、どんなにひどい言い争いに発展したとしても、トムは、あの時みたいに発作的に別れを切り出してはならない、と自分に言い聞かせていた。あれは2008年10月のことだった。あの時も今回と同じような感じで口論になり、というか、あれは口論の内容よりも、むしろ距離感の問題だった。エズミーが今まで出会った誰よりも僕の内側に入り込んできたから、僕は戸惑い、パニックに陥ってしまったのだ。何もかもどうでもよくなってしまった僕は、発作的に関係を解消してしまった。
もちろん、それから48時間自戒(じかい)を続けた末、彼は自分の愚かさに気づき、彼女に許しを請(こ)うた。しかしながら、カンカンに頭にきていたエズミーは、それから1週間返事をせずに、彼をやきもきさせ続けた。
最終的に彼女は、ピムリコのパブで彼と会ってもいい、と返事をした。秋が深まってきた頃の雨の日だった。トムはあまりにも早く到着したため、酒びたりの常連客の中に混じって、ダイエットコーラを半分ほど飲み、雨で湿った〈イブニング・スタンダード〉を読んでいた。一応壊れた傘を差してはきたが、地下鉄の駅からの短い道のりでさえ、足がびしょ濡れになってしまった。パブは、週の半(なか)ばから何も考えていないような空っぽの顔でお酒を飲んでいる人たちと、雨宿りをするために立ち寄ったのだろう、しかめっ面をした人たちが混在していた。彼らは皆、窓の外の荒れたテムズ川を眺めていた。灰色の水面が水かさを増し、流れを速めている。外の通りを覆っていた黄金(こがね)色の落ち葉は、―通りを歩けばパリパリと葉っぱが割れる小気味よい音さえしたのに、―何日も降り続いた雨のせいで、泥だらけのカビ臭いヘドロみたいな葉っぱに変わってしまった。
トムは新聞のクロスワードパズルに集中し、濡れたページを破らないように力を加減しつつ、「MAGPIE(カササギ)」と書き込もうとしていた。その時、ドアがきしむような音を立てて開いた。顔を上げると、一週間ぶりに目の前にエズミーが立っていた。トムは微笑んで、半分ほど肘(ひじ)を上げると、ぎこちなく手を振った。しかし、彼女が接近してくると、彼はどうしたらいいのかわからなくなってしまった。
ハグ? キス? お互い濡れた服のままハグっていうのもな。ただ、この状況を考えると、キスはやりすぎのような気もする。結局、彼は何もしなかった。彼女は上着を脱ぎ、自転車用のヘルメットをトムの新聞の上に置いた。せっかく途中までやったクロスワードパズルを、彼女が台無しにしてしまったわけだが、なんとかうろたえないように平静を装った。
「マジか。こんな雨の中を自転車で来るなんて、よくやるよ」
「そんなに悪くないわよ」と彼女は簡潔に切り返すと、レインコートのズボンをもぞもぞと脱ぎ、それを壁際の大きな暖房器を覆う鉄の柱に掛けた。
「何を飲む? 買ってくるよ」
「じゃあ、ロンドン・プライドで」と彼女はビールの銘柄を口にした。「そんなに飲みたくないから、パイントグラスの小さいやつにして」
トムがテーブルに戻ってくると、彼女は背もたれのない椅子に腰掛けて、iPhoneに指を滑らせ、メールをチェックしていた。―iPhoneは彼女の新しいおもちゃ、というか相棒で、彼女は最近そいつばかりいじっているから、結果的にトムの大嫌いな器具となった。
「それで」と彼はつぶやいた。
「それで」と彼女も言った。パブのざわめきと、遠くから聞こえるラジオの音が、二人の間の沈黙を際立たせ、余計に気まずくなってくる。
「エズ、本当に何と言っていいかわからないんだけど」
「言うことがないなら、もう帰ってもいい?」と彼女は言って、高さのある椅子から降りようとする。
「ちょっ、待って。頼むよ、エズミー。言葉にするのが難しいだけだよ」
「そう、ならどうぞ」
「なんていうか...」とトムは話し始めたが、彼には自分が何を言いたいのか、何を言えば二人の関係を修復できるのか、何も思い浮かばなかった。ただ彼女にもう一度会いたかっただけなのだ。―会ってからのことなど、何をどう説明すればいいかなど、何も考えていなかった。「言いたいことは、ごめんってことだと思う」
「思う?」
「エズ」
「何? 謝ってるのか、そうじゃないのか、どっちなのよ」
「僕が悪かった」
「そう、それは良かったわね、トム」
「エズミー、頼むよ」
「あなたは私に、もう終わりって突然別れを告げたのよ。理由もさっぱりわけがわからないし、それこそ青天の霹靂(へきれき)だったわ。それで、こんな陰気なパブに呼び出しておいて、言いたいことは、僕が悪かった、だけ?」
トムはよりを戻そうと、彼女の部屋にも直接行ったけれど、彼女は不在だった。カムデンからピムリコまで無駄足だったわけだ。
「これは『ごめん』で済む問題じゃないでしょ、トム、わかってる?」
「君が住んでいるところから近いパブを選んだんだよ」と彼は、とりあえず言ってみた。
「何?」
「このパブだよ。君の家から来やすいと思って、ここを選んだんだ。なんかここじゃ不満みたいな言い方だったから」
「それはそうなんだけど、トム。パブの選択は、とりあえず今は、言いがかりのリストの一番下でいいじゃない。まずは、今回のことが起きたそもそもの理由はなんなのか、そこから始めるのが筋じゃない?」
「僕は―」トムは躊躇(ちゅうちょ)した。彼は、自分が別れを切り出した理由を正確に把握していた。ただ、それを自分自身で認め、正直に話すことが、嘘をつくことよりも事態を悪化させるのではないか、と気がかりだったのだ。「僕は神経過敏なんだ」
「神経過敏?」
「そう。なんていうか、ほら、僕らの関係が親密になればなるほど、関係がダメになった時に傷口が大きくなるというか、そう考えるとね」
「それで、自分からさっさとダメにしてしまおうって?」
「まあ、そんなところだね。でも、見切り発車で言っちゃってから、よく考えたら、ダメにするなんてダメだって気づいたんだ。わかってもらえるかな?」
「ちょっと何言ってるかわかんないけど」
「ほら。僕たちは何度か口喧嘩をしただろ。だんだんと関係が変わってきてるんだよ」
「それが人生というものよ、トム」
「わかってるけど―」
「それに耐えられないのであれば、その時は...神のみぞ知るね」
「もし僕らが一緒に住むことになって、たとえばだけど、もしそうなったとして、それでうまくいかなかったら...ひどいことになると思わない? それに、僕って、ルームメイトに不向きというか、僕と一緒に暮らすのはそう簡単じゃないよ。だから僕は―」
「怖気づいたの?」
「そうじゃないけど」
「あなたは怖気づいたのよ。まあ、そうなっちゃうのよね。クリスティーンって子、知ってる? 彼女は今はバーニーと付き合ってるんだけど、前にジェイソンっていう男と付き合ってて、彼と同棲する直前まで行ったの。だけど、引っ越しの2週間前になって、彼は彼女の家に来る途中、バスを途中で降りて、いかがわしいマッサージ店に入って、お金を払ってセックスしたのよ。彼はそれを何のせいにしたと思う? 怖気づいた、ですって」
「僕はしてないよ...そんなことしてない」
「私が言いたいのはね、トム。『怖気づいた』っていうのは、クズ男が自分の不始末をごまかす時に使う下手な言い訳なのよ。それで、あなたはどうして私に、もう終わりにしよう、って言ったの? ほんとは色々思うところがあったんでしょ。でも、そういうのは端折(はしょ)って、一言で済ませたのはなぜ?」
しばらく黙り込んでから、トムは「わからない」と言った。なぜ廊下の火災報知器を鳴らしたの? と𠮟(しか)られている小学生のような気分だった。なぜかと聞かれても、正直、自分でもわからないのだ。わかるのは、自分が間違いを犯した、ということだけだった。
二人とも解決を望んで足を運んだにもかかわらず、その夜、二人は和解に至らなかった。エズミーはまた連絡すると言って、彼を数日間待たせてから、再び連絡を取り、このようなことは最初で最後にしてよね、と明言し、釘(くぎ)を刺した。
トムは二人の関係の軌道を中断させてしまった。一旦不時着(ふじちゃく)した感じだ。だけど、不思議と後悔はなかった。自分がわけもわからず、ごねて、関係をぎくしゃくさせてしまったことは悪かったと思う一方で、この1週間ばかりのインターバルを経て良かったと、ほっとしている自分がいた。
このキャンプ旅行は、二人が明言したわけではないが、関係の修復と再構築のための練習という側面もあった。西部地方で5日間、歩き、食べ、話す。それだけをやってみようということになったのだ。「SNSも、仕事のメールも一切なし」というルールをエズミーが決めた。トムは、どうでもいいようなちっちゃなことですぐに腹を立てないようにする、と約束し、一方エズミーは、彼のささいな欠点をすぐにあげつらうのはやめる、と言った。
そして今、彼らは濡れて、体を冷やし、急速に崩壊していくキャンバス生地のテントの中で身動きが取れなくなっている。
「これってあなたが思い描いてたキャンプ?」と、崩れかけているテントを見上げ、エズミーが聞いた。「テントが崩れ落ちてこないことを願って、このまま目を開けてるしかないわね」
トムは冗談を言おうかとも思ったが、ここはやめて、正直な気持ちを言うことにした。
「僕はただ、仲直りできればいいなって願ってるよ」と彼は言った。
「トム―」
「わかってる。最近の僕は、カッとなったりして、一緒にいて嫌気がさす感じだったよね」
「そんなことないわ、トム」
「いや、ほんとのことだよ」
「それを言うなら、私も、一緒にいて嫌気がさしたでしょ? たぶん私は、あなたの仕事とか、状況がどう変わっているのかとか、そういうことをあんまり理解していないのかもしれない。私って外の世界を知らないっていうか、キャリアをステップアップしていく必要がないから、焦って次の仕事を考える必要もないし。割れにくいシャボン玉の中にいる感じかな」
「音楽業界にそんなシャボン玉はないんだよな。見つけたと思ったら、すぐ弾(はじ)けちゃうものばかりだった。少なくとも今までは」
「でも、あなたは広告関係の仕事が得意なんでしょ。元々あなたがやりたかった音楽は、そういうんじゃないっていうのはわかってるけど、作曲は作曲なんだし。作曲家を名乗れる人なんてほとんどいないんでしょ?」
「一口に作曲っていっても、いろんなレベルの仕事があるからな」とトムは言いながら、自分を取り巻く環境の変化を思い返していた。1年ほど前、テレビの背景音楽を手がけるサウンドプロデューサーが、僕の作品に興味を持ってくれたことをきっかけに、僕には素質があるんじゃないか、と勝手に解釈してしまった。ただ、その興味はほんの一瞬僕に向けられただけで、すぐに弾けて消えてしまった。けれど、そのプロデューサーが紹介してくれた別のプロデューサーに会ってみると、君の才能は主にインターネットを使った広告で活かした方がいいんじゃないかと提案され、この道に入ったのだ。それなりにお金も入ってくるし、自分に向いてる仕事だと思った。まあ、締め切りがあるから、多少妥協して納品しなければならない時もあるけど、おおむね順調なすべり出しだった。家で作業をする時間が増え、ライブの出演がなくなっても、作曲だけで生計を立てられるようになった。思い描いていた作曲生活とは、だいぶ趣が違ったけれど。
「レベルってどういう意味?」
「例えば、映画のスコアとか、そういう目立つ仕事をしてる作曲家もいるけど、限られた人しか耳にしない短いジングルみたいなものを作曲してる人だっているんだ。クレジットカードの読み取り機を売る企業のPR動画なんて、その読み取り機の購入を検討してるスーパーマーケットの担当者しか見ないよ」
「でも、それだって作曲家には変わりないじゃない、トム。それってすごいことよ。それにいつか、自分の道を歩める日が来るかもしれないしね」
「それはどうかなぁ」
「もしそうならなくても、私はあなたが作った短いジングルの一つ一つを誇りに思うよ。ジムでそれを繰り返し聴きながら汗を流すわ」
トムは微笑んだ。彼女は本心からそう言っていると思えた。僕のやることなすこと、すべてを彼女は肯定してくれる。ハムステッドの裕福な家に出向いて、音楽に興味のない子供たちに音楽を教え込もうとする家庭教師を辞めて、新たに広告業界へ舵(かじ)を切っても、彼女は僕を励まし、全面的に受け入れてくれる。児童言語療法士として確固たる地位にいる彼女には、心の底から僕の心境に共感することはできないのかもしれない。だとしても、彼女は常に僕の行動を肯定的にとらえてくれるのだ。
「私の方こそ、謝るべきね」とエズミーが静かに言ったのは、周りで二人の会話を聞いていた他のテントの人たちが、ようやく夜中のお喋りが終わってくれた、と思うくらい沈黙が続いた後だった。
「いや、僕の方こそ」とトムは納得いかない様子で言った。
「トム、そこで張り合わないで。私なのよ、最近の私は...気が張ってた。理由はわからないけど」
「アナベルが夜中にメールしてくるから?」
「それは明らかにすごい迷惑よね。でも、それだって今までは気にならなかったのよ。それに、私はアナベルが好き。彼女はあなたにぴったりよ、いいコンビね。彼女がいなかったら、あのパーティーで私たちは出会えなかったわけだし」
「そうでなくても、僕たちは出会えたと思いたいな」
「どうやって?」と彼女が言った。
「たぶん地下鉄の中でね。たまたま君の好きな小説を読んでる僕を見かけて、君が僕に話しかけてくるとか」
「私が地下鉄で見知らぬ人に話しかけるなんて、絶対にあり得ないわ。それに、私は自転車で通勤してるのよ」
「じゃあ、自転車のタイヤがパンクしちゃって、そこを、たまらなく魅力的な僕が通りかかるんだ。君がつい話しかけたくなっちゃうくらいたまらなくね」
「まあ、あなたが通りかかれば、そうなっちゃうわね」と彼女は、彼の発言を小馬鹿にするように鼻で笑って言った。「それはともかく、最近の私は気が張ってたし、愛想がなかった。私はちょっと...」
そこで彼女は間を空けた。その先を言う勇気を振り絞ろうとしているようだった。
「何、エズ?」とトムは聞いた。
「ねぇ、この機会に教えて。あなたは...問題を抱(かか)えてないの?」と彼女が聞いた。彼女は真剣な表情で彼を見つめている。トムはなんとか取り繕(つくろ)って答えようとしたが、その前に、頭上でテントのポールがボキッと折れる音がした。
「やばいぞ、脱出だ!」とトムが言った。彼らは寝袋から這い出て、衣服をいくつか掴むと、大急ぎでテントから脱出した。間もなくテントの前半分が、溜まった雨水の重みでガクンと崩れ落ちた。坂道のようになったテントの屋根を、溜まっていた雨水がドバッと下(くだ)っていく。ささやかな鉄砲水のごとく、さっき彼らに静かにしろ!と言ってきた、不機嫌なキャンプ愛好家たちが中で寝ているテントへ向かって、その水は突き進んでいく。トムとエズミーは濡れた野原の真ん中で、パジャマにゴム長靴という格好で突っ立っていた。
「正直に言うけど」と彼が言った。彼のよれよれのチェック柄のパジャマは、どんどん雨を吸い込み、下半身までぐっしょり濡れてきた。「実はテントを張るとき、説明書をよく見ていなかったんだ」
「だと思った」とエズミーが言って、雨に打たれながら笑い出した。なんとか持ちこたえていた最後の1本のポールも折れて、テントのキャンバス生地が地面にへたり込んだ。エアマットレスと、保冷用のクーラーバッグ、それからトムのウォーキングブーツの輪郭が生地に盛り上がって浮かび上がった。
「頼むから、静かにしてくれないか?」と、別のテントからしわがれた、怒鳴り声が聞こえてきた。
「さっさとずらかりましょ」とエズミーが笑いながら言った。二人はそそくさと荷物を抱えて、グシャグシャにぬかるんだ野原を駐車場に向かって駆け出した。トムはぬかるみを踏みしめながら、さっき彼女が聞こうとしたことを、改めて彼女が聞いてこないことを願っていた。問題は抱えてるけど、抱えてるなんて言えないよ。
〔チャプター 8の感想〕
エズミーはNHS(国民保健サービス)から小学校とかに出向している言語療法士なんですよ。
NHS(National Health Service)とは、
ウィキペディアによると、
「国民保健サービスとは、イギリスの国営医療サービス事業をさし、患者の医療ニーズに対して公平なサービスを提供することを目的に1948年に設立され、現在も運営されている。NHSにはイギリス国家予算の25.2%が投じられている。」そうです。
つまり、エズミーは、ほぼ公務員の医者みたいな感じなんですね。よって、職を失う心配とか、次の仕事を探す必要がないわけで、そこがトムとの違いであり、(僕との違いでもあります。笑)
僕もこの何年かの間に何十回と、個人で仕事をしたことがあって、それはそれは嫌味な企業とか、意地悪な依頼主が結構いました。←愚痴?笑
こっちは超低賃金でやってるっていうのに、評価される立場だから、何も言えず、どんな要求にも従わなければならない...ああ、もうへとへと...って感じ。泣
(あ、もちろん、僕みたいに性格の良い依頼主さんもちゃんといますよ。)←僕みたいに?笑
あ、話が逸れましたが、僕はトムと気が合うんですよ! とはいっても、恋愛の方は、僕の場合、3年くらいで終わっちゃいましたが、この小説の中に色々と共感する場面があるわけです。でも、キャンプには行かなかったな。それが失敗だったか...
僕もテントで一緒に寝る、という非日常体験を共有していれば、上原レナちゃんともっと長く続いたかもな~!←前から思ってたんだけど、その上原レナちゃんって本名なの?笑笑
チャプター 9
午後1時~2時
サプライズ・パーティー
2011年5月 ― ベルサイズ・パーク、ロンドン
「来てくれるんだろ?」と、トムは携帯電話を耳と肩の間に挟み込み、紙吹雪が入った袋を開けながら言った。
「たぶんな」
「『たぶんな』じゃないよ、ニール」
「今さら何を言ってる? 俺は今までずっと定(さだ)まらない男としてやってきたんだ」
「フェイスブックでは、拒(こば)まない男でやってるじゃないか」
「まあ、それはそうだな。それがフェイスブックってもんだろ?」
「いいから来てくれ、いい?」
「ていうか、何が問題なんだ?」とニールが聞いてきた。一歩歩み寄ってくれたわけだが、トムが求めている完全承認にはまだほど遠い。
「会場が広すぎて、困ってるんだよ。2ヶ月前に予約した時よりもずっと大きい部屋なんだ」
「部屋が2ヶ月前よりも大きくなる、なんて怪奇現象があるのか? 同じ部屋だろ」
「察してくれ。そう感じるくらい広いって話だ」とトムは言いながら、ベルサイズ・パークにある〈ザ・ラム(子羊)〉というパブの、がらんどうの多目的ルームを見渡した。これまで1時間かけて、トムはテーブルやカウンターチェアを、配置に工夫を凝らしながら並べ、ビュッフェ用のテーブルには、メインのケーキと、エズミーが好きな食べ物をケーキを囲むようにして並べた。それから天井や壁に、青と白のヘリウム風船を大量に吊るし、華やかさを演出した。それでも部屋は広すぎて、がらんとしている感は消えてくれない。「40人が入れるスペースを甘く見ていたよ」
「なるほど、お前がローストフトでライブをやった時みたいにか。あの時もガラガラだったもんな」
「黙れ」とトムは言った。「ここにいてくれるだけでいいんだ。30分だけでいい。っていうか、30分で帰ってくれ。お前が長居すると、ろくなことにならないから。せっかくのサプライズパーティーがハチャメチャになるのだけは避けたい」
「いいよ。ステイスを連れて行ってもいいならな」
トムはステイスが誰なのか聞こうと思ったが、聞くだけ野暮(やぼ)だと思ってやめておいた。どうせ彼女はニールの最新のガールフレンドだろう。すぐにまた、ニールの元カノの長いリストに加えられるとみた。彼には、すぐに恋に落ちてしまう、という残念な癖があるのだ。ただ、恋に落ちるのと同じくらいのスピードで、相手の許しがたい欠点を見つけてしまうという厄介な特質もあって、そのせいで女性関係の回転率が、ミキサーで攪拌(かくはん)しているのではないかと思うほど速く、周りの人間はついていけない。だからといって、僕がステイスの名前を覚えていない、なんて言ったら、ニールはひどく腹を立てるに決まっている。
「もちろん連れて来てもいいよ」と言って、トムは電話を切った。「なんだよ、くそ」と彼は、自分が飾り付けた見栄えの悪い、出来損ないのパーティー会場をようやく客観的に見て、つぶやいた。パーティーの開始時間まで残り1時間を切っていたが、まだやるべきことが山ほど残っている。
少なくとも、エズミーがこのパブを気に入っていることは知っている。晴れた週末にはハムステッド・ヒースを散歩した後に来たり、雨の日曜日には新聞のクロスワード・パズルを解くために来たり、つまりほぼ毎週末のように訪れているパブだった。二人にとって、いつしかそこは、歴代のお気に入りの場所と肩を並べるくらい個人的な、ホームと呼べるような、くつろげる空間になっていた。彼は初めのうちは、リラックスするためにパブに行く、という考え自体に抵抗を感じてはいたけれど。
トムにとって、酒場は魅惑的であると同時に恐怖を呼び起こす場所でもあった。パプにいる時は常に、自分がどんな人間であるかを自分に言い聞かせている必要性を感じていた。
最初の頃はこの種の不安感に駆られ、〈ザ・ラム〉から早く出ようと、言い訳や噓を重ね重ね口にしていた。店に入ってまだ数分しか経っていないうちから、時には彼女が注文する前であっても、ここから逃げ出せるような口実を見つけ出し、何気なさと切実さのはざまで彼女に訴えるのだ。
今日は混んでて、席が空いてないみたいだね。
ごめん。急に気分が悪くなっちゃった。
なぁ、家に帰らないか? 映画でも見ようよ、それか...
しかし、多くのことがそうであるように徐々にではあるが、エズミーの存在がトムの心を癒し始めた。ロンドンという都会に住む20代男子の魂を救うのは、たいていそういうことなのだ。彼女と向かい合って座っている限り、周りにお酒が溢れるお店の中にいても、禁酒を続けることはそれほどの苦行ではなかった。次第に、パブがなんでもない場所に感じられるようになっていった。
彼女はもちろん、僕の内面の葛藤を何も知らない。カウンターの壁のディスペンサーにはお酒のボトルが逆さまに設置されていて、グラスに注がれるのを今か今かと待ち構えている。チラッとそちらを見れば、僕を惑わすように、それはボトルの中で煌(きら)めいている。飲まなければいられない、という強迫観念は今ではもうない。だけど、消せない何かが心のうちにあった。飲もうと思えば飲むことができるという認識がもたらす、誘惑の前兆のような感覚だった。たとえ飲みたくはなくても、魅惑の鐘の音がかすかに鳴っていた。
それは馴染みのある不安感だった。今でもごくたまにこういう感覚に包まれるのだが、10代後半から20代前半にかけては、それが日常茶飯事だった。僕は銀色に煌めく紙吹雪をテーブルにまき散らしながら、その頃を思い出していた。紙吹雪の一つ一つは30の数字に縁取られている。エズミーの30歳の誕生日を盛大に祝ってあげたい思いに、過去の苦い思い出が覆いかぶさる。酔いつぶれた僕を友人が寮まで連れて帰ってくれたこともあったし、午前3時に父親と姉が、水とコーヒーで僕の酔いを覚まそうとしてくれたこともあった。その時、母は近くでただ泣いていた。大体は学生寮の部屋で一人飲んだくれて、夜更けには年季が入ったカーペットにゲロを吐いていた。まさに、アルコールの危険性を示すにはふさわしい、症例の見本市のような日々だった。だからこそ今では、そういう学生時代を思い返すことで、お酒に対して常にノーと言い続けているのだが、それから数年後、24歳くらいの時には大きなぶり返しもやって来たし、さざ波は絶えずあって、自分をごまかしごまかし、エズミーの顔を見ては、なんとかやり過ごしている感じだ。最終的にたどり着いた結論めいた考えは、僕に欠けていたものの代替要員としてお酒に頼っていた、つまり、精神の支えとしてアルコールを使い、結果、精神を壊した、という相容(あいい)れない矛盾だった。
トムは手に消毒液をつけた。つんと嫌な臭いが鼻をかすめる。ビール・ディスペンサーの取っ手をさするように握る。これをひねるだけでビールが流れ出てくるのだ。5年間続いた禁酒生活から抜け出すのは、どれほど簡単なことか。一口飲めば、きっとそれがパイントグラス1杯になり、1セッションとなり、1つの失敗になるのだ。
手や首がピリピリしびれて、そわそわしてくる。全身の血管がアルコールを求め出したのだ。僕はエズミーのことを頭に思い浮かべようとする。彼女の笑顔や、僕が不安になり始めたら、それを察して僕の太ももに乗せてくれる彼女の手のひらの感触を思い浮かべ、彼女のために禁酒を続けなければならない、と思った。そしていつかきっと、彼女に全てを話そう。今はまだ無理だけど。
トムは腕時計を見た。招待状でみんなに呼びかけた午後1時半が近づいていた。主役のエズミーは、友人のジャミラに連れられて、午後1時45分にこのパブに来る手はずになっている。午前中は老舗百貨店〈セルフリッジズ〉で買い物をしていたはずだ。さりげなくランチを食べにこの店に立ち寄るように、とジャミラに言ってある。
彼が紙吹雪を無造作に辺りの床にまき散らしていると、階段を上がった入口のところに、二人の若い女性がひょっこり顔を出した。(一人は何となく知っている顔で、たしかこの店のバーテンダーだ。)
「いい感じね」と、見覚えがあるショートカットのブロンドヘアーの子が、イギリスの北部地方のアクセントで言った。
「どうも」
「風船の位置が全体的に低いかもしれないけど。ここの天井は高いから、もう少し高く上げても大丈夫よ」
「もう紐(ひも)がないよ。全部使い切っちゃったから」
「そう、ならこれで、全然問題ないわ」と彼女は、明らかに問題ありと言いたそうな表情で言った。
「それで、何人来るの?」
「40人くらいかな」
「わかってると思うけど、会場費だけで2,000ポンド(約31万円)になりますからね。それにプラスして、飲食代もよ」
「わかってます」とトムは言いながら、お酒をやめてから10年近く経つけど、過去最大の飲み代が自分に降りかかってきそうだ、と思った。ゲストは大勢来てほしいけど、そうすると、飲み代もその分かさむという皮肉に、苦笑いがこぼれる。
「彼女の名前はなんていうの?」
「エズミーです」
「いい名前ね。あなたの奥さん?」
「ガールフレンドです」
「何年付き合ってるの?」
「もうすぐ4年になりますね」
「彼女はラッキーね、あなたみたいな人と付き合えて。私のボーイフレンドは、パブに飲みに連れて行ってくれることすらほとんどないし、誕生日パーティーを会場を貸し切って計画なんて言わずもがな、絶対にしないわ」彼女は微笑みながら、ミキサーに入れるフルーツを切り始めた。トムは、エズミーの最近の写真を集めたボードを、季節がら使われていない暖炉の上に飾った。
階段がきしむような音がして、彼は入口の方を振り向いた。ほどなくして、エズミーの両親、タマスとレナが笑顔で現れた。二人はこのパーティーのために、珍しくロンドンに出てきたのだ。タマスは手を伸ばし、トムの手をきつく握りしめた。思いっきり握り返してこい、と言わんばかりの力強さだ。まるで握力で男の度量を測れると本気で思っているようだった。一方、レナはトムをぎゅっと抱きしめると、頬に長めの口づけをした。頬に深紅(しんく)の脂ぎったキスマークがべっとりと残るほどだった。
「本当にあなたって素晴らしいわ、トム。うちの子のために、こんなことをしてくれるなんて」と彼女は言った。「会場も素敵に飾ってくれて」
「ありがとうございます」
「少し風船が低いように見えますけどね」
トムは引きつった笑みを浮かべながら、ちょっと失礼します、と言って自分の両親の元へ向かった。ぐずぐずしてると、僕の両親がつかつかとこっちにやって来て、エズミーの両親と気まずい会話を始めるに決まってるから、それを食い止めるためでもあった。―僕の両親はきっとそうするのだ。そうしたいからではなく、そうすべきだと思ってするのだ。
この4人が顔を合わせるのは今回が初めてというわけではない。2009年、エズミーとトムが一緒に暮らし始めてから2ヶ月後に、二人は引っ越し祝いをしたのだが、新居で行われたそのささやかなパーティーが、お互いの家族の初顔合わせにうってつけの機会となった。4人とも上辺(うわべ)は打ち解けたように振る舞っていたが、50代後半とか60代前半の男女の間に友情が芽生えたり、それを育むなんてことは、人によって程度の差こそあれ、無理な相談なのだ。その年齢になれば、確固とした自分らしさというか、ゆずれない特質を備えているわけで、それがバチバチとぶつかり合い、見えない火花を散らすのは不可避だった。
それでもなお、4人は、あたかもそれが自分の子供のたっての願いであるかのように、あるいはゲームを楽しむように、事あるごとに一通りの表面的な礼儀作法をこなすのだった。そして後日、父親はトムに向かって、それしか言うことがないのだろうが、聞き飽きた台詞を口にする。「タマスさんはいい人だな、奥さんのレナさんは素敵な女性だし」そう言われたところで、中身がこもっていないのが丸わかりだから、返答に困るだけだ。
「素敵な会場に仕上げたわね、トム」と彼の母親が言った。「彼女はこの会場にふさわしい人なのよね?」
「もちろんだよ、ママ」とトムは言った。彼女は誇らしげに彼の二の腕を掴むと、興奮気味に彼の腕を左右に揺らした。おそらく母親はこの日に特別な何かを期待しているのだ。誕生日パーティーなのに、婚約披露パーティーか何かと勘違いしてもらっては困るのだが。
「ただあれだな、もう少し風船を上に掲げた方がいいな。彼女の友達が、みんな小人ってことはないんだろ?」父親はそう言って、くっくっくっと一人で笑いながら、バーカウンターの方へ歩いていった。どうせ店員に向かって、「ロンドンはなんでこんなに物価が高いんだ」と、文句ともジョークとも取れるような言い方で絡みだすに決まっている。
階段を上がってくる、さらなる足音が聞こえた。エズミーの友人たちが、彼氏を引き連れてやって来たのだ。―彼氏連中はトムにとって馴染みのある面々だった。というのも、何かのパーティーがあるたびに、エズミーに背中を押されるようにして、彼氏たちの輪に否応なく入れられていたからだ。彼らとは、3回、4回と会ううちに、フェイスブックで友達に追加されたり、時にはゴルフやフットサルの試合に誘われるようになった。彼らも、僕がどうせ断ることはわかっていて儀礼的に誘ってくるのだ。(エズミーはそのたびに、たまには体を動かしてきなさいよ、としつこく言ってくるのだが、)僕は結局断るのだった。「昼間に外でスポーツ」というだけなら、行ってもよかったのだが、その後の飲み会が目的であることは目に見えていたので、断ざるを得なかった。
最初に現れたのはローラだった。エズミーの元同居人の記者だ。一緒にスティーブ(「ステ」と呼ばれている男)も入ってきた。彼は「マジか、お辞儀して通れってことかよ」と叫ぶと、風船に頭突きをくらわせた。その風船がトムの方へゆっくりとなびいてくる。エズミーの話によると、ローラはもうすぐスティーブと別れるつもりらしい。すでに彼女は同僚の男と懇(ねんご)ろな関係にあり、その男に乗り換えるという。昨年の総選挙の取材で、一緒に徹夜でレポートを書いているうちに気心が通じ合い、そこから発展してベッドをともにしてしまったというのだ。トムは、もうすぐ捨てられる「ステ」を見て、少し同情した。といっても、ほんの少しだ。彼は時間とお金に余裕があるから、ロンドンの中心地〈スクエア・マイル〉のストリップ劇場に足しげく通っているのだ。そんな男にありったけの同情は出せない。
続いて、エズミーの友人と、そのパートナーが続々と入ってきた。トムは指折り数えるほどしか会ったことがない人たちもいる。エズミーの人生にはまだ詳しく語られていない地域があって、彼女たちはそこで仲良くなった子たちだろう。大学時代の友人たちとは、離れれば離れるほど連絡を取らなくなっていくらしく、大学でできた友人と会ったり話したりすることは今ではまれなようだ。彼女たちは、トムがこのパーティーを企画したことを、すごいじゃない、と称(たた)えたり、どうやって今日まで彼女に秘密にできたのかと感心したり、それからもちろん、風船の位置が低すぎることについて言及したりした。
「パブの安全衛生規則で決められてるんだよ」とトムはつい、エズミーの幼なじみの同級生に向かって、少し大きめの声で言い放ってしまった。レスターから来た彼女はただ、誰がこのバルーンを飾り付けたの? と、疑問に思ったことを悪意なく口に出しただけなのに、溜まったうっぷんを彼女にぶつけてしまった。「ヘリウム入りのバルーンは天井から6フィート(約180センチ)以上離さなければならないっていう規則があるんだよ」
風船に囲まれ、人々が次々と挨拶してくる。こんにちは、とか、元気してた? とか何気ない世間話が繰り返されるが、トムは会話に集中できなかった。時刻は1時40分。あと5分でエズミーがやって来る。周りを見渡せば、エズミーの知り合いや、エズミーが大好きな人たちが彼女の到着を待っている。トムは不安に包まれていた。エズミーがここに入ってきて、この面々を一度ぐるっと見渡したのち、彼女は踵(きびす)を返し、そそくさと帰ってしまうのではないか、という予感が拭えなかった。
このパーティーの企画自体が、ひどく残念なアイデアだったのだろうか?
「私とあなただけで祝いましょ。ディナーとか。それか、週末のお出かけ程度でいいわ」と、彼女の30歳の誕生日はどうしようか? という彼の問いかけに対して、エズミーは言っていたのだ。あれは今年の元日のことだった。ロンドン動物園とかがある〈リージェンツ・パーク〉を散歩するのが、二人にとって1月1日の恒例行事になっていて、軽い足取りで冬の公園を散策しながら、これからの数ヶ月の希望や展望について漠然と、気楽に話していた。
「でも、30は大きいだろ、エズ」とトムは言ってから、急に言い訳を始めた。「いや、数量的な意味で大きい、って言ってるんじゃなくて、30歳はまだまだ若いけど、なんていうか、人生の節目という意味で大きいだろ」
「そうね。でも節目って言われても、実際何をすればいいの? 私の生活は2年前と何も変わってないのよ。横にあなたがいることを除けば、5年前とも同じね」
「まず第一に、同じなんてことはない。第二に、この10年間を振り返ってみようよ。最近の2年よりもたくさんのことを、君は20代の間に成し遂げてきたんだ。僕と違って大学で学位を取って、修士号まで取って、素晴らしい仕事を得て、ロンドンにホームを持った」
「ロンドンにホームはないわ。私たちが住んでる部屋は賃貸よ。ロンドンの共同住宅に住んでるだけでしょ」
「そうだけど、僕が言いたいことはわかるだろ。言い方はなんでもいいけど、ロンドンを拠点に生活してるじゃないか」
「私の本心を言えば、べつにロンドンに住みたいとも思ってないけどね」
「マジで言ってる?」
「イギリスにはたくさん都市があるじゃない。ロンドンだけが都市じゃないでしょ、トム」と彼女は、むくれたように頬を膨らませて言った。「今年はいろんな都市で会議に参加したわ。ブリストル、ノリッジ、マンチェスター、どこも素敵な街だった」
「僕の家族は今もノリッジの近くに住んでるよ」
「だから?」
「もし僕らがノリッジに引っ越せば、いつでも会いに行ける」
「家族に会うのはいいことよね」
「でも、いつでもってなると、うざいかも」
「そうね。っていうか、私が言いたいのはね、私はもうすぐ30歳になろうとしている。たしかにそれは大きいことなんでしょうけど、でもね、きっかり10年置きに節目が来て、すべてがリセット、みたいに思いたくはないの。30歳になる条件が揃ったから数字が繰り上がるってだけで、私の未来は過去数年の延長線上にあるだけなのよ。それはずっとそう」彼女は凍った水たまりの氷をブーツで割ってから、続けた。「私たちの親の世代が30歳になった時は、まさにそんな感じだったんでしょうね。仕事があって、家があって、家族がいて、友人がいて。それから、40代半ばになって、自分の子供たちが自立してそれぞれの人生を歩み始め、友人たちが離婚し始めるまでの間も、何も変わらなかった」
「何が言いたいんだ、エズ?」
「今の30歳は昔みたいに大きな意味はないってこと。なぜそれを祝うのか、私にはさっぱりわからないわ」
「じゃあ、代わりに何を祝えばいいんだ?」とトムが聞いた時、二人はテニスコートの脇にさしかかった。そちらに目をやると、ぽっこりお腹の中年男性たちが、若いテニスコーチの目を引こうと、やたらめったら力(りき)んでサーブやスマッシュを打ちまくっていた。
「5よ」
「は?」と、トムもつられてコーチをチラ見しながら言った。
「5がつく年(とし)を祝うべきだわ。25歳、35歳、45歳。今の時代、節目となるのはむしろそっちね。25歳、大学を卒業して、自分の人生の大海原に出て、これから何をして生きていくべきかを考える年よ。35歳になると、もう結婚していたり、子供がいるかもしれないわね、あるいは何かしらの人生の蓄積みたいなものは手にしてるでしょ」
「45歳は?」
「どうなんだろ。離婚しようとしてたりしてね」
「なんか陽気に言うね」
「25歳で相手を探して。45歳になったら、また別の誰かを探すのよ。人生ってそういうもの」
「なんて暗い未来像を描(えが)いてるんだ? 絵の具の色を変えた方がいいと思う」
「そんなにどんよりとした絵じゃないわ。ただ写実的なだけ」
「それはともかく。じゃあ、35歳になったらパーティーをするってこと?」
「私はパーティーがあまり好きじゃないのよ」
トムは何も言わず、ボート乗り場のある池にかかる橋を渡り、北に向かってカムデンの方へ戻り始めた。
「どうして黙っちゃったの?」と彼女が聞いた。「ねぇ、パーティーを企画しようとしてたとか、そういうんじゃないんでしょ? 違うって言って」
「それいいかも。みんなで集まってさ」
「ちょっとやめてよ、トム。ほんとにやめて。あなたのお姉さんみたいに、『ノーだけど本当はイエス』って意味じゃなくてよ。彼女はフィアンセのネイサンに『クリスマスプレゼントなんて要らないわ』って言ったんでしょ? そしたら彼が真に受けて、本当に何も買わなかったって話は面白いけど、私の場合はノーと言ったらノーなのよ」
「わかったよ」とトムは言った。「ノーと言ったらノーね。了解」
ノーと言ったらノー。
その言葉がトムの頭の中で鳴り響いた時、ジャミラからメールが届いた。
もうすぐエズとパブに着くわ。みんな準備はOK?💋
トムは「OK」と打ち返すと、グラスを2つ手に取り、それをカチンと鳴らして、みんなを静かにさせた。グラスの鳴る音が耳にこだまし、喉(のど)が急激に乾いていくのを感じつつ、この企画自体が本当にひどいアイデアだったんだ、と確信した。今からでも遅くない、みんなに裏口から帰ってもらった方がいいのではないか、という考えさえ過(よぎ)る。
「皆さん、あと2分です」と彼が声を上げると、周りから大きな歓声が湧き起こった。
「こういうのってどうやればいいのかわかってないんだけど、まず電気を消して、静かにして、彼女が入ってきたら、『サプライズ 』って叫ぼう」
バーテンダーの女性がそれに応えて、調光スイッチを切った。部屋に暗幕がかかったように、急に薄暗くなる。その時、パブの古い木製の階段がきしむ音がした。エズミーだ。
トムの胸は高鳴った。―彼女はどんな反応をするだろうか? 愛情のまなざし? それとも怒りに満ちた目でにらまれる? 勢い良く体を翻(ひるがえ)して、この場から立ち去ってしまうとか?
それから、ふと気づけば、エズミーが目の前に立っていた。―綺麗だった。黒のジーンズに白のコットンシャツ、そしてつま先に赤いポンポンが付いたハイヒールを履いている。彼女の顔には、何の前触れもなく氷混じりの冷たい池の中に突き落とされたような、ぽかんとした表情が浮かんでいた。口元は笑顔と悲鳴、どっちつかずの位置でけいれんしているようだった。
薄暗い部屋の中で二人の目が合った。明かりが灯(とも)る前の一瞬、トムはエズミーの全注目を瞳で受け止めた。人々が彼女にどっと群がり、つながった視線が邪魔される前のほんの一瞬、時間が止まったかのような、完璧な瞬間が訪れた。僕はこの先ずっと死ぬまで、あの時の彼女のまなざしを覚えているだろう。
「サプラーイズ」という叫び声が、部屋の前方から巻き起こり、メキシコ湾で発生した波のように、後方に向かって伝播(でんぱ)していった。一瞬で、その波は二人だけの完璧な瞬間をさらっていった。それが収まると、エズミーが型通りに驚きの声を上げて、みんなに応えた。ローラがスパークリングワイン〈プロセッコ〉のグラスを片手で持ってやって来た。空いてる方の手で彼女の腕を引き、親しい友人たちの方へ連れて行こうとする。
「待って」とエズミーが鋭く言った。ローラの手から腕を振りほどくと、彼女がトムの方へ近づいてくる。彼の心臓も、肺も、おそらく肝臓も、喉の奥辺りにキュッと集められたように、緊張が走る。
「あなた?」と彼女が言って、ほのかな笑みを浮かべた。どっちとも取れる笑みだ。
「僕だよ」
「全部あなたが?」
「ほとんどね。君は―」
「すべてを受け入れるわ」と彼女が言った。そして両腕を広げると、身を乗り出し、覆いかぶさるようにトムの唇にキスをした。が、二人はすぐに引き離され、彼女は波に飲まれるように、友達の渦の中に消えた。
トムが再びエズミーを見つけるまでに10分ほどかかった。その間に彼女はスパークリングワインを2杯飲み干し、ケーキや料理が乗ったテーブルを、何から食べようかしら、と見ているところだった。テーブルにはプレゼントやメッセージカードが積まれ、さらに(そんなつもりはなかったのに)低すぎる風船まで乗っかっている格好だ。
「僕のことが嫌いになった?」と、トムは彼女の手を取りながら言った。
「そうね、ちょっとうわってなった」
「ムカついてる?」
「うーん、どうだろ」と彼女は言った。
「じゃあ、気に入った?」
「まだ始まって10分しか経ってないから、わからないな」
「そっか...そうだね」と、トムは床に視線を落としながら言った。
「ねぇ。ちょっと二人で外に出よっか? 自分の考えをまとめて、気持ちを整理したいの」
「ああ...なるほど」と言いながらトムは、このパターンはあれだな、と確信した。彼が彼女の発言を無視して勝手気ままにやっている時に、彼女がプチンッとキレるパターンだ。二人は階段を下り、一般客でごった返すパブの一階を通り抜けた。日曜日の散歩者たちがふらっと立ち寄って、空いているテーブルはないかとキョロキョロ探している。裕福そうな家族は予約席で団らんの真っ最中だ。エズミーはトムを引き連れ、大きくて重い木製の扉を開け、店の前の〈フリート・ロード〉に出た。道端では何人かの酔っ払いがたむろして、タバコを吸っていた。
「やっぱり気に入らなかったんだ?」とトムは、二人きりになった時に言った。
「いいえ」
「イエスって言っていいよ、エズ。受け入れたふりなんてしないでさ。本心を隠すなんて君らしくないじゃないか」
「トム、ほんとにすごく気に入ったわ」と彼女がにっこりと笑顔で言った。
「ほんとに?」
「ほんとよ!」と彼女は言った。「すごいわね。感動しちゃった。というか、よく秘密にしておけたわね。そっちの方がもっとびっくりよ」
「かなり大変だったんだ。特に君の―」
「ママ?」
「さすがに鋭いね」と彼は言った。
エズミーが不意に僕にキスをした。彼女の唇から〈プロセッコ〉の味が伝わってきた。それは僕には馴染みのない飲み物だった。発泡性のワインは軽すぎるというか、飲んでもなかなか酔えないから、あの頃、即効性重視だった僕が手にすることはまずなかったのだ。
「あなた、ちょっと大丈夫?」とエズミーが聞いてきた。
「それなりに」
「私が言ったこと、ちゃんと聞いてた?」
「いや、ごめん。ちょっと考え事してた...気にしないで」と言ってトムは、タバコを吸っている一団の方へ視線をやった。
「もう一度はっきり言っておくけど、今でも私はパーティーっていう催しが嫌いなのよ」
「わかった」
「さらにサプライズ・パーティーとなるとね、困ったことに、私はきちんとメイクしたり、服装を選んだりできない。髪の毛もね」
「今の君はすごく素敵だよ」
「トム」と彼女は言って、彼を黙らせた。「私はね、あなたがしてくれたことに対して、気に入ったって言ったのよ。この数ヶ月間、あなたはいろんな人たちを招待したり、ケーキや飾り付けの準備をしたり、いろいろしてくれた。それもこれも全部私のためでしょ」
「よかった」とトムは言いつつも、まだ頭の半分は彼女の話に集中できていなかった。たむろしているグループの中の一人に見覚えがあったのだ。もう10年くらい見ていない顔だった。そして、もう二度と見たくない顔でもあった。さらに悪いことに、そいつはタバコを吸いながら、チラチラこちらを見ている。僕を認識しているようだ。
「でも、ひとつだけ」と彼女が言った。「あの風船はちょっと低すぎるわね。みんなどしどし頭をぶつけちゃって―」
「ちょっと待って」
「風船のことを言ってるのよ」エズミーは彼の顔の前で手を振った。「トム? どうかしたの―」
「伝説のトム・マーレイじゃないか!」忘れかけていた、しかし馴染みのある声が、エズミーの発言を蹴散(けち)らすように、鋭く僕の耳に届いた。
ジョンだ。タバコを吸っている男の名前はジョン。仲間うちではジョノって呼ばれていた。ハートフォードシャー大学の寮の食堂で毎晩のように顔を合わせた。その後、学生会館で一緒に飲むこともあったし、近くの繁華街〈セント・オールバンズ〉のパブまでみんなで出歩くこともあった。みんなエンジニアを専攻していた。仲間うちでの冗談交じりのやり取りが、ふと頭に蘇る。お酒を飲んで酔っ払ってくることを、「油が乗ってくる」と言っていた。決まって行くパブが3軒あって、その店を順番にすべて回ることを「トラック一周」と呼んでいた。彼らは僕を邪険(じゃけん)にすることなく、仲間の一人とみなしてくれたが、決して友達ではなかった。
ジョンは僕の手を握ると、力強くその手を揺すった。彼は明らかに酔っ払っていて、タバコを口にくわえたまま、その場でふらふらと体を左右に揺らしている。
「元気してたか? 長らくその面(つら)を拝(おが)まなかったな。お前は自ら行方(ゆくえ)をくらましやがったんだ」
変わってないな、とトムは思った。昔からこいつはこういう話し方だった。10代後半からすでに、こじんまりとした平屋のパブでカウンターにつっぷしている50代の溶接工を思わせる話し方をしていた。
「僕は元気だよ」とトムは言った。「実は今、彼女の30歳の誕生日パーティーの真っ最中で、ちょっと抜け出してきたところなんだ―」
「ハッピーバースデー!」ジョンはエズミーの手を握ると、ほとんど叫ぶような大声で言った。「気づいたら三十路(みそじ)の大台に乗っちゃったってか? あっという間だよな」
「とにかく」とトムが口を挟んだ。さっさとエズミーをジョンから遠ざけなければならない。話が過去のことに移り、ジョンとどこで知り合ったのか、みたいな話題になる前に早く。そのことを考えるだけで、というか、エズミーが僕の過去を知ってしまったら、と思うだけで、胃がぎゅっと締め付けられ、ねじれるような感覚を覚えた。よりによってなぜ今日、このようなことが起きなければならないのか。
「もう僕たちは戻らないと。主役がいないって、みんなが探し始めちゃうよ」そう言って、トムはこの場を離れようとした。
「ってことは、お前らはこの辺に住んでるんだな?」と、ジョンはトムの発言を無視して言った。
「そんなに遠くはないよ」
「いいね。俺はこいつら仲間と一緒に、北ロンドンで巡業(じゅんぎょう)中なんだよ。すぐそこの〈チョーク・ファーム〉に、ゲイリーが引っ越してきたばかりなんだ。大金が手に入るぞ」と彼は言ったが、ゲイリーとは誰なのか、なぜゲイリーが引っ越してくると、ジョンに大金が入るのか、といった説明は一切なかった。
「そうか」とトムは呆れたように言った。「もういいだろ、僕たちは...」トムはそう言って、エズミーの手を取ると、パブの方へ歩き出した。彼女は僕とジョンのやり取りに、すっかり困惑してしまった様子だ。「さあ、行こう」
「ふざけやがって! わかったよ」とジョンがすごい剣幕でどなった。トムが今なお頑(かたく)なに自分を避けようとしていることに憤慨したのだ。「ちょっと挨拶しただけだろが。お前を最後に見たあの夜、あれから、せめて一日くらいは会う機会を作って、お前から俺に何か言いたいことがあるんじゃないかって、ずっと待ってたのによ」
「トム、何のこと?―」とエズミーが言ったが、トムは彼女の発言を遮った。
「ごめん。僕たちは単なる―」
「どうでもいいよ、相棒。なんだっていいさ。さっさと俺の前からうせろ。早くパーティーに戻れよ」
トムとエズミーが背を向け、パブの方へ歩き出したその時、ジョンが再び彼の背中に大声を浴びせかけた。
「どうやら酒はやめたようだな。伝説の飲んだくれのくせして」とジョンが捨て台詞を吐くように叫んだ。彼の仲間も、関係のない他の喫煙者までも、伝説の飲んだくれがどんな顔をしているのかと、トムの方に目をやった。
トムはエズミーの手を引っ張るようにして、もう片方の手で重厚な扉の、真鍮(しんちゅう)の取っ手を押し開くと、パブの中に入った。階段をのぼり、パーティー会場へ戻ろうとする。しかし、トムは彼女が抵抗して、手を引っ張り返していることに気づいた。
「止まって。トム、ちょっと止まって」
「何?」と彼は言って、エズミーの方に顔を向けた。彼は眉間(みけん)に汗を感じていた。心臓はどくどくと早鐘(はやがね)を打っている。ジョンのもとを離れることができてほっとしている一方で、さっき彼女が耳にしたやり取りで、彼女はすでに多くのことを知ってしまったのではないか、と不安が押し寄せる。
「『何?』じゃないでしょ」と彼女が言った。「さっきのはいったい何だったのか、あなたの方から説明してくれるんじゃないの?」
「彼とは大学で一緒だったんだ」
「そう。なら、旧友に対してあんな態度を取るなんて、私だったら考えられないわね。『お前を最後に見たあの夜』って何? 何があったの?」
「なんでもないよ」
「あなたのことを伝説の飲んだくれって呼んでたわ」
「エズ」とトムは言った。もう一度、なんでもない、と言おうとしたが、彼女の目をじっと見た時、それはできないと悟った。今までのらりくらりとはぐらかしてきたけれど、もう逃げられない。「そこまで悪い話じゃないんだ」
「いいから教えて」
「パーティーの後で教えるよ」
「今よ、トム。今知りたいのよ」
しぶしぶではあったが、ためらいがちにトムは話した。
「僕らは大学で一緒だったんだ」と彼は言った。「1年の時に...いろいろ問題を抱えてしまって」
「問題」エズミーはそう言うと、頭の中で点と点を結びつけようとするように、斜め上に目をやった。彼が過去に彼女に話したあれこれと、今日パブの外で聞いた話をつなげているのだ。「アルコールの問題?」
「そう。そういうことになるね...」なんとかそう言ったけれど、トムはアルコールという言葉を口にすることができなかった。「だから、今は飲まないんだ。若い頃はしょっちゅう飲み過ぎてた」
「嫌な目にあったって」
「え?」
「何度か嫌な目にあったとか言ってたじゃない」
「言ったね」とトムは言った。「でも...それ以上というか...嫌な目どころじゃなくて」
エズミーはまっすぐ彼を見ていた。彼がこれから言おうとしていることに、ほとんど怯えるように彼女の瞳が揺れている。
「寮に一人でいた夜、錠剤(じょうざい)を何錠か飲んじゃって」と、彼は彼女と目を合わすことができず、目を逸らしながら言った。「ジョンが僕を見つけてくれたんだ」
「あなたを見つけた? いったいどういうことよ、トム。また中途半端な話し方して。ちゃんと全部話してちょうだい」
「わかったよ...ちょっと整理するから待って...」
「何を整理するのよ? 起こったことをそのまま話せばいいだけでしょ」と彼女が急(せ)かすように声を上げた。パブのお客さんが何人か興味津々といった感じで二人を見たが、関わらない方がいいと思ったのか、すぐに視線を戻し、感づかれないように二人の様子を窺っている。
「寮に共有の冷蔵庫があって、僕はジョンのビールを盗んだんだ。外に買いに行くのが面倒だったから。それで、俺のビールはどうした?って彼が僕の部屋に来たみたいなんだけど、鍵がかかっててドアが開かない。その時、中から尋常ではない声を聞いて、彼はドアを蹴り破って突入した。そしたら、僕が気を失って倒れていて...ジョンが救急車を呼んでくれたんだよ」
「尋常ではない声?」
「オエーッて吐いてるみたいな声がしたんだと思う」
「トム、あなたはもしかして、私がそう思ってるだけかもしれないけど、あなたがしようとしたのは―」
「違うよ」とトムは言った。「そうじゃないよ、エズ。ただ飲み過ぎちゃっただけで」
「だって、あなたの話を聞いてると―」
「ほんとに違うんだ、エズミー」トムは、そこはゆずれない、と言わんばかりの勢いで彼女を説得にかかった。彼女が思ってるようなことはしてない、と、どうしてもわかってほしかった。「僕はただ、その状態から抜け出したかっただけなんだ。それで錠剤を見つけて、それだけだよ。君もわかるだろ?」
「わからないわ、トム。私にはわからない。私はそんな...抜け出したいとか思ったことないから」
「エズ」
「それで大学を中退したの?」
「僕は大学で苦労したんだ。それはわかってくれる?」とトムは声を張って言った。パブの他のお客さんたちが見ていることは気づいていたが、気にしないことにした。「そうなってしまったのは残念だけど、あんなところ辞めて正解だったよ」
「それから、トム。こんな重要なこと、今まで何度も話す機会あったでしょ? 4年間、あなたが禁酒してるのは、飲むと嫌な気分になるから、だとずっと思ってた」
「飲むと嫌な気分になるよ!」
「じゃあ、なんで今まで言わなかったの」
「エズ、ちゃんと君に言おうと思ってたんだ。ただ、今じゃないなって」
エズミーは階段の一段下から彼を見上げていた。トムは彼女のこんな目を見たことがなかった。彼女が怒ってるのか、悲しんでるのか、瞳の中をのぞいても、何も伝わってこない。いずれにしても、これ以上は言わないでおこう、という決意が固まった。今はまだ、これ以上言うべきじゃない。
「サプライズってこういうことだったの」と彼女が言った。
「エズ、せっかくの誕生日なのにごめん」
「もう戻りましょ」
エズミーが彼を追い抜くようにして、階段をのぼり始めた。彼が彼女に声をかけようとした時、入口の扉が開いてジョンが店に入ってきた。二人は一瞬、顔を見合わせる。
「エズ、先行ってて」とトムは声をかけて、階段を下りた。
彼がパーティー会場に戻ると、エズミーはすでに部屋の向こう側で友人たちと談笑していた。彼女のそばに行って、彼女に何か声をかけようかとも思ったけれど、そんなことをすれば事態が悪化するだけだろう。この件は後回しにして、今はこの場をとりつくろうことに専念しよう。そして夜、二人きりになったら、もう一度話そう。彼女がもう話したくない、と言ってくれればいいな、と思った。事態はすでに十分悪化しているのだ。
彼女を遠目に見守っていると、不意に背中を押された。
「遅れてわりぃ」と、肩越しに声がかかった。ニールだった。横に赤い髪の、ほっそりとした色白の女の子を伴っていた。「ステイスのこと覚えてるだろ?」
トムはうなずいたけれど、意識をそちらに向けられない。彼はまだエズミーを見ていた。彼女はさっきの階段でのやり取りはなかったかのように、喋り、笑い、飲んでいる。
「すべて順調か? 相棒」
「まあね」
「ならいい。いつも通り気の抜けた感じだな、トム・マーレイ。さあ、何か飲むか」ニールはそう言うと、ガールフレンドの方を向いた。「頭を風船にぶつけないように気をつけろ。どっかの能なしが、こんな低くぶら下げたんだな」それを聞いてトムは、カウンターにつかつかと歩み寄り、ハサミを手に取ると、片っ端からすべての風船のひもを切り始めた。
〔チャプター 9の感想〕
トムとエズミー双方にとって、まさにサプライズ・パーティーでしたね!!
トムは道端で旧友に出くわして驚いたでしょうし、エズミーも、ついに彼の大学時代の話を聞かされて、さぞかし驚いたことでしょう。
これで別れるんじゃないか、と思いきや、第一章がいきなり10周年の記念日で始まったから、あと6年は続くことが確定しているわけです!笑
エズミーは25歳、35歳、45歳という年齢の辺りを節目に考えているみたいですね。トムが25歳の時にエズミーと出会って、10周年でちょうど35歳ということになります。エズミーは1歳くらい年上っぽいですが、まあ、その辺りで節目と考えて、何か思うところがあったんでしょうかね?
まだ、パズルのピースは半分くらいしか、はまっていないので、この後も何かあったのかもしれませんし、いやはや、どうなることやらって感じです。
藍が心配するのも変ですが、なんかこの二人危なっかしいんですよね。まあ、だからこそ、親近感が湧くというか、レナちゃんも5年くらい藍と過ごして、25歳くらいになったら別れようと思ってたのかな。それがある事が起こって、3年くらいに早まっちゃったわけだけど...←そのレナちゃんオチもう飽きた!笑

数十年前のある晴れた日曜日の藍💙とレナちゃん🎈(プリクラ撮って、一緒にマックを食べた記憶があります。←記憶のねつ造じゃなくて?笑←チキンマックナゲットのソースは、レナちゃんがバーベキュー派、藍はマスタード派でした🍔←だから、記憶のねつ造じゃなくて??笑笑)
チャプター 10
午前5時~6時
僕らが出会う2ヶ月前、ベッドの中で
2007年4月 ― ロイヤルフリー病院、ロンドン
「おい」と、トムは低くくぐもった声を発した。彼女の体がかすかに動いたのが見えたからだ。彼女は、まるで誰かが夜の闇にまぎれて接着剤でくっつけてしまったまぶたをどうにか引きはがすように、うっすらと目を開けた。が、すぐにまた閉じてしまう。目覚めることを拒んでいるのだ。
「アナベル」と、彼は彼女の名を呼んだ。それでも返事はない。
彼は乾いた喉の奥を潤すために、口の中のわずかな唾液をなんとか飲み込んだ。
「面会時間は午前9時からだぞ」
「ほんとに?」と、彼女がしわがれた声で返した。アナベルは腕をゆっくり伸ばすと、少しふらつきながら立ち上がった。「こんな時に本気でジョークなんか言うつもり?」
「ごめん。でも、この病院の規律は厳しいらしいぞ。奥の部屋にはギロチンが―」
「ちょっと、ちょっと、最後まで言わなくていいわ。ほんとに冗談を言い合う気分じゃないのよ、マーレイ。あなたはそんな状態でよく冗談なんて言ってられるわね」
アナベルはアボカド色の肘掛け椅子に座って眠っていた。本革ではなく、ビニールシートの簡易的な椅子だ。彼女はピッタリとしたダークブルーのジーンズに、白いシャツを着てジャケットを羽織り、まるでデートに出かけるみたいな服装だったが、髪は強風に吹かれて逆立ったように乱れていた。とても不快そうに体を伸ばしている。―その椅子では、寝れたとしてもせいぜい2、3時間といったところだろう、とトムは思った。彼女は、トムが自分よりも早く目覚めていたことに驚いている様子だ。あるいは、朝の5時に病院にいるという状況に驚いているのかもしれない。
まだ窓の外は暗かった。静けさの中で、廊下を歩く足音や台車の音が聞こえてきた。病院の朝の準備はもう始まっているらしい。やがて日が昇り、医師や看護師や見舞い客が、僕のベッドの周りに集まってくるのだろう。そして、まるで僕がここにいないかのように、僕を囲んで僕のことを話し出すのだ。
「ていうか、もう起きてたんだ?」とアナベルが言った。
トムはうなずいたが、再び声を発する気にはなれなかった。さっき彼女に声をかけただけで、喉がひりひりと痛んだ。代わりに彼は軽く手招きして彼女を呼ぼうと、自分の体にかけられていた、かゆくなるような毛布から手を離した。
アナベルが立ち上がって、彼のベッドの横に歩み寄ると、トムは水がなみなみと入ったプラスチックのコップを指差した。コップから突き出ている白いストローを、いとおしそうに見つめている。アナベルが彼に水を一口飲ませた。乾いていた口の中、喉の奥に水が触れる感触は、衝撃的かつ快感だった。乾ききって干からびた地面に降った、雨の最初の一滴のように、一瞬で皮下に染み込んでいく。
彼女は肘掛け椅子を引きずって、彼のベッドのすぐ横まで持ってきた。
「そこまでしてくれなくても―」
「わかってる」とアナベルが言った。「私がそうしたいのよ」彼女は彼からコップを受け取ると、水をつぎ足し、ベッドの横のテーブルにそれを置いた。「気分はどう?」
「最悪。喉が...」
「しばらく喉が痛むって病院の人が言ってたわよ」
「たしかに痛んでる」
「あなたが起きたら、私は看護師に伝えなきゃいけないのよ。それを条件に、ここに泊めてもらったんだから。あやうく帰されるところだったわ」
「ちょっと待って、1分だけ」とトムは親友の目を見ながら言った。
幼なじみの目を見つめながら、自分の身に何が起こったのかを、ばらばらのピースをつなげるように考えてみた。昨日の午後、僕はウォッカのボトルを持って、ワンルームのスタジオ風の自分の部屋に帰ったのだ。昔はボトルを2本持ち帰っていた。しかし今は、もう何年も禁酒を続けていたし、1本で十分だった。昼間、5日ぶりに部屋を出て、プリムローズ・ヒルを見下ろす出窓のある邸宅に出向き、広々とした部屋に置かれた高価なグランドピアノの前に立って、14歳の少年に音楽のレッスンをした。その帰り、自宅近くの小さな酒屋に立ち寄ってしまった。抗(あらが)えなかった。レッスン中ずっと、音にも教えることにも集中できず、めまいや不快感にさいなまれ、暑さに汗が噴き出し、緊張し、理由もなく吐き気を催した。理由はあるのかもしれないが、僕には説明のつかない大きな力に揺さぶられているようだった。
「大丈夫ですか?」と、ジョエルというその少年が聞いてきた。
「大丈夫」と僕は嘘をついた。
昔と同じだ、と感じた。まず不安感が押し寄せてきて、それから痙攣とパニック。叫んだり、物を壊したり、骨から皮膚を引きはがしたくなるような衝動に襲われ、今すぐこの場から駆け出し、どこでもいいからどこかに逃げ込みたい。
そんなことを特権階級の恵まれた10代の少年に、そもそも本当は僕など必要とさえしていないこの少年に、説明したところでどうにもならない。
すぐに自己嫌悪に陥った。自分の周りにいる誰も信用できないという気持ちになり、自分が一番よく知っている4つの壁に囲まれ、引きこもった。僕が望んでいたのは、周りの世界から自分を遠ざけることだけだった。実存の問題とかそんな大それたことじゃない。ただ、懸命に息をしていた。
今回の発作も、今まで何度か経験したパターンと同じ道筋をたどった。しかし今回は、それまでとは違い、自己療養の手段を失っていた。それには、ざらついた気分を優しくなだめるのではなく、根こそぎ消し去ってしまうアルコールが手っ取り早いのだ。トムにとって、不安や落ち込みからの脱却方法はアルコールを意味していたのだが、もう何年も前から、お酒は断(た)っていた。
最初の頃はまだ、お酒は選択肢の一つに過ぎなかった。―もし飲んでしまったら、とたんに道を踏み外し、奈落の底に真っ逆さまだとわかっていた。しかし今、孤独で壊れそうにふるえる心を抱(いだ)きながら、ボトルのキャップを外すことだけが、平穏への道筋に思えてくる。どうしてこうなったのか、今に至る道筋を思い返しながら、空けてしまったキャップの口を、30分ほどじっと見つめていた。自分の決意を試していたのだ。
トム・マーレイ、お前に抵抗するだけの力があるのか?
もちろん、なかった。答えはいつもノーなのだ。鉄の意志を気合で持ち続けていたからこそ、なんとか軌道に乗ったまま、正常な状態を保てていた。だけど、忘却の彼方(かなた)から、あの不安感が再び水面に顔を出してしまったら、もう助けを求めることなどできやしない。
最初の一口はひどい味だった。有害な化学物質を体内に入れたようで、記憶の中の苦(にが)い味と一致する。二口目も同様にまずかった。しかし、ベッドに座ってボトルから直接お酒を飲んでいると、数分後には、またしても慣れてしまった。
トムが酔っ払うのに時間はかからなかった。昨日の記憶で最後に覚えているのは、ぼんやりとしたままバスルームに入っていき、そこでパラセタモール(鎮痛剤)の箱を見つけたことだ。開けてみると、1ダースの半分は使用済みで、他の3ダースはすべての錠剤がきれいに収まっていた。
それからの記憶は、ない。
「僕は何錠飲んだんだ?」と彼はアナベルに聞いた。
「いっぱい」と彼女は答えて、彼の無能さに微笑んだ。どうしようもない彼を笑ってあげることしかできない自分が悲しかった。「どうやらあなたはアルコールに耐性がないみたいね。下戸(げこ)のくせして飲むから。まあ、そのおかげで、錠剤を大量に飲む前に気を失ってしまったのよ」
彼は恥ずかしそうに目をそらす。
「お酒のおかげで命は助かった、なんて面白いわね」
「笑っちゃうか? ハハハッて」
二人は再び沈黙に陥った。トムには聞きたいことが100個ほどと、謝らなければならないことがさらに100個ほどあったが、どこから始めればいいのか、しっくりくる最初の一言が浮かんでこない。
「どうやって...」と彼は言葉を発した。その質問が着地を終える前に、アナベルがすぐさま彼の知りたいことを察して、おもむろに携帯電話を取り出した。少しの操作のあと、画面を彼の顔の前に向ける。それはトムが昨夜送ったメールだった。
たすけけて
「これを7時半に受け取ったのよ。ちょうど私はデート中だったの。〈ソーホー通り〉の高級レストランで食事してたら、あなたからこんなメールが来るんだもん。相手の彼女はとても優しい人だから、『行ってあげて』って言ってくれたけど、今頃、私があらかじめあなたに頼んでおいて、私がさっさと彼女から逃げられるように仕組んだんだわって思ってるでしょうね。まあ、それはそれで良かったんだけど」と彼女は言った。
「ごめん」
「じゃあ、おわびとして...マーレイ」とアナベルが言った。冗談を言うつもりだったが、彼をまっすぐに見据(みす)えるとこみ上げてくるものがあり、途中で顔を伏せて、声を詰まらせ、彼女はむせぶように泣き出した。泣き顔を見られまいと、窓の方に顔を向ける。
「ほんとにごめん」と彼は言った。
アナベルが涙を指でふいてこちらに向き直ると、彼女の顔は少し赤らんでいた。彼女は怒っていた。あからさまに怒っている。彼は11歳の頃から彼女を知っていたが、こんな彼女を見たことは一度もなかった。一緒にやんちゃもしたし、さんざんいろんな経験をしてきたが、今になってようやく、彼はアナベルの新たな一面を見いだすことができたのだ。
「あんな状態のあなたを見つけたとき、どんな気持ちだったかわかる?」と彼女は歯を食いしばって言った。「だらしなく散らかった床の上で、あなたはぐったり倒れてたのよ」
トムは視線をそらそうとしたが、彼女の瞳に釘付けになったように、動かせなかった。
「死んでるのかと思ったわ、トム。あなたは死んだって。今度はやり遂げたんだって思った。そしてこの私が、第一発見者だって」
「ごめ―」
「いいのよ」と彼女がさえぎった。「今のあなたは目を覚まして、なんとか話せてるわけだし。ちゃんと聞いてほしいの」
トムは頷いた。
「私はもう二度とこんなことしないわよ、いい? もう絶対にしない。もう一度同じことをしようとしたら、その時は自分でなんとかしなさい。まったくもう、私は両親を失ってるのよ。その上、親友もだなんて、まっぴらだわ。あなたはほとんど家族みたいな存在なのよ、トム。こんなことはもうやめて。もう二度と」
トムの目から涙が溢れ、頬に流れ落ちる。
「ごめんなさい」と彼は言ったが、再び激しい喉の痛みとともに乾きを覚えた。彼が苦しそうに声をつまらせると、アナベルが水を差し出した。それから彼女はベッドわきの椅子に腰を下ろす。さっきまで彼女が寝ていた椅子だ。彼女の怒りは消え、代わりに重い悲しみがのしかかってきた。トムは、周りの人たちにこんな仕打ちをしてしまう自分の愚かな心根を憎んだ。
彼女が彼の手を取る。
「この病気が治らないってことは私も知ってる。でも、他にも抜け道があるってことを覚えておいて」
「わかってる」
「生きる理由は常にあるのよ、トム。時々そういうことを考えて、そう自分に言い聞かせるの」
トムは微笑んだ。「とても深いね」と彼は言った。「今のはどれくらいあたためておいた台詞なんだ?」
「茶化さないで。そういうところよ」
その瞬間、二人の気持ちが明るくなり、どんよりとした泣き顔が徐々に晴れ、ついに二人は心から声を上げて笑っていた。二人が涙を拭いていると、ブラインドの隙間から朝日が差し込んできて、部屋が段々と暖かくなってくる。
「僕の両親は?」とトムが聞いた。
「角を曲がったところのホテルに泊まってる。彼らは昨夜やってきて、お医者さんがあなたは大丈夫だって言ったから、一安心して真夜中に帰ったわ」
トムは顔をこわばらせた。ベッドの横に立ち、僕を見下ろす母親を想像した。人生で2度目も、病室で自分の息子を見下ろすことになろうとは。
「彼らはどんな措置を施した?」と彼は言った。「医者は」
「たいしたことはしてないわ。胃の中のものをポンプでくみ取って、炭水化物の飲み薬を飲ませたみたい」
アナベルとトムは、それから数分間、黙って座っていた。二人の間には、これまでに共有してきた経験の記憶が流れているようだった。がきんちょ二人組だった頃からずいぶんと時間が流れた。―昼休みになると二人で音楽室に行って、ニルヴァーナを聴きながら過ごしていた頃が懐かしい。―もう戻れない遠い昔のことだけど、彼らの中にはまだ子供のような心が残っていた。彼らはいまだに、神経質で、不器用で、不釣り合いではあるが、いいコンビなのだ。トムは彼女が病室に残って泊まってくれたことに感謝した。このようなひどい状況で、一緒にいたいと思う人は彼女の他にはいなかった。
夜明けが近づいてきて、壁掛け時計の針と針がまっすぐな一直線になりつつある。6時に向かって刻一刻と時が進む中、トムが沈黙を破った。
「ありがとう」と彼は言った。「何度もごめんって言っちゃったけど、ちゃんとお礼も言わなきゃね」
「どういたしまして」
「僕は―」と彼は言い始めたが、それ以上続けるにはもっと水が必要だった。水を一口飲んでから彼は言った。「僕は君に借りができた」
「それはそうね。私もそう思う。実は、あなたが償いのために何をすればいいか、もう決めてあるの」
「何?」
「アリ・マシューズが6月に仮装パーティーを開くのよ」と彼女が言った。「みんなスーパーヒーローの仮装をして来るの。あなたも一緒に来てね」
「無理」
「あなたに選択肢はないわ。償いなんだから来るしかないの。というか、あなたのためにもなるし。新しい知り合いを作るとか、そういうこと。自分の殻に閉じこもってちゃダメ」
「新しい知り合いなんていらないよ」
「それならそれで構わないけど」
「ガーディアン・ソウルメイトに入ればいいじゃないか? 出会えるって評判なんだろ」
「私はもうガーディアン・ソウルメイトに入ってるわ。昨夜の彼女もそこで出会ってデートしたんだけど、彼女もレズビアンかと思ったら、ちゃっかりボーイフレンドがいて、一緒に3Pしてくれるレズビアンを探してるんですって、まったくもう、なんなのよって感じ。その前に出会った子なんて、食事が済むやいなや、『これから〈ロザーハイズ〉のマンションでセックスパーティーがあるの、早く行きましょ』なんて手を引っ張るのよ。私はこれからデザートを食べるところだっていうのに」
トムは笑おうとしたが、喉がまた乾いて、むせてしまった。
「行ってもいいよ」と彼は、多少の諦めとともに言った。
「良かった」と言って、アナベルが立ち上がった。「さてと。私は7時には仕事に行かないといけないのよ。あなたのせいで、やらなきゃいけないことが溜まってるんだから」
彼女はコートを着ると、さっそく携帯電話をチェックしていた。
「少し寝なさい。もうすぐご両親が来てくれるから」
トムは親指を立てた。
「トム」
「ありがとう」と彼は言った。「そして、ごめん。何度も言うようだけど」
アナベルは彼に向かって微笑んだ。彼女は2本の指にキスをして、その指をトムの額に押し当てた。それから彼女が病室を去って、一人になった。静かになると、早朝の病院で働く人たちの物置が遠くから耳に届いた。窓辺に一時的に留まった鳩たちが、朝日に染まった街を見下ろしながら、うがいをするような声で喉を鳴らしていた。
〔チャプター 10の感想〕
『私の限りなく完璧に近い夢のような東京暮らし』でも、お酒の問題が取り沙汰されていましたが、そこまでいっちゃうと、本人の意志ではどうにもならないほど、一旦アルコールから離れても、何度でも引き戻されるんでしょうね。そういう観点からも、トムがエズミーと出会ったのは良かったのかもね!
ということは、捨てられて、というか別れて、また独りぼっちになったら、一気にふりだしに逆戻り、なんてことも...
せっかく1マスずつ着実に進んできたのにね。人生なんて1日で振り返れちゃうくらいだし、そんなもんってことでしょうか...←テンション低めだけど、どうしたの? またふられた?笑笑←ほんと、もてない男には人生はきついよ。トムの気持ちも九分九厘わかるというか、だけど、そうやって共感することで、心が癒されて、昨日も癒されたから今日も訳すか、って気持ちになるんだよね!!
トムはアナベルに感謝していましたが、藍はトムに感謝です。←アナベルは誰に感謝してるの? 3Pの人?爆笑
パート 3
チャプター 11
午前6時~7時
古いアルバムをめくると、昔の君がいた
2013年12月 ― ナイトン、レスター
トムはエズミーを起こさないように気をつけながら、そっと片足をベッドから降ろした。とたんに薄手のパジャマのズボンの裾から、ひんやりとした空気が入り込んできて、ぶるっと震えた。やっぱり寒いじゃないか、と愚痴りたくなる。エズミーの父、タマスが、ここは一年中暑いから、冬でも窓を開けて暖房を切って寝るんだ、なんて言っていたけど、彼が暑がりなのか、それとも僕が寒がりなのか。僕は具合を悪くしてから体質が変わったのかもしれない、なんて思っていたけど、そうでもなかった。
慎重に、トムは二人の体を包んでいた羽毛布団と2枚の毛布からするりと抜け出すと、半分ほど中身を出してあった旅行カバンから、スリッパとパーカーを取り出した。携帯電話の光を懐中電灯代わりに足元を照らしながら、物置を立てないように寝室を横切り、ドアを開けると、そっと廊下に出た。
クリスマスの早朝だった。イブの夜はエズミーの実家で過ごし、あと数時間後にはエズミーと一緒に、僕の実家があるローストフトに向けて東へ車を走らせることになっている。僕は少し前から目覚めていて、喉の渇きとトイレに行きたい欲求を同時に感じていた。それは昨夜の、塩分の多い豪勢な料理のせいであり、グレープジュースを大量に飲んだ結果でもあった。毎年クリスマスには、レナの母親、つまりエズミーの祖母が、僕用のガラス製の水差しに、ワインっぽくグレープジュースを注いでくれるので、他のみんなは赤ワイン〈クラレット〉をごくごくと飲んでいる中でも、一人だけ取り残された感はそれほどなかった。その赤ワインは、タマスが特別な時のためにガレージの奥にしまっておいたもので、埃だらけのボトルを何本か引っ張り出してきて、彼は大事そうに〈クラレット〉のボトルを拭いていた。
携帯電話の明かりを頼りに、トムはできるだけ床板がきしまないようにそろりと廊下を進んだ。階段の壁は、油性絵具を塗り込んだような〈アナグリプタ〉の壁になっていて、その上にエズミーの写真がたくさん飾ってあった。金メッキの額縁、木製の額縁、黒光りする額縁、そのほとんどすべてにエズミーの写真が収められていて、人生の重要なイベントの一幕(ひとまく)や、幼少期に両親が強要したのだろう、安っぽいスタジオで彼女がポーズをきめている写真もある。(そういえば、ナイトンに小さな写真スタジオがあった、とエズミーが言っていた。奇妙で不気味な男が経営していて、ショーウインドーには、子供を撮影した写真と、グラマーな女性モデルを撮影した写真が並べて飾られていて、彼はどちらの仕事もしていたそうだ。)
トムの写真がその壁に加わるまでに5年かかった。ロンドンの〈サウスバンク〉のスタジオで撮影された家族写真の中に、ぎこちなく笑う僕がいた。エズミーの卒業式の写真に挟まれている。彼女は二つの大学を出ていて、両大学での卒業式の写真だ。
階段を一段下りるごとに時間が遡っていく。数段下りたところで、彼女の10代の頃にたどり着いた。卒業式にみんなから書いてもらったのだろう、ピンクやブルーの蛍光ペンで書かれた幸運を祈る的なメッセージに彩(いろど)られた白いシャツを着て、にっこりと笑うエズミーがいる。歯には歯列矯正器が見える。その隣の写真には、舞台に立つエズミーが写っている。衣装や背景からすると、たぶん『オリバー!』を演じたのだろう、舞台上で一礼した彼女は、ここでも満面の笑みを浮かべている。観客の拍手が聞こえるようだ。それから、少しの空白期間があって(おそらくタマスがノエルとの不倫で、家を空けていた2年間を暗に示しているのだろう。失楽園に失敗した父は結局家に戻ってきた、とエズミーが言っていた)、写真でつづる年表が再開された。その写真には彼女の他に、僕の知らない3人の女の子が写っている。一人はスポーティーな子、一人は赤毛の子、もう一人はスパイス・ガールズ風の格好をした女の子だった。
もう何十回とこれらの写真をそれとなく横目で見てきたが、その日の朝は、まるで初めて見るかのように感じられた。トムは、それらの写真と写真の間の彼女がどんな女の子だったのかを想像した。10代半ばでお芝居に目覚めたエズミー。ただ、エンターテイナーとしての彼女は、8月の〈エディンバラ・フェスティバル〉に一度出演しただけで、芝居熱は冷めてしまったらしい。それから空白期間があって、21歳で卒業式を迎えたエズミーは、まっすぐにものを言う、政治的にも熱心な女性になっていた。このバージョンのエズミーは、ローラやジャミラやフィリーたちから聞いて、僕も心得ている。彼女たちは、エズミーがどのような女性になったのかを、そして、彼女を彼女たらしめているものは何なのかをよく知っているのだ。
それにしても、むすっと不機嫌な10代の女の子としてのエズミーはどこだろう? 家族に対しては、一応理解できる理由で怒り、世界に対しては、わけもわからず怒っていた時期というのはあったのだろうか? それとも、ずっと礼儀正しく、良心的で、勤勉な娘だったとでもいうのか? それはどの親も望む理想的なティーンエイジャーの姿ではあるが、理想通りにいく家庭なんてめったにないはずだ。
ついに階段の一番下までたどり着き、赤ちゃんの頃のエズミーを目の当たりにした。そういえば、この家に初めて来たとき、僕はこの写真を見て笑ってしまい、エズミーが恥ずかしがって、「ああ、その写真は無視して!」とか言っていたっけ。そんなに昔にまで遡っても、実際よく見れば、その目は明らかに彼女の目だ。すべての写真をつらぬく一本の糸のように、祖父母の膝の上に座っていても、寝室でロックバンド〈アイドルワイルド〉のポスターの下に立っていても、目だけはずっと同じだった。
「あなたのお気に入りはどれかしら?」
気づけばレナが立っていて、驚いてしまった。彼女は階段の手すりを持ち、踊り場から下りてこようとしている。ピンクのフリース素材のガウンに身を包み、髪は雑に上で束ねてある。
「ちょっとわからないですね。どれかを選ぶとなると難しいな。ざっと年表みたいに、いろんな彼女を見るのが好きなんですよ」
レナが壁にかかっていた一枚の写真を手に取った。
「私はこれが好きなの」と彼女は言った。それは、5歳か6歳くらいのエズミーだった。ピンクの花柄のドレスを着て、バラの木の前に立っている。「彼女のいとこのピーターの結婚式で撮ったのよ。彼女は5歳だった。あの頃が一番素晴らしい時期だったわ。その年に彼女は小学校に通い始めてね、本を読んだり、友達を作ったり。ちゃんとした女の子になったっていう実感があったのよ。この時初めて、親として私たちは良い仕事をしたって感じた。もう大丈夫だって心配が消え去ったわ。っていっても、1時間もしたら、またあれこれ心配しだすんだけどね」
トムは笑った。けれど、レナが言う達成感のようなものがどのような感覚なのか、彼はあまり考えたことがなかった。人生で最も重要な仕事がうまくいった(あるいは、うまくいきすぎて大勢の注目を浴び、社会的に気まずくならない程度にうまくいった)という感覚、とでも言えばいいのだろうか。僕の両親も含めて、僕が知っている親たちは、エズミーの両親みたいに表立って自分の子供を誇りに思うとか、あまり言わない。僕の両親のゴードンとアンは、子育ての素晴らしさや、その一端を担えた喜びを声高らかに表明することはめったになく、それこそクリスマス用の陶磁器の食器のように、特別な機会のためにひっそりと胸のうちに秘めておくのだ。タマスとレナはその逆だった。
「ずいぶん早くに目覚めたのね?」とレナはトムに言って、その写真を壁に掛け直した。
「そうですね。あまり眠れなかったもので」
「なら、せっかくだから、キッチンに行きましょ。もっと見せてあげるわ。あ、その前に、メリークリスマス」
「あなたにもメリークリスマス」とトムも言った。
レナは赤い革製のアルバムを何冊か抱えて、キッチンに入ってきた。1冊の厚さが5センチほどあり、LP盤のレコードくらいの大きさだった。それを見て、トムは『THIS IS YOUR LIFE(これがあなたの人生です)』という、出演者の人生を振り返るドキュメンタリー番組を思い出した。毎回番組の最後に、司会者のマイケル・アスペルが、まさにそんな感じの赤いアルバムを出演者に手渡すのが恒例だった。しかし、レナが抱えているアルバムの縁はボロボロに擦り切れ、表紙の金の文字はこすれて、かすれてしまっている。彼女はそれを彼の目の前のテーブルの上に、どしんと置くと、ガスコンロにやかんをかけに行った。
「紅茶でいい?」
「はい。お願いします」とトムは言って、一番上のアルバムを手に取った。
「それは彼女が赤ん坊の頃のものよ。1歳の誕生日あたりで終わってるはず。写真が色あせていってるのが気になるのよね。タマスが、写真をスキャンしてパソコンに取り込む、なんて言ってるけど、言ってるだけで全然やろうとしないのよ」
トムは表紙を開いた。左上の最初の写真には、病院のベッドで横たわるレナが写っていた。彼女の髪は真っ黒なソバージュというか、細かく巻いたパーマヘアーで、1980年代なら違和感なく溶け込めるんだろうけど、今だと人目を引きそうな髪型だった。彼女の腕の中には、母親の胸にぎゅっと顔を押し付けている、小さな肌色の君がいた。
レナはトムの前に、ミルクの入れすぎで乳白色になった紅茶を置くと、彼の横の椅子に座った。彼女はアルバムを自分の方に引き寄せ、写真を収めてあるビニールコーティングされたページを、6ページほど一気にめくった。
「これが私のお気に入りよ」と彼女が言った。
そこには見開き2ページに渡って、湖畔のコテージやその周辺で撮影された写真が収まっていた。隅には誰かの(たぶんレナの)手書きで、1982年、湖水地方に3世代集まる!と書かれている。
「私の祖母がイギリスに来たのはこの時だけだった。ロンドンのアパートで彼女をもてなすには、狭すぎてね。何しろ、私の両親と祖母のヤーニャ、それから私たち3人入れて6人でしょ。それで湖水地方のコテージに出かけたのよ。私たちは一度も行ったことがなかったんだけど、タマスの同僚の誰かが、あそこはいいところだって教えてくれて。それで、そこに1週間滞在したんだけど、5日間ずっと雨だったのよ。この日は確か木曜日だったと思う。唯一の晴れた日で、タマスはここぞとばかりにカメラを取り出して、パシャパシャと写真を撮り始めたってわけ。私の家族3世代が、初めて一緒に集まったのよ」レナはそこで一旦、間を空けた。その時のことを思い出しているようだ。「ヤーニャがエズミーに会ったのは3回だけ。あとの2回は私たちがハンガリーに帰った時のことで、彼女はその時にはもうかなり年老いていて、エズミーの名前どころか、私の名前もほとんど覚えていなかったわ」
「あ、だから、エズミーのミドルネームはアーニャなんですか?」
「まあそうね。ハンガリー語で『おばあちゃん』はナギャーニャって言って、それを短くした愛称がヤーニャ。さらに短くしてアーニャなんて可愛いかなと思って、付けたのよ」
トムは少し気まずくなって、変な汗をかきそうだった。エズミーについてそんなことも知らなかったことが気恥ずかしい。彼女の歴史に関しては、もっと前から聞いておくべきだったし、あるいは、彼女の方からぽろぽろと話したくなるくらい、僕が興味を持って接してくるべきだったんだ。今さらどうこう思っても仕方ないし、今知れて良かったと思うべきか。
「赤ちゃんの頃は、彼女はどんな子でしたか? おとなしい子だったのか、それともすごく騒がしい子だったのか」と彼は聞きながら、彼の姉のサラは絶対うるさい赤ん坊だっただろうな、と思った。
「ハッピーな子だったわ。もちろん夜泣きはしたし、そのたびに私たちは起こされて大変だったけど、でもたいていは陽気に過ごしていたわ。好奇心も旺盛でね、いつもベビーカーから外を見ようとするのよ。一度、人通りが多い中心街でベビーカーから落ちちゃったことがあったわ。私がしっかりとベルトで固定していなかったせいなんだけど」
「彼女は今でも好奇心旺盛ですよ。いつも知らない人の肩越しから、携帯の画面を覗き込んでます。どんなことを指で打ってるんだろうって」
レナがふふっと微笑んで、言った。「人は揺りかごから墓場まで、あまり変わらないのかもしれないわね」
「どうなんですかね」トムは紅茶を一口飲んだ。願わくは、変わってほしい。
レナはさらに数ページをめくっていった。彼女は写真が呼び起こす思い出に微笑んでいる。トムも微笑ましく、その様子を見ていた。その写真の意味を知る人が見れば、一枚の写真は記憶をめぐる旅へのチケットになるのだ。
「それで、あなたはどんな子だったの?」と彼女はアルバムから顔を上げて、言った。「思慮深い子供だったと想像できるけどね」
「実は、よくわからないんです。聞かれたこともないし」
「わかるはずよ! 赤ちゃんは大体どちらかの親に似るものなの。あなたたちの子供は、どっちに似るのかしらね」
レナにとっては何げなく口にした一言だったんだろうけど、トムは一瞬、思考回路が混線してしまった。
「あ...そうですね。えっと、なんていうか...」
「ごめんなさい」とレナが言った。「そんなこと言うべきじゃなかったわね。ちょっと出しゃばって、余計なことを言っちゃったわ」
「いいえ。ただ、僕たちは...というか僕は...なんていうか、僕たちはまだそういうことを話し合ってないんです。それはないんじゃないかな」と彼は言った。本当のことだった。実際、子供を作るとか、そういう会話をしたことはなかった。まあ、ローラが、『あなたたち、いつまでもぐずぐず煮え切らない態度を取ってないで、そろそろはっきり覚悟を決めなさいよ』的なことをつついてくることはあるけれど、子供を作るに至るには、その前に家族とか、結婚とか、子育てにはロンドンから郊外に引っ越さなきゃとか、考えることが山ほどあるのだ。それに、僕は自分のことを、親になるにはふさわしくない人間だと思っていた。家庭を築くこととは別の、一角(ひとかど)の人生を切り開いていける人間だと、必死に思い込もうとしてきたのだ。
しかし今、突然、彼はそのことを考えていた。赤ちゃんの写真を見ていたら、自分とエズミーの子供はどんな顔をしているんだろう、と想像をめぐらせていた。どのくらい僕を受け継ぐのだろう、そしてどのくらい彼女を。
「もちろんよ」とレナが言った。「あなたたちは若くて、私はいつかおばあちゃんになりたいなんて思っている、年老いた愚か者だもの」
「えっと...どうなんでしょうかね」とトムは曖昧に言った。
「でも、子供って祝福すべき存在なのよ。それだけは言っておくわ。あの子、一人っ子でしょ。時々ね、もっとたくさん子供を作っておけばよかったって思うのよ。時間なんてたっぷりあるって思ってたら、あっという間なのよね」彼女はそう言いながら立ち上がると、テーブルから離れた。「紅茶のおかわりどう?」
トムが「お願いします」と答えようとした時、廊下の冷たい板張りの床をこするような、誰かの足音が聞こえてきた。すると、エズミーが寝ぼけ眼で、もそもそとキッチンに入ってきた。
「ていうか、ここで何やってるの?」と、彼女はあくびを押し隠しながら言った。
「トムと思い出話をしてるのよ。彼が階段で写真を見ていたから、昔を振り返ってみようかしらって思ったの。紅茶でいい?」
「うん、お願い」とエズミーが言った。
「早起きだね」とトムは言った。
「あなたがなかなか戻って来ないから、探しに来たんじゃない」
「君はぐっすり寝てたけど」
「それはそうなんだけどね。わかるのよ」と彼女は言った。「女の勘ね。不穏な空気が眠りの世界に降ってきたの」エズミーは、テーブルに積んであるアルバムに目をやった。「ここまではわからなかったけど」
「トムにまだ見せたことなかったんでしょ」
「理由があって見せてなかったのよ」
「いい写真じゃないか」とトムは反論した。
「恥ずかしいのよ」彼女はそう言って、アルバムをテーブルの自分の方へ引き寄せた。「ああ、ママったら、何してくれてるの?」
「彼が興味があるって言うから。それに、こういうのって大事でしょ」とレナが言うと、娘から鋭い視線が飛んできて、チクッと刺さった。「今声がしたようだから、お父さんが起きたみたいね。紅茶を二階に持って行ってあげないと」
キッチンで二人きりになり、トムはエズミーの真横に座った。彼女が二つ目のアルバムを手に取り、めくり始める。このアルバムは、彼女が3歳と4歳の頃の写真を収めたもののようだ。肩までの長さの茶色い髪をした小さな女の子が、幸せそうな、それでいて探偵が周りを観察するような表情で写っている。当時の彼女は大体、ダンガリーズのコレクション(黄色、青、オレンジ)を着ていたようだ。靴は長靴の時もあれば、サンダルやジョギングシューズを履いている時もある。時折、家族みんなで写っているものも交じっている。家族写真はたいてい、ミッドランズ地区での日帰り旅行の時に撮ったものか、イングランドのビーチで休暇中に撮られたもので、背景にはいつもタマスの、古くて青いボルボ・ステーションワゴンが写っている。

ダンガリーズのコレクション。←モデルじゃなくて、色で選べよ!!笑
トムは、ヘアスタイルやファッションの変遷(へんせん)を見るのが好きだった。1986年の夏は生やしていタマスの口ひげが、1987年のエズミーの誕生日にはさっぱり消えているのを見て、笑った。時折、友達が写り込むことがあって、そのたびにエズミーはその子の名前を挙げ、今頃どうしてるんだろう? と吐息のように声を発した。そのほとんどが両親の友人の子供たちで、もう何十年も人生が重なることはないまま今に至るという。一応まだ、クリスマスカードを送るリストの下の方に、彼女たちの名前はそのまま残ってはいるらしい。リストを書き換えることなんて、よっぽどのことがない限り、ないから、と彼女は付け加えた。
「あなたの親もアルバムを持ってるでしょ」とエズミーが言った。「あなたのお家(うち)に行ったら、明日にでも見せてもらいましょ」
「アルバムなんて、僕は一度も見たことないけど」
「嘘つき」
「ほんとさ! テレビの上に、サラの写真と僕の写真が一つずつ立て掛けてあるけど、それだけだよ」
「きっともっとあるわ。子供の写真を一枚しか持ってないってことはないでしょ、トム。もしかしたら、ビデオで撮影した映像もあるかもしれないわね」彼女はそう言って、いたずらっぽく彼の肋骨(ろっこつ)を指でくすぐるように撫でた。「走り回る小さなトミー坊や」
「トミーなんて呼ばれてなかったよ」
「あなたが覚えてないだけじゃない? 私は呼ばれてた方に賭けるわ。ああ、見てみたい」
「あったとしても、僕は見ないよ」
「ってことは何? 昔の私のきわどい写真はめくりたいだけめくって、見てたくせに、あなたの写真を見るのは禁止ってこと?」
「そういうこと」
エズミーが次のページをめくると、ベニドルム '88 と上にタイトルが書かれた見開きページが表れた。ベニドルムは確か、スペインのリゾート地だ。レンタカーの写真から始まり、スペインらしい建物の内装、レンタル別荘だろうか、広い庭にプールもある。プールの横には、〈マイ・リトル・ポニー〉のアニメキャラがでかでかと描かれた水着を着て、両腕に浮き輪をはめたエズミーが写っている。タマスはデッキチェアに座って、タバコを吸いながらビールを飲んでいる。
「こうやって昔を振り返るのって、楽しいでしょ?」
「そうだね」とトムは言った。「君は今までに...」と彼は聞きかけて、途中でやめた。
「何?」
「え?」
「私は今までに、何?」
「ああ、何でもない」
「言いなさいよ」と彼女は言って、また彼の肋骨の辺りを指でくすぐろうとした。
「わかったよ。僕が聞きたかったのは、どんな風に見えるか考えたことがあるかってこと。もし僕たちがその、持ったとしたら。一つに合わさったら」
「ああ」とエズミーは言って、少しの間黙ってしまった。「わからないわ、本当に。あなたはどう思う?」
「今日までは考えたことなかったんだけど、さっき、初めてちょっと考えたんだ。階段で君の昔の写真を見ていて、もし僕たちが、3歳だったら、どんな感じになるんだろうって」
エズミーはしばらく何も言わなかった。彼女はテーブルの下でトムの手を取ると、指を交互にからめて手をつないだ。
「それは私も考えたことがあるの」とエズミーが言った。視線はまだアルバムの写真をじっと見つめたままで、ゆるぎないまなざしを崩そうとしない。「私は何度も考えたことがあるけど、あなたはそんなこと―」と彼女は続けたが、廊下の冷たい板張りの床を、脱げそうなスリッパでぺしぺしと叩くように歩く足音で中断されてしまった。
「お父さんがね」と、レナが言いながらキッチンに入ってきた。「あなたたちが出発する前に、みんなで散歩に行きましょうって。湖に行って、そこから二人はトムのお家に行けばいいって。だから、シャワーを浴びて準備してちょうだい」
「ちょっと、ママ」エズミーはとっさにつないでいた手を離し、電子レンジの時計を見上げた。「私たちは9時には出発しないといけないのよ」
「じゃあ、急いだ方がいいわね」とレナが言った。「それから、その電子レンジの時計は遅れてるのよ。どうやって調節したらいいのかわからないの」
「じゃあ、もう髪を洗わないとじゃない」エズミーはアルバムを閉じると、キッチンテーブルから立ち上がった。
トムは彼女を追いかけて、腕を取り、「僕はかまわないよ」と言いたかった。しかし、彼が立ち上がる前に、彼女はキッチンから出て行ってしまった。後で言おう、と僕は自分に言い聞かせた。後で。僕は携帯電話を取り出し、ニュースアプリを開くと、画面を見ながら紅茶を飲んだ。
〔チャプター 11の感想〕
写真は藍も好き💙←きもっ!!笑
藍は大学生の時、立て続けに女性にふられ、「もう英語を頑張る!」と思い立って、「CNNとかBBCとかを見るといいよ」という、教授だったか(?)誰かの言葉を鵜吞みにして、ケーブルテレビに加入した。それで、まあ、〈ラリーキング・ライブ〉とかも見てはいたけれど、おまけというか、副作用というか、デザイナーの〈パリコレ〉なるショーを、最初から最後まで丸ごと見てしまったのだ!!! うぶな藍の目には、そのキラキラ度合いは衝撃だった✨✨
それで、気づいたわけです。アプローチをすると、ふられてダメージを受ける。けれど、画面越しに見ていれば、キラキラが降ってくるだけで、心は痛まない。
それから告白とかはあまりしなくなった。25歳までは、20人くらいの人に告白して、ふられまくっていたけれど、25歳を過ぎてからは、1人か2人にしかアプローチしていない。
あ、思い出した! CNNとかBBCを勧めてくれたのは、H教授(准教授だったか?)だ。「教授室」なる空間に入ったのは、その時が初めてで、15分くらい、一対一で話をした。その日から自分の部屋を「教授室」っぽくしようと、大きなスチール製の本棚を買って、読みもしないのに本を買いあさっていた。笑
で、レナちゃん。レナちゃんは今はもう月に帰ってしまったんだけど(←かぐや姫?笑)、確かに実在したんです。だから、トムが階段でエズミーの写真を見ていたら、ふと気づくと、階段の踊り場にレナが立っていた、とか言われると、藍には階段に立つレナちゃんが浮かんでしまうんです...泣
もちろん、エズミーの母親と同じ名前なのは偶然なのですが、駅への階段を必死にのぼって、レナちゃんを追いかけたあの夜、レナちゃんの気持ちを変えられなかったあの夜が、思い出されて、泣けてくる...笑
チャプター 12
午後10時~11時
君の気持ちを変えられなかった夜
2014年7月 ― バラム、ロンドン
どっと拍手が沸き起こって、ほっとした。とはいえ、予想通りではあった。結婚式での演奏なんて、ちょろいものだ。お客さんは陽気な酔っ払いの集団だから、こっちが何をどう弾いたって、満開の笑顔が咲き乱れている。いや、一度だけ、会場が凍り付いた結婚式があったな。5、6年前だったか、演奏で参加した結婚式で、花婿(はなむこ)の親友がスピーチしたんだけど、その内容を聞いて、その場にいた全員が確信してしまった。彼と花嫁がかつてベッドをともにしていたことを。
トムはギターのプラグを抜くと、DJブースの後ろに放っておいたギターケースにそれを戻した。ビニール製のギターケースだけど、クッションが入っているからギターは傷つかない。それから彼は、一応ステージとして少しだけ高くなっている壇上から降りた。エズミーが彼を待っていた。演奏中、彼女はダンスフロアの後ろの壁に背をつけて立っていた。彼の演奏を見る時の、彼女のいつもの定位置だ。
「どうだった?」と彼は聞いた。
「美しい演奏だったわ、トム。本当に素敵」
「マジ? 自分ではちょっとフラットぎみになっちゃったかなって思ってたんだけど」と彼は言った。演奏の欠点を探して、どこがダメだったのか、彼女に言ってほしかった。
「うーん、私は何も気づかなかったけどね。っていうか、また私が音痴だとか言いたいんでしょうけど、他のみんなだって絶対気づいてなかったわ」
「それはみんながスローダンスを見てたからだよ。こっちはちっとも視線を感じなかったし」
「私だけはちゃんと見てたから、安心して」エズミーはそう言うと、手に持っていたグラスの中身を飲み干した。
トムが再び言葉を発する前に、サムが近寄ってきて、二人だけの会話はそれでお開きになった。サムはアナベルの新妻(にいづま)だ。彼女は少し酔っ払っていて、すぐにトムの体に彼女の腕を回してきた。
「すっごいよかったわ。もう完璧、トム!」と、彼女はかなり芝居がかった声で叫んだが、トムはあまり気にしなかった。というのも、サムはもともとかなり派手な女優であり、今は舞台で演技指導もしているのだ。これまでありとあらゆる役をこなしてきた彼女なりの、これも演出なのだろう。「まさに完璧。もうあたし泣いちゃったわ。ね、ほんとよね? アニー。涙がぽろぽろこぼれて、お化粧が心配だった、なんてね。ほら、アニーも何か言ってあげなさいよ。あなたも泣いてたでしょ」
「私も泣いちゃった」とアナベルが言った。「ほんとに素晴らしかった」
アナベルはトムを抱きしめて、「いろいろありがとう」と、今回のトムの大活躍に感謝した。アナベルとサムのファーストダンスの時は、フリートウッド・マックの『Landslide(地滑り)』を、たっぷりと時間が取れるように、ゆったりとしたアコースティック・バージョンに編曲して演奏した。それだけでなく、トムはアナベルの親友としてスピーチもしたし、結婚式で流す曲の選曲、プレイリストの作成もトムの担当だった。しかも、花嫁を花婿に差し出す父親役も、トムが務(つと)めたのだ。彼女の両親が、自分たちの娘が他の女性と結婚するなど、とうてい容認できないと、結婚式に来なかったからだ。
トムは、ちょっと失礼、と言って彼女たちの輪を抜けると、DJブースに入り、この日のために彼が作成した3つのミックスのうち、2つ目を再生するためにラップトップを操作した。するとすぐに、〈バラム・ボウル・クラブ〉の2階にある小さな多目的ホールの天井で、ミラーボールが光り、回り始めた。ちなみにこのミラーボールは、昔のカバーバンド仲間の一人であるモグスから借りたものだ。それから、ここから1キロも離れていないところに、アナベルとサムの新居があり、この後、親しい友人を集めて二次会を開く予定らしい。どうせ飲めや歌えのどんちゃん騒ぎになることは目に見えている。酒はもちろん、ドラッグをやりだす輩(やから)もいるかもしれない。トムはすでに二次会には行かないことに決めていた。そんな中で、一人だけ素面(しらふ)でいられるはずがないじゃないか。それはもう、乱交パーティーの中心で禁欲を叫ぶみたいなものだ。
空間にひしめくお客さんたちが、1曲目のサウンドが出力されると同時に、歓声を上げた。僕がプレイリストに仕込んだ〈80年代ヒットパレード〉の始まりだ。これこそが、僕の望んでいたことだった。もう何年もライブをやっていないから、生のお客さんの反応に飢えていたのだ。今は、教えることと作曲することが仕事のほとんどになってしまった。自分が演奏したり、自分がミックスした音楽を流し、お客さんがリアルタイムで返してくれる反応を耳で、肌で受け止めることが、僕は何よりも大好きなのだ。
以前であれば、ここでトムはDJブースを飛び出し、自ら火付け役の一人となってダンスフロアの群衆に混ざり、活気をたぎらせ踊り始めるところだが、今回はやめておいた。プレイリストを流しっぱなしにして、彼はDJブースを出ると、エズミーを探しに行った。彼女はビュッフェ・テーブルの横で、音楽に合わせて足を踏み鳴らしながら、ソーセージ入りの、こんがり焼けたロールパンが山盛りに並べられた銀のトレイを見ている。
「この曲が好きなんだね」と彼は彼女に言った。
「あ、音楽? そうね」
「スプリングスティーンだよ。みんなノリノリだね...」と彼は言って、群衆に向かってうなずいた。人数は10人そこそこだけど、ミュージックビデオの中みたいに、みんな腕を振り回している。
「いいんじゃない」とエズミーは言って、大きめの丸テーブルの席に座った。彼女の向かい側では、結婚式に飽きてしまった2人の子供が、使用済みのパーティークラッカーの筒を、交互に積み重ねて遊んでいる。
「なんだか落ち着かない顔をしてるわね」と彼女が声を張り上げた。爆音をかき鳴らし、スプリングスティーンが『ダンシング・イン・ザ・ダーク』を歌い上げている。
「このスーツのせいだよ」と彼も声を張った。
「当ててあげよっか。あなたはスーツを着るのが大っ嫌いなんでしょ?」
トムは微妙に眉をひそめ、子供がいじけるようにうなずいた。エズミーは、ロックンローラー的な、自由を求める生き方みたいなことを言っているのだろうが、正直に言えば、僕はスーツを着るのが嫌いなわけではない。久しぶりに着たら、スーツが思いのほか、きつくなったように感じ、そのことが気がかりなのだ。僕は生まれつきの痩せ形だったはずなのに、人生で初めて、お腹が出っ張ってきた感もあって、そっちが心配なのだ。一方、エズミーは、太ももにぴったりとフィットした花柄のワンピースを着ていて、美しかった。彼女はもっと太ももを細くしたいと言って、3つもジムのクラスに加入しているのだが、僕からすると、今のままの太ももでいてほしい。彼女の髪は軽くカールしながら、肩の下までさらりと流れるように下がっている。目の感染症にかかったとかで、コンタクトレンズが使えなくなった彼女は、こういうイベント事では初めて、紫色の角縁(つのぶち)メガネをかけていた。彼女としては不本意らしく、ぶつくさ文句を言っていたが、僕からすると、彼女のメガネ姿はすごくセクシーだと、前から感じていた。
「今年に入って3回目だよ」と彼は言った。
「嫌なら、フィリーとアダムの結婚式にはスーツなんて着ていかなくてもいいのよ」
「そして僕は、普段着のスラックスとシャツで来ちゃった、唯一の間抜けな男になるってか?」
「私は一緒にいても気にしないわ」
「君が気にしないのはわかってる。心配なのはフィリーだよ。彼女はおそらく警備員を雇って入口に立たせてる。正装じゃないと入れさせてもらえないんじゃないかな」と彼は言った。フィリーはエズミーの友人で今度結婚するのだが、彼女が最近、アダム(彼女の婚約者)の弟に言っていたことを、トムは引き合いに出した。もうすぐ義理の弟になるひげを生やした男に向かって、彼女は「結婚式までに、きれいさっぱりそのひげを剃って来てちょうだい。もし顔のどこかに3ミリ以上のひげを見つけたら、あなたは正式な家族写真から外れてもらいます」と言っていたのだ。
トムとエズミーはしばらくそのまま、そこに座っていた。曲が終わって、一瞬静寂に包まれ、また次の曲が始まった。すでに酔いが回ったダンサーたちが思い思いに腕を突き上げ、熱狂している。彼らはあと数時間、この店が閉まる時間まで、床に足を打ちつけ、飛び跳ね続けるのだろう。
二人で何度か結婚式に参加したことがあるのだが、大体このような状況に陥(おちい)ってしまうのだ。周りが盛り上がっている中で、二人だけぽつんと取り残されたように、沈んでしまう。「いつになったらあなたたちの結婚式に参加できるの?」という友人たちからの質問を片手であしらいながら、関わりたくない状況を横目に、自分たちはちっとも楽しめず、ただ時間だけが過ぎていく。少なくともエズミーは楽しくなさそうだ。僕は一応、新郎新婦が人生を共に歩むことを誓い合い、彼らの友人たちが踊ったり笑ったりしているのを見ることに、それなりの喜びを見いだしてはいた。
「基本的に管理しすぎなのよ。結婚したって、もううんざりって嫌気がさすだけ」と、エズミーがかつて言っていたことがある。ローラがエズミーに、なんでそうやって公然と結婚を忌(い)み嫌って、避けてるの? みたいなことを聞いた時だ。
「なるほどね」とローラは言った。「トム、あなたはどうなの?」
「うーん、僕は、結婚式は好きだよ。でも、僕は良い側面しか見てないのかもしれないけど」
「ほら! トムは結婚式が好きだって。正式に籍を入れるのはどうなの?」とローラが聞いた。「わかるでしょ、公(おおやけ)の証しというか、ちゃんと認めてもらうってこと。べつに盛大な式を挙げる必要はないのよ」と彼女は言ったけれど、遠回しに彼女自身の盛大な結婚式を引き合いに出していることは明白だった。彼女の結婚式では鳩が飛び、(7月なのに)氷の彫刻が飾られ、一番よくわからなかったのが、ディナーの前に〈マリアッチ・バンド〉の演奏を聞かされたことだ。なぜ大きな麦わら帽子をかぶった陽気なメキシコ人たちのバンドを呼んだのか、その場にいた誰もが首をかしげていた。
「結婚したって今以上に縛られるだけでしょ。国が推奨するシステムに組み込まれて」と、エズミーは茶目っ気たっぷりな笑顔を浮かべて言った。これから結婚を考えている友人たちを苛立たせることは、承知の上らしい。
彼女はこの種の発言を何百回と繰り返してきた。特に2年ほど前は、しょっちゅうそんなことを言っていた。あの頃は、彼女の友人たちがめったやたらに彼女に結婚を勧めていたのだ。彼女の気持ちを変えようと奮闘するかのように、トムとの結婚がどれほど実り多きものになるかを、熱く語って聞かせる彼女の友人もいた。
一方、トムの友人たちは彼に向かって、自分たちが結婚式を挙げる際に引き受けた様々な雑務の話を、まるで武勇伝を話して聞かせるように語っていた。結婚式という華やかな舞台は、男性よりも女性が中心となって取り仕切るべきだ、という世間にはびこる共通認識を覆(くつがえ)そうと躍起になるかのように、バンドの手配や車の予約をしたんだ、と得意げに話していた。とはいえ、花束や引き出物に関しては女性任せの男が多いようだったけれど。
そうこうしているうちに、二人とも30代に突入していた。前ほどは、周りから急(せ)かされることはなくなったが、今でもたまに、結婚に関する質問を浴びせられることがある。大体は、ローラとアマン(ローラの夫)の新居でバーベキューをしている時に、そういう話題を振られる。ローラ夫妻の新居は、ロンドン郊外の商業都市にあって、トムとエズミーがそこを訪れるたびに、どれだけその場所がファミリーにとって快適かを、さんざん聞かされるのだ。
「あなたたちはまだ、結婚反対!とかプラカードを掲げて練(ね)り歩いてるの?」とローラに言われたことがある。そのとき彼女は、娘のタルーラ(僕たちは「お嬢(じょう)」と親しみを込めて呼んでいる)を膝(ひざ)に乗せていた。お嬢は、ローラの膝の上で、ヒヒーンと馬の鳴き声を発しながら、上下に揺れていた。
「練り歩くも何も、私は何もしないって言ってるのよ。反対とかじゃなくて、しないの。結婚しました!ってプラカードを掲げて練り歩いてるのは、逆にあなたの方でしょ」
「たしかにエズミーの言う通りね」とローラが、若干とげのある言い方で言った。知識をひけらかすようにマウントを取ってきた友人を、暗に非難する時の彼女の口調だ。「私はね、結婚についてのあなたの考えが変わったのかって聞いてるのよ」
「何も変わらないわ。あなただってそうでしょ」
「うーん」ローラは首をかしげながら、娘を膝に乗せたまま体をひねるようにして、アマンの方を見た。「一度心に根付いた結婚観は絶対に変えられない、なんてこともないんじゃないか」とアマンはローラに言っていたらしい。
もちろん、エズミーとトムが結婚について話し合ったことは、少ないながらもある。付き合い始めて早々(そうそう)に、彼女が結婚する考えはないことを表明した。めまぐるしく変化する世界の中で、結婚という制度がいかに不必要かを彼女は語っていた。結婚式は大げさで、仰々(ぎょうぎょう)しくて、主役の二人に過度のプレッシャーを秘密裏(ひみつり)に与えるだけの、宗教的な儀式だと彼女は憤(いきどお)っていた。子供の洗礼式、結婚式、葬式くらいにしか、今後教会に足を踏み入れないであろうカップルへの神の名のもとの脅しだ、と。あるいは、教会で式を挙げずに、世俗的な結婚式にしたとしても、今度は神からのプレッシャーがない分、薄っぺらい結婚式になってしまう、と嘆いていた。いくら主役の二人が文学的な詩を読んだりして場をつないでも、(ラブコメのロマンチックなシーンを思い浮かべながら、「そのままの君でいて。君を丸ごとを愛するから」なんて歌い上げちゃったら、なおさら悲鳴を上げたくなるくらい、)悲惨な挙式になってしまう、と。
しかし、彼女が口にするこれらの不満は単なるカモフラージュにすぎないことをトムは知っていた。彼女が結婚観を形成するに至った真の問題は、結婚式や式を取り巻くあれこれにはあまり関係がなかったのだ。彼女の心の根っこには、父親の不倫があった。1993年に父親が家族を捨てて、2年間家に帰ることなく、若い女性と交際していたことが、父と娘の固い絆を引き裂き、彼女の心の中で、何よりも高い結婚への障壁になっているのだ。父親の相手の女性は、まだ大学を卒業したばかりの女の子で、名前をノエルといった。
トムがその不倫について知らされたのは、彼女と交際を始めてから半年ほど経った頃だった。―それは、軍人がそれ相応の任務を果たした後に制服に付与されるバッジのように、ようやく彼女に認められた証しだった。
「それからというもの、結婚は私には絶対に無理だって思って生きてきたの」と彼女は彼に打ち明けた。「玄関に置かれたいくつもの父のスーツケースを見た時からね」
「でも彼は戻ってきたんだよね」
「2年後にね」とエズミーはきっぱりと言ったが、まだ癒えていない心の傷が、うずくように痛んだ。「下品にもほどがあるわ。いい年した男が、自分のかつての教え子の一人と同棲してたなんて。みだらなヨーロッパ映画じゃないんだから」
「彼女は君の知り合いだったとか?」
「15歳になるまでは、毎週末のように家族ぐるみで過ごしてた。イビサ島で一緒にバカンスを過ごしたこともある。彼女は私のかつての友達の中で最悪な子だった。一緒に子供向けの映画を見に行くたびに、大衆にこびてるだけのチャラチャラした映画だとか、大人ぶってこき下ろしてたわ」
「どんな感じだったの? そのとき...」
「彼が家に戻ってきたとき? 彼は何事もなかったかのように振る舞ってたわ。『一時の気の迷い』だったとか言ってね。ママはそんな彼を受け入れたのよ」
トムとしてはイビサ島での様子も聞きたかったのだが、エズミーがさっさとこの話を終わらせようと途中をすっ飛ばしたのがわかり、それ以上聞かないことにした。それ以来、この話題にはあまり触れていない。その話に触れれば、一生癒えることのない彼女の傷口をほじくり返すことになるとわかっていたからだ。エズミーの家族に対する考え方、特に結婚に対する考え方は、その後、二度と元通りにはならなかった。それは、誰かが自由に手に入れたり、捨てたりできるものになっていた。彼女が好きでドアを開けっ放しにしているのだから、彼女のパートナーは暇な猫のように、いつでも自由に出入りできるのだ。
父親のタマスと彼女の関係は、時間の経過とともに修復されつつあるものの、何かあれば簡単に壊れてしまう、という危うさを抱えたまま生きていくことになった。トムはタマスのことが好きではあるが、だからといって、彼女に深い傷を負わせた彼を許せるかどうかはわからなかった。
トムはエズミーの手の上に彼の手をそっと重ね、彼女の目を見て微笑んだ。その時、テーブルの上に積み上げられたパーティークラッカーが崩れ落ちた。カラフルなクラッカーが目の前をころころと転がっていく様を、二人は微笑ましく眺めていた。
1時間ほど経ち、トムがセットした曲が一巡する頃には、ダンスフロアの熱気はピークに達していた。主役のアナベルとサムは、フロアの中心で裸足でステップを踏みながら、〈プロセッコ〉のボトルを二人で交互に回し飲みしている。ニールとポッドとアリは、ネクタイを頭に巻いて、ミック・ジャガーにでもなったつもりなのか、腰を変にくねらせながらノリノリで踊っている。彼らのパートナーたちは、疲れた様子ではあるが、それを愛おしそうに見守っている。腕や首に思いっきりタトゥーを入れた金髪の女性店員が、お酒の入ったショットグラスをたくさん載せたトレイを運んでくると、フロアに大きな歓声が上がった。
エズミーがトイレに席を立つと、それを見計らったようにアナベルが彼のところにやって来て、彼女が座っていた椅子に腰を下ろした。
「それで、やっぱりまだ大反対?」と彼女が言った。
「たぶんね」
「最後に結婚について話したのはいつ?」
「2ヶ月くらい前かな。ローラが聞いてきた」
「あなたたち二人きりでは? パーティーとかじゃなくて」
「わからない。たぶん何年も前だと思う。話題にのぼってこないんだ」
「ちゃんと話したほうがいいかもね」
「どういう意味?」
「つまり、あなたが頼み込むのよ。そうすれば、彼女の気持ちが変わるかもしれない。今日の彼女は幸せそうだった。式の最中もその後も」
「彼女が幸せそうに見えたのは、彼女は君のことが好きだからだよ。君の結婚を心から祝福してるんだ。急に結婚自体が好きになったわけじゃない。それにこの30分間、彼女はほとんど何もしゃべってない。きっと父親のことを考えているんだ。僕にはわかる」
「ちゃんと聞いて、トム・マーレイ。そんなことわかりっこないでしょ。いい? 彼女はあなたを変えた。ってことは逆の可能性も、ほんのわずかだとしても、ある。あなたが彼女を変えるのよ」
そう言ったところで、アナベルはサムに引っ張られるようにして、ダンスフロアに戻っていった。トムのセットリストは1990年代のセレクションに突入し、ブリティッシュ・ロックがフロアを席巻した。
そのうちに、エズミーが彼のところに戻ってきて、彼はテーブルに置かれたボトルから赤ワインをグラスに注ぎ、彼女に手渡した。そして彼自身は、さっきから飲んでいた甘いフルーツジュースに口を付けた。窮屈(きゅうくつ)なお腹をさすりながら思う。白いシャツのボタンを内側からお腹が押し広げているのは、アルコールの代わりに、こうして糖分の多い飲み物ばかりを大量に摂取しているせいではないか。
「君も踊ったらどう? ほんとに」と彼は言った。ロックバンド〈スウェード〉が奏でる『Animal Nitrate(官能的硝酸エステル)』が、ひずんだギター音の余韻を残しつつ終わった。「これからどんどんいい曲が続いていくからさ」
「もう少ししたらね」と彼女は言った。「他の人たちを見てると楽しいわ。みんなほんとに楽しそうなんだもん」
アナベルに言われたせいかもしれないが、どことなく彼女の声に、ちょっとした変化を感じた気がした。ひょっとして、彼女は結婚式をうらやましいと思ってる?
「みんな楽しそうだね」
「今日のあなたはよく頑張ったわ」彼女はそう言って、彼の頬にキスをした。彼は彼女の息から赤ワインの香りをかすかにかぎ取った。「あなたを誇りに思うわ」
「ありがとう」
「それから、さっきはごめんなさい。ちょっと不機嫌だったかもしれないわね」
「いいんだよ」と彼は言ったが、それ以上は言う必要ないとわかっていた。オアシスの『Don't Look Back in Anger(過去は怒って振り返るものじゃない)』の最初の音がフロア中に響き渡り、一瞬遅れて酔っ払いたちが歓声を上げ、みんなで歌い始めた。
「エズ。君は今まで僕たちのことを―」
「トム。今夜は聞かないで」
「僕はただ―」
「私の気持ちは変わらない。それはあなたもわかってるでしょ?」
「わかってる」
「私は、私たちのことをただの―」
「そうだよ」
「そうって、私たちってそうなの?」と彼女は言って、彼の方を向き、彼の目を覗き込んだ。
「そうだよ」と彼はもう一度言ったが、十分に説得力のある言い方ができたかどうかわからなかった。というか、自分がここで説得力のある言い方をしたいのかどうか、自分の気持ちもよくわからなかった。
彼は携帯電話を取り出した。時刻は10時59分。顔を上げると、エズミーはダンスフロアの方を見つめている。彼女は再びぼんやりとしていて、ほとんど悲しそうな顔をしていた。
「よかった」彼女はそう言うと、彼の手を取った。
〔チャプター 12の感想〕
結婚って、(僕みたいな)結婚できない人には憧れで、できる人にはうざいというか、窮屈というか、エズミーは自由な生き方というか、気持ちの持ちようとしての気楽さ、みたいなものを求めているのかもしれませんね。でも、なかなかお気楽には生きられないものなんですよね。次から次へと(僕の場合ですが、)悩みの種が頭上からひらひらと花びらみたいに舞い降りてきて、すべてよけるのは無理なので、(後から考えるとどうでもいいことを)毎日毎日悩んでいます。エズミーも瘦せようとジムに通っていたりするので、彼女にとってもなかなか人生は思うようにいかないのかもしれません。トムはピアノも弾けるし、ギターも弾けるし、パソコンで作曲もできるし、(彼女が惚れるくらいの)才能はあるようですが、ただ、彼もお腹が出てきたのを気にしたり、ライブから遠ざかっていたりと、あれこれ悩みは尽きないようです。←悩みがなかったら、小説(人生)が成り立たないからね!笑
と思ったけど、具体的な理由があったんですね! エズミーの結婚嫌いは父親の不倫が原因でした。藍は薄情なのか、「親と子供」の関係については、多くの小説に共感できないんですよ。「恋愛」については大いに共感できるのですが、「親が...だから、私は悲しい」とか言われても、ん? なんで? といつも首をかしげてしまいます...💦←君は育ちが悪いというか、エズミーみたいに親との固い絆なんてないからね!笑←まあ、僕にとってはもともと親は残念な存在だから。←つまり、親の君への仕込みがなってないんだよ!!←仕込みって、僕ってラーメン?笑
最後のシーンは、二人の気持ちの機微(きび)が表れていて、二人のやり取りの表現が絶妙でしたね。悲しそうな顔をしながら「よかった」と言うエズミー。「そうなの?」「そうだよ」の「そう」が何を指しているのかは、はっきりとは書かれていないのですが、「人生の一時(いっとき)のパートナーにすぎない」ってことでしょう。切ないシーンで大好きです。
藍の胸はとても締めつけられます。笑←そこで笑っちゃダメなんだよ!笑
チャプター 13
午前0時~午前1時
ハッピー・ニューイヤー!なんて気分じゃない!
2015年1月 ― カビーザ、サフォーク
「ハッピーニューイヤー!」ニールはそう叫ぶと、景気よくコルク栓を開けて、細長いクリスタルカットの7個のグラスにシャンパンを注いでいった。
全員が立ち上がった。キスやハグや握手があちこちで取り交わされている。その間に、ニールは中庭とリビングを隔(へだ)てている大きなガラス窓を引き開けて、外の空気とともに新年を迎え入れた。スポットライトに照らされた真夜中の芝生は、うっすらと霜が降り、白く光っている。友人たちも続々と窓辺に近づいてきて、新年の空気をみんなで仰(あお)いだ。彼の妻のカリンが再生ボタンを押すと、ワイヤレススピーカーから『蛍の光』が流れ出す。
トムだけは大きな灰色のソファに座ったまま、暖炉の中で燃える薪(まき)を見つめていた。誰かが異変に気づいて、声をかけてこなければいい、と願っていた。まあ、みんな相当酔っ払っているから、周りのことなど眼中にないだろうが。
1時間ほど前から発作の兆候を感じていた。すぐに例の症状だとわかった。こうして地元の友人たちとつるむのはかなり久しぶりだったから、そもそも一人だけ、赤の他人が交じったように、浮いていた。
まず、そわそわと落ち着きがなくなり、居心地が悪くなり、数分間でさえ何かに集中することができなくなった。そして、ニールの家のキッチンの壁が自分に迫ってくるような閉塞感(へいそくかん)にとらわれた。酒など一滴も飲んでいないのに、どこか酔っ払ったような、めまいのような感覚に完全に包囲され、
胸の中では心臓がバクバクと高鳴り、
最悪の事態が迫っていることを告げている。
一刻も早く逃げなくては...
彼は、オークの木材でできた大きなコーヒーテーブルに視線を移した。ワインや、スピリッツや、ミキサーなどが置かれている。手を伸ばし、ノンアルコールのビールを一口すすったが、口の中が酸っぱくなっただけだった。もっと違う何かを、全身がしきりに求めていた。
奇妙なことに、そんな必死な自分を、ああ、このパターンね、と、一歩引いて眺めている自分もいた。いったん遠くへ離れた惑星が軌道に乗って戻ってくるような感覚。だんだんと夜寝付けなくなり、気分が落ち込んできて、絶望からの救いを求める声が大きくなる感覚。風邪や頭痛のように周期的にそいつはやって来るが、風邪や頭痛のように簡単に消え去ってはくれない。昔聴いていた懐かしい歌のように、体内に根付いてしまったかのようだ。日ごとに、どんどん僕を下げるエレベーター。どこまでも下がり続け、一向に地上には到達しない。
周りの世界で、手を伸ばせば自分の支えになってくれるはずの、形ある物が次々と消えていく。急に落とし穴が目の前で開き、そこに落ちないように立ち止まりたいが、意志とは無関係に足が一歩を踏み出し、僕は落ちていく。恐怖、吐き気、動悸。穴を落ちながらドミノ倒しの駒になったように、不快なパレードを見せられ、理性的な思考や論理は徐々に失われていく。
問題は、まだしらふの状態で、まだ自分を一応客観視できている状態で、どうやってここから抜け出せるかだ。そんなことが可能なのか?
今回は周りに大勢の人がいるところで、やって来やがったか。地元の友人たちに自分の失態をさらすかもしれないと思うと、恥ずかしい。自分の体なのに、自分でコントロールが利かなくなった状態をみんなに目撃されてしまうのか。
『蛍の光』が2番に入り、意識を音楽に向けた。あいまいな2番の歌詞をもごもごと口ずさんでいると、エズミーが、一人だけみんなに合流していないトムに気づいた。
「大丈夫?」と、エズミーがトムの横に腰掛け、顔を覗き込むように、そっと声をかけた。
年が明けてまだ10分も経っていなかった。新たな年がこんな風に幕を開けたことが、不本意でならない。
「あんまり」
「そっか。気分が悪いの? 何か食べたせいかな」と言って、彼女は手の甲を彼の額に押し当てた。外気に触れていた彼女の手は、ひんやりと冷たかった。「ああいうのは食べない方がいいって言ったでしょ―」
「違うよ」とトムは言った。「ひたひたと感じるんだ...」不完全な言葉が口をついて、着地点を失った。
「何を感じるの?」
「もう帰った方がいいって」と彼は、泣きそうになるのを堪(こら)えながら言った。
「でも、今新年になったばかりだし―」
「帰らなきゃまずいんだよ」とトムは声を荒げた。
すかさず、エズミーは彼の手をつかむと、彼をソファから引きはがすように引っ張った。
「わかったわ」と彼女は言い、彼の手を引いたまま、すたすたと玄関へ向かった。そして、パーティーに参加している誰にも説明することなく、外に出た。「もう大丈夫よ」
二人は手をつないだまま、ニールの家を後にした。―彼の家は昔納屋(なや)だった建物を住宅用に改築したもので、彼は気取って「ヴァンハータロ」と名付けていた。フィンランド語で「古い家」を意味するらしいが、彼はフィンランドに縁もゆかりもなかった。―二人が乗ってきた赤の日産マイクラが、砂利の敷き詰められた私道に止まっている。
トムが運転席に乗り込むと、エズミーが玄関に駆け戻るのが見えた。僕らが家を出るのを追ってきたらしいアナベルが玄関前に立っていて、彼女たちは二言三言(ふたことみこと)言葉を交わしてから、エズミーは車に戻ってきた。
「彼女はなんて?」とトムは切羽詰まった声で聞いた。
「何も」とエズミーは答えた。「そういえば、あなたのコートを置いてきちゃったわね。取ってこようか―」
「いや、戻らなくていいよ」とトムは言って、車のエンジンをかけた。バックで砂利をタイヤに絡(から)ませながら公道に出ると、彼は両親が住んでいる実家のあるローストフト方面へ向かった。とはいえ、息もきれぎれ1マイルも運転すると、パニックに陥(おちい)りそうになり、彼は震える腕でハンドルを切り、路肩に停車した。大きく深呼吸しながらしばし休憩を取る、ということを1マイルごとに繰り返しながらの走行になった。
「トム、どうしたの? 言ってみて」とエズミーは、冷静になろうと声を抑えながら言った。
「なんでもないよ」
「なんでもないわけないじゃない、トム。お願いだから言って。何かあったの?」
彼女はトムの腕に手を当てようとしたが、トムはそれを払いのけた。
「オーケーオーケー。じゃあ、私が運転を代わろうか?」
トムはそれにも答えずに、ただ大きく深呼吸を繰り返していた。
「家に帰りたい」
「そうね、ダーリン。もうすぐそこでしょ―」
「実家じゃなくて、ホームに帰りたいんだ」
「ロンドン?」
トムは荒く呼吸を続けながら、うなずいた。
「そっか。でも、今は真夜中よ―」
「わかってるよ」彼は目尻に涙を浮かべ、息を荒げ肩を震わせながら、苦しそうに声をしぼり出した。
「じゃあ、今からでも帰りましょ、トム。あなたがその方がいいのなら、真夜中だってロンドンまで帰れるわ」とエズミーは、彼のパニックを中和するように冷静さを保ちつつ、穏やかな声で言った。「それとも、今夜はご両親の家に戻って、明日、今度は私が運転するから、一緒にホームに帰りましょ。あなたが望むならね」
「たぶん」と彼は言った。「それがいいかも」
10分後、ようやく呼吸が落ち着いたトムは、車のキーを回しエンジンをかけると、あと20分もすれば着くはずの両親の家へ向けて走り出した。
くすぶっていたものがパチパチとかすかな痛みに転じたのは、あと1週間もすればクリスマスという頃だった。それから2週間ばかりずっと気分が晴れなかった。外に出たくなかった。ロンドンの家にこもっていたかったのに、こうして実家のある地元に帰ってきてしまった。周りに人がいると落ち着かない。ずっとそわそわしていた。クリスマス当日の午前中、恒例の〈寒中水泳イベント〉でビーチに行っても、26日の〈ボクシング・デー〉にパブで家族と食事をしていても、ずっと気分は落ちたままだった。
でも今日までそのことについて、一言も言わずにきた。黙っていれば、見て見ぬふりをするように、この憂鬱な気分は消え去ってくれるかもしれない、と淡い期待を抱いていた。僕を巻き込む激しい嵐ではなく、気まぐれな通り雨のように、パッと視界が開(ひら)けて、気分も晴れるのではないか。そう、今回のこれも、頭上を通過するだけの雨雲なのだ、と。
これまでトムは、ロンドンの家を離れることに不安を感じても、「ちょっと気分が悪いだけ」と自分に言い聞かせ、やり過ごしてきた。―今回は「ちょっと」ではないかもしれない。なぜこのような怖いくらいの強烈なうつ状態にとらわれているのか、自分でもその理由がわからないまま、トムは、子供の頃の寝室に閉じこもるように、かろうじて体を動かせるほどの小さなベッドでうずくまっていた。エズミーと彼の両親は、彼が部屋にこもって仕事をしているのだろうと思い、わざわざ邪魔をしに入ってきたりはしなかった。
この2週間ばかり、トムは自分が感じていることを隠し通してきた。気持ちを偽(いつわ)って人と接することは、びっくりするほど簡単だった。―自分でも怖くなるほど簡単だった。
そんな中でも、すべてが間違っている、という感覚から逃(のが)れられずにいた。
こんなことが起こるはずはないのだ。
だって、僕は今幸せなのだから。
もう何年も、この感覚から遠ざかっていた。エズミーのおかげだ。彼女の存在が壁となり、そんなものは寄せ付けなかったのだ。それが孤独感であれ、不安感であれ、自己嫌悪であれ、彼女がそばにいてくれさえすれば、どんな負の感情も声を上げられないほどに、僕らはハッピーだったはずなのに。
それがなぜ、すっかり変わってしまったのか?
大晦日から新年に替わる夜、ニールの家のソファにじっと座ったまま、自分の周りで世界がザーッと閉ざされていくような感覚に襲われた。なぜこんなことが起こるんだ? と僕は、その理由ばかりを探し求めていた。僕は馬鹿だった。理由などありはしないのに。
理由なんて求めたって、何の役にも立たないのに。
車を20分ほど走らせたところで、トムの両親の家に到着した。真夜中だったがリビングでは、両親の他に、彼の叔母や叔父も集まって、なごやかに談笑していた。トムとエズミーを迎え入れた彼らは、新年のキスや握手を求めてきたが、彼女が彼をかばうように、彼の寝室へそそくさと連れていった。今のトムにとって、人との触れ合いは一番避けたいことだったのだ。
トムが服を脱いで布団に潜り込むのを見届けてから、エズミーは電気を消し、何も聞かずに廊下に出ると、後ろ手でカチャとドアを閉めた。
一人になった彼は、しばらく真っ暗な天井をぼんやりと見つめていた。数分後、部屋から離れるエズミーの静かな足音が聞こえ、廊下を少し進んだところで彼女に声がかかった。母親だ。彼女は何かがおかしいと気づいたのだろうか? 気づいていたはずだ。トムがみんなを無視するなんて普段なら考えられない。普通なら、真っ先にダイニングルームに入り、テーブルに残されたチーズやクラッカーをパクパクとつまみ食いするはずなのに、さっさと寝室に引っ込むなんてトムらしくない。クリスマスから新年まで、どこかよそよそしい感じだったのもトムらしくなかった。そのことを一番よく知っているのは母親だ。
「どうしたの?」と彼女がエズミーに聞いた。
「わかりません。急に彼の様子が...おかしくなったんです。ニールの家にいたんですけど、突然ふさぎ込んでしまって」
「ちょっと様子を見てこようかしら―」
「やめておいた方が。明日になったらたぶん。今は彼を休ませてあげましょう」
「何も起きてないんでしょ? お酒も飲んでないのよね」
「飲んでいません。なぜなのか、私にもさっぱり。パニック発作か何かのようでした」
「ああ、なんてこと」母親の涙声が廊下をつたって聞こえてきた。母親がすすり泣くように声をしぼり出している。「またこんな状態に逆戻りなんて...」それを聞いて、トムはパニックに陥(おちい)りかける。今のこの状態がそうなのか、と、彼は思う。この状態を、母親はエズミーに何と説明するのだろう?
「なにか」とエズミーが言った。「なにか私が見逃してることはありませんか?」
「そうね...」母親は憤(いきどお)ったように言った。「彼の悲しみね」
悲しみ。トムはその言葉について考えた。母親は昔からそう呼んでいた。うつ病と言い切ってしまった方が正しいのだろうが、母親はその言葉を使うのを避けてきた。彼が大学を中退し、症状が最悪だった頃の記憶が蘇る。忘れることなんてできるわけがない。何度でも蘇ってくるのだ。僕はダイニングルームで、家族団らんの場で仁王立ちし、母が泣いている横で、姉がやめて!と懇願する中で、何度も繰り返し、その言葉を叫んでいた。うつ病、うつ病、僕はうつ病なんだろ! 母親のベッドサイドのテーブルの下に、うつ病や不安障害に関する、大量にプリントアウトされたオンライン記事を見つけた時には、ひどくみじめな思いがした。他にも、NHS(国民保健サービス)のカウンセリングのパンフレットや、図書館から借りてきた精神疾患に関する本が何冊も積み重ねてあった。トムは同時に、父親の苦しみや善意も忘れられなかった。父親は気まずい思いをしながらも、なんとかトムに話して聞かせた。何を話せばいいのか父親自身よくわかっていないようで、それがいっそう痛々しかった。
「悲しみ、ですか?」とエズミーが言った。
「実はね、今回は違うかもしれないって、私は思っていたのよ。あなたは彼に、とても良くしてくれたわ。あなたと一緒なら、うまく行くんじゃないかって...」アンは失望したように声を落とした。「彼はずっと良い状態だった。もう...10年近くも、なんともなかったんだけどね―」
「アン、ごめんなさい」とエズミーが言った。「あなたの仰っていることが私にはよくわかりません。もっとはっきりと―」
「うつ病なのよ」とアンはやや声を荒げて言った。「これでわかった? もうこんなこと私に言わせないでちょうだい、エズミー」
それから、しばしの間、沈黙が続いた。トムはエズミーがどんな顔をしているのか想像していた。すべてを納得するように、うなずく彼女の顔が目に浮かぶようだった。恋人が、一緒に暮らしている男が、やっかいなものを、こんな病気を抱え込んでいたことを、彼女はとうとう知ってしまった。
今までずっと、そのことを知らされてこなかったことにも、彼女は気づいてしまったのだ。
トムは布団の中で丸まって目を閉じた。耳だけはドアの向こう側へそばだてていた。母親はどこまで彼女に打ち明けるのだろうか。翌朝、僕が自分で彼女に伝えなければならないことは、どれだけ残っているのだろうか。ベッドサイドのテーブルの上から、1980年代に買った分厚い目覚まし時計の赤い数字が、彼の顔をほのかに照らしていた。00:47。
「トムはうつ病なんですか?」とエズミーが静かに言った。
再び沈黙が訪れる。今度はさっきより長く感じた。
「ああ、エズミー」とアンが言った。「私はてっきり...」
「初めて聞きました。彼はそんなこと一度も」
「一度も?」と母親が言った。驚きがこもっていた。目を見開く母親の顔が見えるようだ。
「10年経ったってどういうことですか?」とエズミーが問い詰めるように言った。
「私の口から言ってもいいものかどうか―」
「アン。私には知る権利があるわ」
「トムはしようとしたの...」彼女は話そうとした。しかし、その言葉は簡単には出てこなかった。以前、母親がその病気を理解し治療法を探すために、彼に理由を聞いたことがあった。その時も、母親が直接的な言葉を避けていたのをトムは思い出す。
「彼は自分を...傷つけようとしたの」
「自傷行為? リストカットとか?」
「いいえ」
「自殺?」
「エズミー、言い方を考えてちょうだい」と彼女はおろおろしたように、声を震わせた。
「いつのことですか?」
「彼があなたに会う前よ。あの春は2回目だった。それで―」
「2回目? いつ...」
聞き耳を立てていたトムは、エズミーの頭の中でピンッと、ひらめく音が聞こえた気がした。彼女の中で瞬く間にすべてがつながったのだ。それは太陽を覆う雨雲のように、エズミーの視界を暗く覆ってしまうものだった。二人でオックスフォードに行った時、学生寮で彼は挙動(きょどう)がおかしかった。彼女の30歳の誕生日パーティーの時、パブの外で会ったジョン。彼がずっとお酒を避けて生活していたこと。すべてのピースがカチッとはまって、新たなトムの人物像を浮き彫りにした。
「大学で」と彼女は言った。「それは大学で起こったことなんですね」
「ごめんなさい、エズミー」と、母親は今では大粒の涙を流しながら言っていた。「私は本当に、彼があなたにもう話したと思っていたから。あなたにちゃんと話すって、彼は約束してくれたのに」
それが母親の最後の言葉だった。その後は、二人が抱き合っているような、洋服同士がこすれ合う音がして、鼻をすする音が聞こえた。誰かが階段をのぼってくる足音が後に続き、「どうしたんだ?」という父親の声がかすかに聞こえてきた。それから、ドアの取っ手を回す音がして、カチャッと開いたドアからエズミーが中に入ってきた。
「トム」と彼女が言った。彼は頭を枕に押しつけるようにして、眠り込んでしまいたい、と願った。嫌なことだけすっぽりと忘れてしまいたい。
「ごめん」と彼は諦めて言った。
彼女は彼の寝ているベッドの上に腰を下ろした。そのまま彼女が何らかの愛情表現をしてくれることを必死で望んだ。肩に手を置いてほしい。頭にキスしてほしい。しかし、何も来なかった。
「ほんとにごめん、エズ」
「トム」とエズミーは言った。目覚まし時計の赤い表示が大きく変わり、1年の最初の1時間が終わったことを告げた。「何も隠さず、すべてを話して」
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〔チャプター 13の感想〕
最近(というか前から)、トムやダッシュが経験したことなのか(つまり、異次元の記憶なのか)、藍が現実(らしき)世界で経験した記憶なのか、あいまい...笑
トムの感情とぴったりシンクロして訳せるのは、やっぱり藍しかいない!←ダッシュの時もそんなこと書いてなかった?笑笑
うつ病ってバレたから、これはもう別れることになっちゃうかな?←10年間は別れないんでしょ?笑←それが理由ってことにしたくないから、別れる時期をずらすのかも、なんてね!笑(それにしても、小説の良いところは、顔がはっきりとは見えないことだよね。いくら藍が想像力豊かでも、鮮明には見えない。よって、「顔でしょ?」って結論にはならない。現実はその一言で説明ついちゃうから...泣)←お前もうつ病だろ!爆笑
あるいは、エズミーによるカウンセリングが終わった時、彼女は去っていくのかな?
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チャプター 14
午前1時~2時
一人で物思いにふける
2015年2月 ― スタンステッド空港、ロンドン
場内アナウンスが、さらなる遅延を告げた。彼女が乗っている飛行機の到着予定時刻がまた変わり、今度は午前1時10分に到着予定だという。彼は硬い金属製の椅子に腰掛け、スマホを取り出した。彼の周りには3、4人の人がいて、みんな同じように表情を曇らせている。深夜にもかかわらず、愛する人を迎えに来た心優しき待ち人たち。この分だとろくに睡眠時間も取れないまま、明日仕事に行かなければならないと、内心嘆いているのだろう。彼らは一様に、悪い知らせを表示する電光掲示板を見上げている。
RY074 グラスゴー発 到着予定 00:46 遅延 01:10
トムは部屋で待っているのではなく、空港まで迎えに来るべきだったかどうか考えた。エズミーはそこまで期待していないだろう。でも今夜は(というか、もう日付が変わったから今朝は)、どうしてもサプライズで、彼女に僕の回復っぷりを見せたかったのだ。大晦日の夜あんなことがあってから、その後の1ヶ月を経て、ようやくこれほどまでに元気を取り戻したことを示したくて、空港まで足を運んだ。元日の午後には実家からロンドンの部屋に戻ったのだが、母親がエズミーに打ち明けてしまったことにショックを受け、怒りが湧き上がり、打ちひしがれ、という状態を繰り返しながら、ずっと部屋に閉じこもっていた。―今回の不安やうつ状態は、6週間余りも外に出られないほど、重く長引いた。
それは彼にとって初めてのことで、症状に名前をつけることもままならない状態だった。漠然とした恐怖感に包まれて、街を歩くことさえできないほど気分が落ち込んだのは初めての経験だった。しかも、それほど深刻な精神状態にもかかわらず、アルコールなしで対処しなければならなかったから、より一層きつかった。アルコールを飲みさえすれば、少なくとも数時間は、人に会いたくないとか、そんな対人関係の不安など消し去ってくれるのに。1月1日の午後、二人の共同住宅の敷居をまたいだ瞬間に、もう外には出られないかもしれない、と感じたほど、彼は底に落ちていた。
外出することを考えなかったわけではない。寒さが厳しくなるにつれ、コートやマフラー、毛糸の帽子で寒さをしのぐ通行人を、キッチンの窓辺から一人で眺めていた。1月の終わりに雪が降った時には、雪でぬかるんだ歩道を神経質そうに歩く通勤の人たちや、毎年恒例のスキー休暇のために、1年間しまってあったスノーブーツを引っ張り出し、それを履いて雪道を闊歩(かっぽ)する、北ロンドンには少ない裕福な人たちを見ていた。彼自身はそのような経験を一度もしなかった。せっかくのシーズン到来をぼんやりと無為(むい)に過ごすのは、もったいないことだった。
外に出るとどうなるか、彼は何度も何度も繰り返し考えていた。
一歩。
二歩。
進むと、部屋の壁にたどり着いた。
窓の外、小さな庭の向こうに、どこかへ連れていってくれる道が見える。
彼は窓辺に立ち、北ロンドンに特徴的な音について考えていた。バス、ゆっくりと走る車の走行音、レーシングバイクのエンジン音がとどろき、派手な色合いのレーシング服に全身を包んだ40歳くらいのがっしりした男が、それにまたがって走り去っていった。近くの店から店主の怒鳴り散らす声が聞こえてきて、配達人が、周りの音がうるさいのか、携帯電話を耳に当てながら大声で話している声などが、ひっきりなしに耳に届く。頭の中で、彼はハウンズロー駅から〈アイラ・ガーデン〉の前を歩いて行く。〈ウエスト・エンド・レーン〉に近づくにつれ、街のざわめきはどんどんうるさくなってきた。それから匂いについても考えた。春や夏には生き生きと草花が息づいていた42番町の〈アイラ・ガーデン〉だったが、今では落ち葉や枯れ草が、苔(こけ)を生やしたような臭いを発している。かすかに揚げ物の匂いが漂ってきた。そういえば、あそこの角を曲がるとケバブ屋があったな、と思い出した。あの店の前を通るのは避けた方がいいだろうと、角を曲がらずにまっすぐ進んで行く。冬の終わりの空気が、頬や、手袋の先に突き出た指先にひんやりと伝わってきて、自分が寒さを嫌っていたことを思い出す。何週間もスリッパしか履いていなかったので、靴の革が硬くなったように感じる。ずっとカーペットや絨毯の上をふんわりと歩いていたので、舗装された道路の固さがやけに鮮明だ。
結局、実際に部屋を出て外の道を歩き出すことはなかったが、実際歩いていた時よりも、細々(こまごま)としたことに気づけたかもしれない。それにしても不安感は消えない。
トムは待合室の座席に座ったまま体を横に動かし、隣の太った、頭の禿げた男をちらっと見た。
「いつもながら嫌になるよな?」と、その男が言った。彼は到着する相手の名前が書かれているのだろう画用紙を膝の上に伏せて置いている。トムは、自分もプラカードを作ってくるべきだったかなと思った。今どきはそれが普通なのだろうか? それとも、彼はタクシー運転手か、雇われ運転手で、相手の顔をよく知らないだけなのだろうか?
トムは彼に微笑み返した。
その日の昼間、彼は自分の小さな仕事部屋で、座りすぎて背もたれがくたびれてきた肘掛け椅子に座っていた。特にこの1ヶ月はその椅子に座りっぱなしだった。前みたいに、自分の作った音楽をイヤホンで聴きながら北ロンドンの街を歩くことはなくなった。代わりに、彼は肘掛け椅子にふんぞり返って、向かい側の壁に貼られたブルース・スプリングスティーンのポスターをぼんやりと見つめながら、自分の作った音楽をスピーカーで聴いていた。このリスニングタイムは、ローストフトでの大晦日のパーティーからエズミーと一緒に戻ってきて以来、部屋に閉じこもるようになった彼の、新しい日常ともいうべき習慣の一つだった。
飼い猫のマグナスが、トムの前の床の上に座り、時折彼の顔を見上げては、いったいこの男は何をしているのだ? と問いかけてくるかのようだった。環境に配慮したドッグフードのCMのために作曲したウクレレ調の曲が部屋中に鳴り響く中、猫が小首をかしげている。
しかしトムは、その曲に意識を集中できずにいた。「良い犬には良いものを」とか、「バオバブと高麗人参から作られた史上初の地球にも優しいドッグフード」と歌う、いらいらするほど陽気な声がスピーカーから垂れ流されている中で、彼はさっきまで会っていたクリスティーンとのセラピーの時間を思い出していた。彼女は彼のセラピストだった。
彼女は週に一度、トムとエズミーの家に来て、彼と対話することで心理療法を施(ほどこ)していた。訪問心療のため追加料金はかかったが、薬物療法を断固拒否した彼に、エズミーがセラピーを受けるように勧めたのだ。
彼とクリスティーンは、不安が引き起こす広場恐怖症について、時間の許す限り話し合ったが、外に出ることを考えただけで自分が無防備になる気がして、外に出ればすぐに傷つけられる気がして、足がすくむ、といった症状が和(やわ)らぐことはなかった。その名付けられない恐怖について、彼女にどう説明すればよかったのだろう? 痛みを伴う心の病? 内面の痛みはリアルなのだが、その発信源はどこにも見当たらないような恐怖に関して、彼は15年ほど前から自分自身に説明しようとしてきたのだが、自分に説明することさえ、うまくいかなかったのだ。
「そのことについて考えるたびに気分が悪くなるんです。そして、その気持ち悪さからパニックになってしまうんです」と言うのが、彼の精一杯の説明だった。「そうこうしているうちに、どんどん悪い状態になっていく感じです」
クリスティーンはうなずきながら、ノートにペンを走らせていた。
「その悪い状態っていうのをもっと詳しく説明して」と彼女は言った。
二人のセッションは、彼が憂鬱や不安にまみれた人生を不完全に語り、彼女がそれを聞くというものに過ぎなかった。あやうく大惨事になりかけた過去の出来事を要約的に語り、様々な人に支えられつつ築き上げてきたものを、また発作的に壊す、という繰り返しの人生を聞かせ続けるだけの、毎回似たり寄ったりの時間に成り果てていた。近頃ではエズミーも、気分がイライラしている時などは、クリスティーンが彼に「良い影響」を与えているのか疑問を口にしていた。
「今さらセラピストを変えることはできないよ、エズ」とトムは言った。「彼女とはだいぶ話し込んじゃったからね」
それは半分真実だった。彼とクリスティーンは二人きりでだいぶ話し込んでいた。ただ、それが必ずしも正しい方向へ進んでいたわけではなかった。問題の根源について話し合うべきなのに、近頃はもっぱら、エズミーのことばかりを話していたのだ。エズミーに隠したり嘘をついてきたことがばれて、今まで一緒に積み重ねてきたものをこれからも維持できるかどうか不安だと悩みを打ち明けていた。
エズミーの優しさ、彼を支えようとする性格、許し、無私の心。彼女の良い面について話すことに、多くの時間が費やされた。かつてアナベルに言われた二人の違いを、クリスティーンにもそのまま話すことになった。彼女のナースのような気遣いと、自分はアーティストだという彼の陳腐な自己陶酔には、やはり大きな隔(へだ)たりがあるのだ。(企業のPR動画のBGMばかりを作曲している自分がアーティストだなんて、ほとほと自分にあきれてしまう。)
彼は、自分がいかに彼女とはつり合わない男であるかを延々と語った。彼女の理解や共感を得るにはふさわしくない人物なのだ、と。その一方で僕は、彼女の理解や共感を今後もずっと失いたくないと祈っているような奴なのだ。本当はたまらなくお酒を飲みたい、だけど、破壊的に自分を支えてくれるアルコールに頼らなくてもいられるのは、彼女の存在が、心の支えになってくれているからなんだ。
その日の午後、クリスティーンは堂々巡りのような彼の話に耳を傾け、熱心にうなずきながら、日が暮れかけるまでペンを動かし続けていた。彼女はトムに、あなたは運がいいのよ、と言った。あなたの心を修復するのに必要なものが、あなたの周りには全部揃ってるんだから。
「でも、修復は自分でやるのよ、トム。彼女はあなたの支えにはなってくれる。だけど、彼女があなたの心の問題を全部解決してくれるわけじゃないんだからね」
「わかってます」と彼は言った。「たぶん僕は、今手にしているものを手放したくなくて、それにしがみついているからこそ、このぐるぐると同じところを回っているような感覚を断ち切りたくなるんだと思います」
「代償は必要よ。断ち切りたいなら、手放さなくちゃね」とクリスティンが言った。彼女が話をまとめようとしているのが伝わってきた。そろそろセラピーを終わりにしたいと思っているようだ。たぶん彼女の心は半分、帰りの電車の時間を気にしているのだろう。「トム、あなたのためになることなら何でもする、なんて人が、必ずしもあなたの答えになるとは限らないわ」
トムは古びた椅子に座りながら、頭の中では彼女の言葉がぐるぐると渦を巻いていた。
断ち切りたいなら、手放さなくちゃね。
あなたのためになることなら何でもする、なんて人が。
エズミーは彼のためになることをしてくれる唯一の存在だった。出会った日から今日まで、彼女一色だった。起こってしまったあらゆることの後で、彼女に「もううんざり」と愛想をつかされたとしても、彼女を責めはしないだろう。彼が押しても押しても、彼女はそれをするりと受け流すように、身を引くことなく目の前にとどまってくれた。元日、彼女に運転してもらってサフォークから帰ってきたドライブが、もしかしたら我慢の限界だったのかもしれない。彼のそんな心配とは裏腹に、彼女は彼がなぜ、自殺未遂のことを教えてくれなかったのか、私はそんなに信頼できない存在なのかしら、と自問し、もし私が共感する能力に欠けていて、心を開けるような相手ではないと思っているのなら、そう言ってほしいと彼に懇願した。もちろん、それは全くの見当外れだった。トムの頭の中では、彼が問題であり、彼女が常に解決策だったのだ。
エズミーは知らなかったが、トムはこの数週間、1日に10回も15回も閉まった玄関の前に立っていた。ソファや仕事部屋を離れ、玄関まで行き、また戻ってくるのだ。散らかった廊下から、エズミーがヘッドホンや靴を探している騒がしい音がすると、彼女の後を追おうと思い立ち、彼女が玄関の壊れたドアハンドルをガチャガチャと回して家を出ようとする音を聞くたびに、彼女を呼び止めて、「僕も一緒に行くから待って」と言いたかった。
しかし、そのたびに彼は声を発することなく、家の中に留まった。外に出たいという衝動は、いつもそれ以上に大きな力に阻(はば)まれ、慣れ親しんだ部屋に戻った方がはるかに居心地がいいと、くるりと踵(きびす)を返すのだった。
彼女を追いかけ、一緒に出かけていれば、確実にもっと早くエズミーと和解できていただろう。最近では別々のベッドで過ごす夜もあった。二人の間に距離感を生じさせたのはトムだが、それを現実の距離にすべく、ベッドを出て行くのはエズミーだった。時々彼は、彼女がすべてを受け入れてくれる日が来ることを願った。少なくとも、昨年の大晦日前までのように、二人の関係が再びほどよい均衡を取り戻すくらいには、彼を許してくれはしないかと期待した。そんな折にも、どこからともなく耳に届く、テレビ番組のさりげない台詞や、ラジオから流れてくる歌が、彼女に大事なことを思い出させるかのようだった。つまり、トム・マーレイと付き合っていても、将来に保証はない、と。
彼は彼女の欲求不満や憤りを感じ取っていた。彼女に何かを与えなければならないと思っていた。
クリスティーンが去ってから4時間後、トムは耳ざわりでさえあるウクレレ調の曲を聴きながら、もし物事が修復へ向かうとすれば、自分の中のしつこくものを言ってくる部分は無視しなければならないと思った。不安を払拭できないことはわかっていた。うつ病も治りはしないだろう。しかし、それと同じくらい、自分が幸せになる最良の方法は、エズミーへの愛と束になっていることも知っていた。彼女には思いやりや優しさがある一方で、彼女にも限度というものはあり、それを超えてしまったら、彼の人生の困難まで引き受けることが、彼女の人生にとっての厄介事だと思い始めるだろう。
無視することなんてできやしない、と思いながらも、彼はそれらを抑圧すべく、心の奥底に押し込めて、眠ったまま、黙ったまま起きないでくれ、と必死に願っていた。そうすれば、子供時代の寝室の外で母親が彼女に話してしまったことに対し、自分の中で濃く線を引くように、目をつぶることができるかもしれない。
トムは椅子から体を起こし、マグナスを見下ろして言った。「迎えに行くべき、だよな?」
トムは窓の外に目をやった。煌々(こうこう)とライトで照らされた滑走路に、一機の飛行機が斜め上方から近づいている。飛行機の電灯が夜の闇を切り裂くように、光の道を描いていた。これにエズミーが乗っているに違いない、と彼は思った。今夜その後に到着予定の飛行機は、あと2機だけだった。
彼女が同じ地に着陸したかと思うと、心臓が少しだけ高鳴った。彼の背後で、一つだけ開いていたラウンジ・ショップが、ガラガラと勢い良くシャッターを下ろす音が響き渡り、ビクッと彼の体が跳ねた。横の太った男が、ペットボトルのコーラをごくごくと飲み干して、席を立った。
久しぶりの外出について、エズミーに何と言おう。共同住宅の前のまだらに枯れた芝生に、薄く氷が張っていて、足の裏でパリパリ鳴ったことを言おうか。あるいは、毎日窓から見つめていた道を、実際に歩き出してみたらすぐに、自分はそれをやってのけたんだ! という充実感がこみ上げてきたことを言おうか。この1ヶ月半の間、唯一の安全地帯だと思っていた世界から自分は飛び出したのだ、という歓喜を一刻も早く彼女に伝えたかった。
その時、背後から聞き覚えのある声がして、トムは振り返った。
エズミー。
彼女が、あの太った男に話しかけていた。彼女は、地方の会議に出席する時にはいつも持っていく小さなスーツケースを手に持ち、彼が掲げるプラカードを見上げながら彼に近寄っていく。さっきまでは伏せられていて見えなかったカードには、「ESME SIMON」という名前が書かれていて、その下にはミニキャブ会社〈North West Cars〉のロゴがあった。そういえば、うちの冷蔵庫には、その会社の名刺が常に貼り付けてあった。
「エズ」不意を突かれ、思わず声が出た。しかし、その声は彼女の耳に届いていないようで、二人は出口に向かって歩いていく。「エズミー!」彼はもう一度彼女を大声で呼んだ。
彼女が立ち止まり、こちらを振り返った。
「トム?」と彼女は大きく目を見開き、心底驚いた表情で彼に駆け寄った。「いったいどうしたのよ、トム!」
二人は何ヶ月も会えなかった恋人のように、お互いを強く抱き締め合った。二人の間の距離が急激に縮まったような、それは単なる彼の気のせいかもしれないが、最近の暗闇に希望の光が差したような、確かな変化を彼は体で感じ取っていた。
「待ってたよ」とトムは言った。「君の飛行機が着陸するのを今見たと思ったんだけど」
「たぶんその前に到着した飛行機ね。前って言っても、予定時間よりは後だったけど」
「会えて嬉しいよ、エズ」トムはそう言いながら、彼女の頬にキスをした。飛行機からターミナルまで外を歩いてきた彼女の頬は、まだひんやりと冷たかった。
「あやうく心臓発作を起こしそうになったわ」
「ごめん。ただ、その―」
「あなた外に出てるじゃない!」
「そうなんだよ!」
「あなたが外にいるわ」と彼女は言って、再び彼の体に腕を回した。
「僕は外にいる」
「どんな気分?」
「いい気分だよ。うん、今のところ、すこぶるいい気分だ。思い立ったのは今日で、そんなに考える時間はなかったんだけど、何となく椅子から立ち上がって、家を出てみたんだ」
「すごいじゃない、トム」と、彼女はほとんど泣き出しそうな声で言った。「トム、あなたを誇りに思うわ」
彼は何も言い返さなかった。こみ上げてくる感情で溢れ、何も言葉が出てこなかった。あまりにも大きなことを、同時にあまりにも平凡なことを、成し遂げたんだという達成感で満ち溢れていた。
「それで、気分は大丈夫なの?」
「今のところ、なんともないよ」
「落ち着かないとか、不安とか、そういうことはないの? 私が運転するから」と、彼女は早口で言った。「帰ったらゆっくりしましょ」
「大丈夫だよ、エズ」と彼は彼女の発言を遮るように言った。しかし実際には、空港に着いてからずっと、彼の中には落ち着かない要素がくすぶってはいた。幸いにも、空港は混雑していなかった。そして今では、室内にいることの快適さよりも、自分が正しいことをしているという確信の方が、彼にとって重要なことだった。エズミーのために、二人のために、正しいことをしているんだ。
もしそれで自分が精神的に追い込まれることになったとしても、むしろ喜んで追い込まれたいと思った。
「ならいいけど」と彼女は言って、手袋をはめた手で彼の手を取った。「でも、ちゃんと私に言わないとダメよ、トム。もし気分が悪くなったら、すぐに言ってね。いい?」
トムはうなずいたが、それだけではエズミーは満足しなかった。
「ちゃんと約束して、トム。大きな飛躍は必要ないのよ。赤ちゃんみたいに少しずつ、着実に。わかった?」
「約束する」
「オッケー」
「あのー」と、不機嫌な声が二人の間に割って入ってきた。「それじゃあ、あなたを家まで送り届けるのは、ここにいる彼ってことですかね?」
「ああ、そうだったわ」と言って、エズミーがミニキャブの運転手の方を向いた。「本当にすみませんでした。彼のサプライズだったの」
「まったく、はた迷惑なこった」と彼は言って、あきれたように首を振った。「もうすぐ夜中の2時ですよ」
「本当にすみません」
「料金は払ってもらいますよ」と彼が言った。「わかってますよね?」
「それはもちろん」とエズミーは言って、バッグを開けて財布を取り出した。「90ポンド(13,500円)でしたね?」
運転手はうなずき、お金を受け取ると、「ESME SIMON」と書かれた紙を丸めてゴミ箱に捨て、すたすたと出口の方へ歩き去っていった。
「その分は僕が払うよ」とトムが言った。
「そうね、そうしてちょうだい」とエズミーは返し、トムの手を引くようにして、自動ドアの向こうで待ち構えていた冷たい夜気の中へと導いた。
彼女のやや後ろを歩きながら、トムは自分の周りにあるものに意識を集中することで、必死で自分を抑制しようとしていた。五感をフル活用して、聞こえるもの、見えるもの、匂うものを意識的に言語化するのだ。それはクリスティーンに勧められた対処法で、久しぶりに外出する際、周りの世界は安全なんだという意識を自分の中に根付かせるためのものだった。
今回の場合、意識を向けた対象は、ターミナルの外にあったシャッターの降りたファストフード店であり、ジェット機の燃料とバスの排気ガスが混ざったような夜の空気の匂い。それから、凹凸のある灰色の舗道(ほどう)と、それが足の裏に触れる感触だった。これらはすべて確かなものであり、予測不可能な事象ではないし、何も不安を感じる要素はない。周りの世界の信頼できる部分だった。
数歩進んだところで、トムは立ち止まった。
「大丈夫?」と彼女が聞いた。
答えはノーだったが、トムはそれを飲み込んだ。
「大丈夫だと思う。ただ、ちょっとだけ待って」
「必要なだけ時間をかけていいのよ」と彼女は言った。彼は彼女が無条件で、何でもしていいと言ってくれているのかどうか、考えていた。空港に来る途中、彼はかっかと顔が熱くなるくらい、いきり立っていたので、内面の不安は部分的に隠されていた。だが今、エズミーと一緒にいることで、だんだんと落ち着いてきた分、隠されていた部分があらわになりつつあったのだ。
「戻りたかったら、建物の中に戻ってもいいのよ」とエズミーが言った。「何時に帰っても問題ないから」と彼女は言いつつ、時計を確認した。もうすぐ2時になろうとしているのが見えた。エズミーは何時まででも付き合うと言うだろうが、内心ではほとんど寝ずに明日仕事に行くことになるのではないか、と心配し出すだろう。
トムはその場で深呼吸をした。これまでの経験から、気持ちが完全に落ち着くことはないだろうとわかっていた。適切な解決策もないまま、時が過ぎるのを待つしかないのだ。朝起きて胸の高鳴りを感じない保証はないし、手のひらがじっとりと汗ばんでいるくらいならまだいいが、説明のできない、あの恐怖感が朝方やって来ないとも限らない。
しかし、それは自分で乗り越えなければならないんだ、と彼はつないでいた手を離し、手のひらに力を込めた。
「僕は大丈夫」と、彼は自分自身に言い聞かせながら、彼女に向かって微笑んだ。
「本当に大丈夫?」
「きっとね」と彼は言い、意を決して前に一歩を踏み出した。生命力がみなぎっていた頃の自分を取り戻さなくてはならない。一つ一つ、失くしたピースを取り戻していくんだ。
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〔チャプター 14の感想〕
誰かを待ってる時って、色々考えるよね。もちろん、その人が来なかったらどうしよう? とかも考えるけど、全然関係ない昨日のこととか...そういえば昨日、司祭が教会で儀式に使うパンの固さが変わったってぼやいていたな~とか...←はあ?爆笑
実際に歩くのと、歩いているのを想像するのは、歩いた経験があれば、たやすい。←なんか名言っぽくかっこつけて(こめかみに指を当てて)言ってるけど、でしょうね~(だから何?)笑
藍の場合は、訳すことが自己セラピーへのささやかな試み?←そういえば、村上春樹ライブラリーが完成したってニュースでやってたよ。ナボコフの『ロリータ』とか、村上春樹の愛読書も飾られてるってさ。村上春樹が所有していた実物の本らしいよ!(笑)
女医とのセラピーってエロいよね!笑←夢診断で有名なユングも、セラピー相手と恋仲になっちゃったらしいよ!笑
藍も(女医に限るけど、笑)セラピーを受けてみたいと思っている。ただ、お金がないから無理。お金を払ってまで、おっさんにセラピーを受ける意味がわからない。(むしろ、藍が精神分析してやるよって気になっちゃう...爆笑)
外に出るということは、言葉を交わさなくても人間(動物)同士の相互作用が発生するわけで、闘争本能も活発になるし、角も立つし、腹も立つ。キッとむきになった時、自分の感情に抗うのはなかなか難しい。むしゃくしゃしたら、帰って絵を描きませう!←今度は夏目漱石のパクリ?笑
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チャプター 15
午前9時~10時
死にゆく男の願い
2015年11月 ― ナイトン、レスター
エズミーは、二人で使っている旅行かばんを車のトランクに入れると、一旦玄関に戻った。玄関では、彼女の母親が二人を見送りに出ていた。彼女が昔から着ている赤っぽい茶色のカーディガンを、前ボタンは開けたまま羽織り、灰色のスリッパを履いて、敷居の上に立っている。外ではまだ小雨がぱらついていた。普段は完璧に手入れされているサイモン家の前庭がやや乱れており、昨夜の嵐の激しさを物語っている。
「ロンドンまで何時間くらいかかるのかしら?」とレナが言った。
「2、3時間ですかね」とトムが答えた。彼は運転席のドア付近に立ち、携帯電話のホルダーをフロントガラスに取り付けようと、車内に手を伸ばしている。
「長くいられなくてごめんなさい」とエズミーが言った。「でも、また来るから」
「いいのよ、エズミーちゃん」
「もっと近くに住んだ方がいいかなって時々思うけど」
「そんなこと思わなくていいのよ。あなたにはあなたの人生があるんだから。私たちはここで平気」
「来週また来るから」
「私は元気よ」
「わかってるわ、ママは大丈夫。ただ―」と、エズミーは言ったが、続く言葉は道ばたの落ち葉のように枯れてしまった。
「言わなくてもわかってる」と、レナが彼女を抱きしめた。「お父さんにさよならを言って来なさい」
エズミーが家の中に入っていく。その背中を見てからトムは、これからロンドンへ向けて〈M1高速〉を突っ走る車の点検を開始した。数ヶ月前にタマスが前立腺がんと診断されてから、この車はすでに6回の長距離走行に耐えてきた。これからも持ちこたえてくれよ、という気持ちでボディーをさすった。
彼がそう診断されたのは、今回で2度目だった。数年前の定期検診で異常が見つかり、1度手術を受けた。その後は化学療法を施しつつ、彼は新たな人生を手に入れ、再び生への情熱が燃え盛るかに思えたのだが、がんの方が再発してしまったのだ。
タマスは運が悪かった。がんは腎臓と肺に転移し、徐々に全身が病(やまい)に屈していった。当初、余命は4ヶ月、運が良ければ8ヶ月と言われていた。
しかし、彼の容体は急速に悪化していった。まるで終わりが近づいているのを知ってしまったことで、体が闘うことをあきらめたかのように、急速に衰えていった。今では、クリスマスまで生き延びることが目標だった。2月まで持ちこたえられたら奇跡といった具合だ。周りの人たちも、そしてタマス自身も、今日が最後の日になるかもしれない、と朝が来るたびに痛感していた。
毎回、エズミーとトムは、彼女の母親をサポートするという名目でやって来た。食事を作ったり、買い物をしたり、家の中を片付けたりして、レナの負担を軽くするのが表面上の目的ではあったが、レナは今まで通り一人でも十分うまくやれていた。本当の目的は、エズミー自身認めたくはないだろうが、父親との長いお別れを交(か)わすために来ているようなものだと、トムはわかっていた。
「エズミーはどんな感じ?」とレナがトムに聞いた。
「元気ですよ」と彼はほとんど無意識に答えていた。「いや、元気ではないけど、なんていうか、彼女は大丈夫です」
「あの二人、ちゃんと言葉を交わしてるかしら? 彼女は彼のことで、いろんな思いを抱え込んでるのよね。彼女は彼を決して許さなかった。私だってそうだけど」
「きっと彼女は許しますよ」と、トムは期待を込めて言った。だが、その考えが現実的なものではなく、単なる希望的観測に過ぎないことを、彼もレナも知っていた。エズミーは、20年前の父親失踪事件の傷跡をいまだに引きずっているのだ。大学を卒業したばかりの女学生と父親が、半年間こっそり浮気を続けた上、2年間の逃避行を決行したという事実が、妻と娘に絶え間なく暗い影を落としてきた。永遠に若い女学生の姿をしたノエルの亡霊となってつきまとってくるのだ。
「僕もさよならを言ってきます」とトムは言った。
彼が階段を上までのぼり切った時、エズミーが片手でマグカップを2つ持ってタマスの寝室から出てきた。彼女は羊の毛を素材にした紺色のフリースを着ていたのだが、その袖口(そでぐち)を目に当てて、こすっていた。彼女が手を下ろすと、マスカラが目尻に滲(にじ)んでいた。
「大丈夫?」
「うん」と彼女は言いながら、彼の横を素通りして、階下の母親のところへ戻っていった。代わりにトムが寝室に入る番だ。
寝室は窓も締め切っていて風通しが悪く、暖かすぎるくらいだったが、週を追うごとに寒さを身に染みて感じるようになってきた患者の体には、これくらいがちょうど良いのかもしれない。ベッドの向かい側にある木製の化粧台の上には、紫のスウィート・ウィリアムズが花瓶に挿してあり、薄いマグノリア色とベージュに囲まれた地味な部屋に彩りを添えていた。
タマスは半身を起こして、4つの枕に寄りかかるようにベッドの上で座っていた。その横には朝食用のトレイが置かれている。かなり古いトレイで、タマスとレナが若かった頃、毎週日曜日には、二人してベッドの上でそのトレイを挟んで朝食を取っていた、まさにそのトレイだった。紅茶と、マーマレードを塗ったトースト、それから新聞の日曜版も置かれている。ベッドサイドのテーブルには、エズミーとトムが病床の彼のために買ってきた雑誌〈エコノミスト〉のバックナンバーが積み重なっていた(が、トムの予想通り、一度も読んでいないようだ)。その隣には、薬の瓶がいくつも並べられていた。
「今から帰るので、挨拶に来ました」とトムは言って、彼の注意を引こうとした。彼は部屋の隅にある小さなテレビで、昨夜の『マッチ・オブ・ザ・デイ』の録画を見ている。画面では昨夜のサッカーの試合が続行中で、それを見てトムは、タマスがまた、1993年にダブリンでフェレンツ・プスカシュとばったり遭遇した話をしだすのではないか、と不安になった。プスカシュは往年の名プレーヤーで、アイルランドがプスカシュ率いるハンガリーと対戦した1950年代のワールドカップにまで話を広げられると厄介だな、と思った。
「ドアを閉めろ」とタマスがサッカーを見たままつぶやいた。
「え?」
「ドアだよ」と彼はトムを一瞥して、促した。「それから、このヘボ試合を消しちまってくれ」
トムは言われた通りにした。
「何か必要なものはありますか?」
「5分欲しい」と彼は、ゴホゴホと咳払いをしつつ言った。
トムは、タマスの真剣な「おしゃべり」に付き合うことと、そこまで親しくなりたいとは思っていない男に寄り添うようにして、しばし病を忘れさせることの、どちらがまだましか、と考えながら身構えた。
「君が帰る前に、エズミーのことで話したいことがあるんだ」彼はそう言うと、弱々しく枕から頭を引き離し、体をこちらへ向けた。「よければ、ここに座ってくれ」
トムは立ったままでいることにした。タマスのベッドの15センチほどの隙間にちょこんと座って、彼の話を聞くこと以上に気まずいことなどないからだ。
「彼女の話って何ですか?」
「君が彼女を幸せにするんだよ、トム」と彼は言って、コホッと軽く咳をした。「私にはわかってる。君の日常は変わった。彼女はああいう性格だから、いつもいつも簡単ってわけじゃないだろう。でも、彼女は君の世話をするのが好きなんだよ。そして、君も彼女を大切にしたいと言った」
「それは...そうですね」とトムは言ったが、何と続けていいのかわからないまま、『君の日常は変わった』とか断定的に要約されたことに少しイラッとした。
「私はダメな父親だ。彼女を幸せにしてやれなかった。わかるだろ、間違いを犯さずに長い人生を送るのは難しい。時には、取り返しのつかない間違いも犯してしまう」彼はまた咳をしたが、今回の咳は先ほどみたいに喉にたんが詰まったわけではなく、話したくない話を切り出すか、やっぱりやめておくか逡巡しているようにトムは感じた。「とにかく、私にはもう時間がない。彼女とレナと一緒に過ごす時間はもうあとわずかだ。しかし、君の人生はそうじゃない。どう生きるか、選択の余地がある。君次第でなんとでもなるってことだ」
タマスはグラスに手を伸ばし、水を少し口に含んだ。
「私は30年間、娘の人生を少しでも良くしようと努力してきたつもりだ。そうそう思い通りにはいかなかったが、努力はした。そこに君がやってきて、私の出番はなくなった。私はエズミーのことを知っている。彼女は前より幸せになったよ。君との共同生活も充実しているようだ。前はよく言ってたんだ。どこどこの国に引っ越したいとか、新しい仕事を探すとか、そういう大それたことを言わなくなった」トムは目を丸くした。エズミーがイギリス以外の場所に住みたい、なんて聞いたことがなかったからだ。「一つだけ学んだことがあるとすれば」とタマスは続けた。「いつもいつも他の何かを探し求めていては、いつまで経っても幸せにはなれない」
「それはもちろん、そうですね」とトムは相槌を打ったが、まだ彼が何が言いたいのか掴めてはいなかった。
「彼女と結婚してほしいんだよ、トム」と彼は口調をやや速めて言った。「君もそれを願ってることはわかってる。だから、君が帰る前に言っておくが、私は祝福するつもりだ」
「ああ...そうですか。というか、彼女がそれを望んでいるかどうか、正直わかりません。エズはずっと結婚するつもりはないって言ってきたんです。僕たちが出会ってからずっと―」
「君は彼女を変えた。私にはそれがわかる。レナにもわかる。時々二人でそのことを話すんだ。エズミーは自分の信念をしっかり持っている。馬鹿みたいに盛大な結婚式は望んでいないかもしれん。ただ、彼女は君を望んでいるよ、トム。私たち親にはそれがわかる。その時、私はその場にはいないが、それが実現することを確信しながら死にたい」
トムは驚きを隠せなかった。まず第一に、エズミーがあれほど忌(い)み嫌うように反対していたことなのに、彼女の考えが変わったとでもいうのか。―仮に彼女と末永く共に暮らしていくことになったとしても、結婚はせずに同棲生活を続けていくのだろうと思っていた。そして第二に、それがタマスの願いだということに驚いた。まるで彼が誤ってそのことを遺言状に書き忘れたかのような、突然の告白だった。
「本当に...わかりません」トムは適切な言葉を探したが、見つからなかった。年老いた男に対し、感謝の言葉を述べるべきか、それとも、それは違うんじゃないか、と自分の意見を述べるべきか。
トムが再び口を開きかけた時、階段から声が聞こえてきた。エズミーとレナが再びこの部屋に向かって来ている。タマスが、もう行け、という素振りを見せたので、彼はそそくさと部屋を抜け出した。レナはトレイを抱えていて、その上にはトマトスープと、バターを塗ったこんがり焼けたロールパンが載っている。彼はその横をすり抜けるように階段を下り、外に出て、秋の朝の冷たい空気の中を歩きながら、今起こったことを振り返った。そして、そこに妥当性があるのかどうか自問するように、結婚について考えてみた。
あるいは、死にゆく男が自らの過ちを正そうとしただけの、世迷言(よまいごと)に過ぎないのか。
エズミーが泣き出したのは、ナイトンの町を抜けてすぐの頃だった。この2、3日、彼女は気丈(きじょう)に振る舞っていた。しかし、ロンドンへの帰路の車中で、彼女の強いイメージは脆(もろ)くも崩れ去ってしまった。彼女の中で何かが、がらりと一変したかのようだった。トムは、ひょっとしたら彼自身が苦しんできた症状以上にコントロールの利かない何かと、彼女は闘っているのではないか、と想像した。
トムは体を彼女の方へ寄せて、ギアレバーから手を離し、彼女の手を取った。そのまま20秒ほど彼女の手を握っていたが、前の車が減速し、ギアチェンジを余儀なくされたので、彼女の手を離し、再びギアを掴んだ。車内は、雨水に湿っているような臭いが充満していた。窓枠のシールがもう古くなっていて、雨が降るたびに雨水がその隙間から入り込み、それが座席の素材に染み込み続けた結果の臭いだった。
タマスのがんが再発したという知らせを受けて以来、彼は彼女がもらす不平や憤りを、もっともだと頷きながら聞いていた。1度手術をしたんだから、その時に、医者がもっとちゃんと治療していれば、今になって、手遅れの状況にはならなかったのではないか、というのだ。エズミーは、NHSで働く医療従事者をねぎらう言葉と、彼女らしくない辛辣(しんらつ)な非難の言葉を、交互に繰り返さざるを得ない、といった様子だった。
「くそむかつく医者たちのせいよ」と彼女は言った。「看護師たちは悪くないわ。みんなよくやってる。医者たちよ。彼らは一人一人の患者のことなんか気にも留めてない。みんな同じに見えてるんでしょうね。彼らにとっては実績を積み重ねていくことが全てなのよ。数字が全てなの」
トムは彼女が本気でそう言っているわけではないとわかっていた。エズミーは彼女自身がNHSのシステムの中で働いているから、彼女の父親を看病している人たちに、どれだけの負担や重荷がのしかかっているかを十分に理解しているのだ。それにしても、彼女の気分の浮き沈みに合わせて、並走するように付き合っていくことは、なかなか大変だった。気分の浮き沈みに関して、僕が文句を言える筋合いは全くないのだが。
「大丈夫?」と彼は言った。巨大なショッピングモールを通り過ぎ、高速道路の入口が見えてきた時だった。
「少し経てば大丈夫だと思う」
「もし話したいことがあれば」とトムは言って、反応をうかがうように、そのまま続きを保留した。
「さっき、パパと何を話してたの? 私たちが二階に上がっていったとき」
「ああ」トムはどこまで話していいのかわからずに、戸惑いぎみに言った。「大したことは話してないよ、ほんとに。彼がプスカシュに会ったときのことを話してたな」
「また?」
「そうなんだよ」と、トムはそれに苛立った風に顔をしかめて見せた。
高速道路に入るカーブ路でゆっくり走っているトラックを追い越し、二人を乗せた車は高速道路に乗った。雨はますます強くなり、それにつれて視界が狭くなっていった。トムはラジオをつけた。一般人の恋模様を撮った風のリアリティーショーで、一躍有名人になったスターが、自叙伝を出すとかでインタビューを受けていた。2、3分耳を傾けてみたが、その後も聞きどころがなさそうなので、ラジオを消した。
「それと、君のお父さんは僕たちのことも話してたな」
「私たちのこと?」窓の外に広がる灰色の空、裸の木、高速道路の路肩を見るともなく見ていたエズミーが、ふいにトムの方に向き直った。
「君と僕のことだよ。彼は僕に聞いてきたんだ。僕らが将来、どうするつもりかって」
「どうするって何を?」
「まあ、彼からのアドバイスのようなものだと僕は思ったけど」
「はぁ」と、エズミーが苦々しく、ため息混じりに言った。
「エズ。べつにいいじゃないか」
「よりにもよって、彼がアドバイスだなんて」と彼女は言った。「どの口が言ってるのよ。全然行動がともなってないじゃない」
「もう昔のことじゃないか、エズ」
「まだ続いてるのよ、トム」と彼女が言った。「彼が死にそうだからって、家族の歴史からあのことを抹消なんてできないわ」
これは、タマスが抱えているもう一つの病だった。彼がやったことは、消えてなくなったかに思えても、然(しか)る後に再び彼女たちの胸中に幾度となく去来し、そのたびに暗い影を落とすのだった。彼自身がそのことを暗黙の裡(うち)に葬(ほうむ)り去ろうとしたことが、いまだに消えない原因でもあった。彼女たちがどんなに無視しようとしても、彼の不倫はちらちらと視界の片隅にちらつき、彼が完璧ではないことはもとより、彼が根本において善良な人間ですらないことを知らしめていた。彼の葬儀で、彼が家庭的な男だったと誉めそやされたとしても、それは全くの噓っぱちだということになる。タマスは娘の記憶に永遠に消えることのない過ちを植え付け、娘がかつて感じていたはずの愛情を苦(にが)く、壊滅的にへこませてしまったのだ。
「提案があるんだけど、いいかな?」とトムは言った。〈ロンドンへ南〉と書かれた巨大な道路標識を通り過ぎた時だった。
「ネットで見つけた、悲しみの対処法とかじゃなければね。〈ママ・ネット〉とかでよく見る、アドバイスだか、追い込んでるんだかわからないような提案じゃないでしょうね?」
トムはその発言を無視して、「彼を許してやれよ」と言った。エズミーの鋭い視線が刺さったのを感じ、次の瞬間、彼女が泣き崩れるのか、それとも水の入ったペットボトルを顔に投げつけられるのかわからず、一瞬身構えた。「彼はいい人だったよ、エズ。彼がとんでもないへまをしでかしたのは知ってるけどさ―」
「2年間もへまをし続けたのよ」
「たしかに長くて、どうしようもないへまだな。だけど、彼は君のことを気にかけてたよ。すごくね。あの人にとって、君はすべてなんだ。それに彼は、僕たちにいろいろしてくれた。僕らが今住んでる部屋を買ったとき、彼は頭金を出してくれたじゃないか」とトムは言った。彼女の父親は、数年前にがんだと告知された後、年金と貯金、それに所有していた株も現金化して、エズミーに贈った。そのお金を頭金にすることで、彼らはウェスト・ハムステッドに、二人で住む最初の共同住宅を買えたのだ。
「もうすぐ自分は死ぬって思ったからでしょ」
「たとえそうだとしても、いつまでもそれにこだわっていても仕方ないだろ。もういいかって時期が来るものなんじゃないかな。誰だって良い人だし、なおかつ、誰だって悪いこともするよ。人生は良いか悪いか、どちらかに分けられるようなものじゃないし、一度でも失敗すれば永遠にろくでなし扱いとか、そういうんじゃないだろ。―たとえそれがどんなに大きな失敗であってもね。それに、君は彼と一緒にいるのが好きなんだろ、エズ。前からわかってたよ。彼と話したり、遊んだりするのが大好きだったんだろ。君が母親も父親も両方好きじゃなかったら、いったいなんだってこんなに何度も何度も、僕はレスターまで車を走らせているんだろう?」
「そうね」と彼女は、大して驚いた風でもなく淡々と言った。「その通りね、あなたは正しいわ。ただ、一つの出来事が完璧な結婚を不完全なものにしてしまった、というのも事実よ。今後もずっと、あのことが頭をよぎるでしょうね、ノエルのことが」
「完璧な結婚? そんなものどこにもないだろ、エズ」
「なんだか、私って堅物(かたぶつ)で、不寛容って感じに聞こえるわね。申し訳ないけど、これが私なの。それに、今年は最悪の1年だったわ。父のことと―」エズミーはそこで言葉を止めたけれど、無音の声が完璧な形で僕の耳に届いた。
あなたのことで。
車内は再び静寂に包まれた。それからトムは再びラジオをつけた。リアリティショーのスターが、自叙伝の中から、一番幸福だった時期を紹介していた。(1歳にも満たない生まれて間もない頃が一番幸せだったんですけどね、とかほざいている。)
「あなたの言う通りね」彼女はようやく声を発した。その声はさっきより寛容で、優しさをまとっていた。「あなたの言ってることは正しいけど、ただ、彼らはあのことが起きる前からずっと一緒にいたのよ。そのことを考えるたびに、ママがあの時、どんな気持ちだったんだろうって想像するの。そして、わからなくなる。どうして彼女はそれでも彼を愛し続け、彼との結婚生活を続けてこられたんだろうって」
「死が二人を分かつまでって、そりゃ長い年月だよな、エズミー」とトムは言いながら、その長い年月、自分の進みたい道を進んでいけるものかどうか、考えていた。「30年、40年。誰しも悪い時期はめぐって来る。そういう時は、許した方がいいよ。そこで手放してしまったら、―だから君のお母さんは許したんだよ。せっかく二人で積み上げてきた長い年月だから」
エズミーは何も言わなかった。
トムは彼女に、大好きな男の過ちくらい愛で受け入れてやれ、と言いたかった。彼の人生の一つ一つの出来事を、「これは良い」「これは悪い」ときっちり分類するのではなく、彼の人生を丸ごと包み込んでやれ、と促したかった。そうすれば、かつての彼女が多少なりとも戻ってくるかもしれない、と思った。
「どのくらいかかるかな?」と彼女が聞いてきたのは、〈ジャンクション20〉を過ぎて、雨がさらに強くなってきた時だった。
「何のこと?」
「そういうことを許せるようになるまでに、どれだけの時間を費やす必要があるのかな?」
「さあ、10年くらい?」
「15年はかかるわね」と彼女は言った。「もっとかかるかも。10年で起きる出来事なんて高(たか)が知れてるじゃない。私たちを見てごらんなさいよ。私たちは、もう7年?」
「8年! それはちゃんと数えてると思ってたよ」とトムは言って、チラッとエズミーの顔を見た。彼女はニヤニヤと、ゲームを仕掛けてくる時みたいに、いたずらっぽく頬を緩(ゆる)めていた。試されたのだ、と気づいた。彼は彼女に難問を吹っ掛けられ悩んでいる時のように、顔をしかめた。
「ごめんなさい。こういうことは重要よね。あなたが心配するのももっともね」
「べつにいいけどさ。いろいろあってそれどころじゃなかったんだろ。僕は君の立場に立てないから」
「今のあなたは、私のことも考えてくれてるみたいね。そうすると、私の父は、あなたの義理の父ってことになるのかな? ならない?」
「そうなるかな。そこまで考えたことなかったけど」と彼は言った。
「あなたは家族よ、トム。家族同然ってこと。足りないのは、あのぺらぺらの紙切れだけね」
トムはふふっと笑った素振りをして見せた。さっきのタマスの話は真を突いていたのだろうか? 彼女は結婚についての考えを変えようとしているのか?
トムはそっと、助手席に座っている彼女を見た。と言うと、出会ったばかりでキスもままならない若いカップルがドライブデートをしているみたいで、いかにも陳腐な表現だが、今の彼にとって、エズミーはそれ以上の存在だった。ストックウェルの仮装パーティーで出会った二人からは、遥か彼方(かなた)100万マイルも遠く離れてしまった。あの時、彼女の友人がタバコを吸いに行って、彼女が一人になったタイミングを見計らって、ようやく声をかけた女性とは、別人のように見えた。
トムは、タマスが言ったことを思い出していた。彼女はたしかに変わった。だけど、僕が彼女を変えたのだろうか? アナベルも以前、似たようなことを言っていた。それも一理ある。だけど多くのことに関して、彼女と僕では考え方、感じ方が異なっている。芸術、政治、毎晩テレビの前で何時間過ごすべきか、といったことでは意見が分かれる。でも、それくらい何だっていうんだ?
もしかしたら、結婚してしまったら、二人の関係はもっと良くなるかもしれない。この1年いろいろあって二人の間にできた傷を、きれいに修復するベストな方法になるのではないか。そして、二人で共有しているものを守る方法にもなる。僕が生活していくには毎日なくてはならないものを、今後も持ち続けるためにも、とトムは自分本位に考えた。
今年は2月にトムがようやく外に出られるようになり、彼の状態が良くなってきたと思ったら、彼女の父親の病状が悪化するという激動の1年になった。二人は限界まで追い詰められた状態で、その間ずっと、エズミーは彼のそばにいて、彼を支えてきた。しかし、彼女がいつまでもそうしているとは限らない。次に何かが起こった時、彼女と僕を結びつけておく確たるものは何もない。―そして、次のパニックはいつやって来てもおかしくない。―結婚届なんてただの紙切れよ、と彼女はかつて言っていた。でも、もしそれが二人にとって最も必要なものだとしたら?
「大丈夫?」という彼女の声が聞こえ、トムはハッと我に返った。
「大丈夫だよ、君は?」
「うん、平気」と彼女は言った。「あとどれくらい一緒にいられるのかなって考えてたの」
え? 一瞬焦って彼女を見やる。ああ、父親のことか、とほっとする。
「できるだけ長く、一緒にいられるといいね」と彼は言った。ラジオから流れていたセンチメンタルな曲が余韻を残しつつ、ニュースに切り替わった時、トムの心は決まった。
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〔チャプター 15の感想〕
「タマスとレナが若かった頃、毎週日曜日には、二人してベッドの上でそのトレイを挟んで朝食を取っていた」
この箇所で思い出すのは、出会った当初のトムとエズミーですね! ベッドで朝食を食べるのが若いカップルの特権らしく、男が紅茶を入れるのが決まりらしいです。
思えば、マックのトレイとか、ケンタッキーのトレイを挟んでお店で一緒に食べた経験はあるんだけど、一緒のベッドで朝目覚めたという経験がないことに思い至った...😢(絶望の号泣)
出会った当初、エズミーが結婚するつもりはないって言ったのは、本心だろうけど、心の奥底には、それを覆(くつがえ)してほしい、という期待のような気持ちもあったのかもしれない。藍は覆せなかった...(T_T)
「記憶」という、日常と並行して流れる時間の流れの中では、「時系列」とか「順番」はあまり意味を成さないですね。それも主題の一つでしょうね。
藍も1年前のことよりも先に、10年前のことが思い出されたりするし、2年前のことよりも、むしろ20年前のことの方が、鮮明な色を湛(たた)えていたりするから。
藍は泣きながら訳しているし、笑いながら訳しているんです。その「泣き笑い」が伝わっていればいいな💙チュッ
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チャプター 16
午後7時~8時
君に聞くべきじゃなかったこと
2016年9月 ― ローラの家、セントアグネス、コーンウォール
浜辺にはほとんど人がいなかった。彼らの他には、手をつないで固い砂浜を裸足で散歩している老夫婦だけが見える。夜が近付き潮が満ちてきた砂浜には、ところどころに水たまりができていて、吹き出した冷たい風が、むき出しのふくらはぎに絡みつくようだった。彼は紺色のちゃちなパーカーのフードを頭にかぶると、ジッパーを首元まで上げた。冷たい海水がビーチサンダルを履いた足のつま先にかかる。
「きれいじゃない?」とエズミーが言った。
「そうだね」
「こういうところに住んでみたいな、とかって思わない?」
「思うのと、実際に行動するのは全然違うよ。考えるだけなら簡単だけど、実際に引っ越すとなったら大変だ。君がロンドンの外で暮らしたら、すぐ気が狂うよ」
「あはは、そんなことないわ」
「君はこの前、地下鉄を3分も待たされてイライラしてたじゃないか。ここではバスを3時間も待たなきゃならないんだぞ」
「適応できるわ。だってここでは、生活のペース自体がゆっくりなんだから」
「まあ、それはいえてる」
トムは周囲を見渡した。もうすぐ目的地に着きそうだった。2日前の夕方、彼はこの入り江をランニングしていて、そのスポットを見つけた。7時10分頃、2つの岩に挟まれた海岸線がくぼんだ場所に、夕陽がすっぽりと入り込み、陽だまりができるのだ。砂の上には海水が少し入り込んでいるだろうけど、それくらいは大丈夫だろう。
先ほど、彼女を連れ出すのにひと苦労した。彼女はローラの家の庭に突き出たテラス席で、ジントニックを飲みながら本を読んでいた。トムはそわそわと落ち着かないふりをして、散歩しながらおしゃべりしたい、と切り出した。二人だけの時間が欲しいんだ、と。
「明日じゃだめなの?」とエズミーはスリラー小説を閉じながら、少しイライラした口調で言った。彼女はトムに発言を遮られたり、読書を邪魔されたりすると、いつもこんな口調になる。
「僕は今すぐに行きたいんだ。外でっていうか、外に出たらきっと気分いいよ」と彼は言った。「なんだか息が詰まりそうなんだ」
「ここだって外でしょ。コーンウォールの静かな地区の素敵な庭にいて、聞こえるのは波の音だけ。いったいどうしたら『息が詰まりそう』になるの?」
「わからないけど、もう詰まりそうなんだ」と彼はしつこく言った。
最終的に、彼は彼女をどうにか説得し、彼女はお酒と本を手放し、立ち上がった。実際は、ローラの子供たちがパジャマ姿で庭に飛び出してきて、急に騒がしくなったことが彼女の腰を上げた、と言った方が正しいかもしれない。
そして今、トムはエズミーを引き連れ、小さな岩を乗り越えたところで、立ち止まった。
「ここだよ」と彼は言った。
「ここって、どういうこと?」
「この小さなスポットだよ。素敵じゃない? こないだ見つけたんだ。君に見せようと思ってね」
「そうね。ちょっと砂浜が濡れてるけど」と彼女は言って、水に浸かった〈ビルケンシュトック〉のサンダルを見下ろした。「潮が満ちてきてるのよ。もうすぐ膝(ひざ)まで浸かるわ」
「まあ、それはそうだけど...」彼は言葉を失い、自分が何を言おうとしているのか半分わからなくなった。心臓の鼓動が速くなり、声にはパニックの色が乗っかった。「そこに座ってくれないか? あの岩の上に」
「なんで岩の上に座らなきゃいけないの?」
「君に見せたいものがあるんだ」
「トム、大丈夫? かまってちゃんみたいになってるわよ」と彼女が言った。ローラの娘を引き合いに出しているのだとわかった。あの子は人目を引きたくて仕方がない年頃らしく、事あるごとに「見て!見て!」と言ってエズミーを目の前に座らせ、歌ったり踊ったり、時にはクラスメイトに関する長くて入り組んだ話を聞かせるのだった。
「僕は大丈夫だよ」
「十分変な行動してると思うけど」
「大丈夫だって言ってるじゃないか」と彼は言い張った。「君にプレゼントを用意したんだ。さあ、そこに座ったら目を閉じて」
警戒しつつも、エズミーは言われた通りに目を閉じた。それを見て、トムは半ズボンのサイドポケットに手を突っ込んだ。
彼の足が砂浜に溜まってきた水を弾(はじ)くピシャッという音がして、エズミーは思わず目を開けた。
「トム」
「エズミー、もうすぐだから。水かさが増してきてるのはわかってる―」
「トム、いったい何がしたいの?」
「エズ、頼むよ」と彼は言って、彼女を見上げた。海岸が若干斜めになっていて、トムに向かって傾斜(けいしゃ)している分、彼女は普段より背が高く見えた。
「ダメ! もうあなたが何をしようとしてるのかわかったから、それはやめてって言ってるの」
「でも―」
「それは言わないで、そのまま胸に秘めておいて、トム。その箱は開けちゃダメ」
「エズミー」と懇願するような声を上げるトムをよそに、エズミーは、今やすっかり水に浸(つ)かってしまった岩から降りて、セントアグネスの町の方へ、傾斜のあるビーチを足早にのぼっていった。彼は指輪の箱をパーカーのポケットに押し込むと、彼女の名前を叫びながら、彼女を必死で追いかけた。数分歩いたのち、彼女は立ち止まり、彼の方を振り返った。
「何?」と彼女は言った。海の家や売店などが建ち並ぶビーチの天辺(てっぺん)まで、もう少しでたどり着きそうなところだった。ポテトを揚げる匂いが風に乗って漂ってきて、パブから騒がしいしゃべり声が耳に届く。
「僕はただ―」
「何、トム? ただ何? ためしにプロポーズでもしてみようかって? 私がどう思うか聞いてみようと思ったの? 指輪なんか買っちゃって、こんな散歩がてらの計画なんか立てて、私の気が変わるとでも期待したわけ?」
「いや、そういうわけじゃ―」
「何度も何度も言わせないでよ、トム。今までだって気まぐれで言ってたわけじゃないし、素敵なジュエリーを見せられたからって、あら、じゃあって、そっちになびくような軽い意志じゃないの。他の人は誤解しても、あなたなら理解してくれると思ったのに」と彼女は言って、後ろを向き立ち去ろうとしたが、再び彼に向き直った。「ローラはこのことを知ってるの?」
「いや」
「私は絶対に誓って―」
「エズミー、誰も知らないよ」
「私の母は?」と彼女が聞いてきて、トムは返答に困ってしまう。「ママは、あなたがこういうことをしようとしてたのを知ってたの?」
「いや...なんていうか、これは知らないよ。気持ち的なことはともかく」
「ちゃんと教えて、トム」
彼は彼女を見た。彼女の髪が、コーンウォールの崖を下りてくる風にさらさらとなびいていた。風はハリエニシダの茂みをも揺らし、その黄色い花の香りが荒野にふわっと舞い広がっていく。彼女の頬は暗がりの中で夕陽に染まり、目は大きく開かれ、しっかりと彼を見据えていた。彼女が怒っていることが目から目へと伝わってきた。
「もしあなたとママが共謀(きょうぼう)して、これを計画していたことがわかったら、私はあの車に乗ってすぐにロンドンへ帰るわ」と言いながら、彼女はウェールズの方角を指差した。「一人でね」
トムは喉まで出かかった言葉をのみ込み、一瞬ためらった。自分が言おうとしていることが事態を悪化させるのか、それとも好転させるのかわからなかった。しかし自分は今ここにいて、目の前に彼女がいる。今、彼女に真実以外のことを話しても意味がないことだけはわかった。
「君のお父さんだよ」
エズミーは一瞬黙り込んだが、それを受け止めたようだった。「私のパパ?」と彼女は言った。「どういうこと?」
「ほら、あの時だよ。彼が僕に話しかけたじゃないか、彼が死ぬ前日、覚えてる?」
彼女はトムから視線を外し、今にも沈もうとしている夕陽を眺めた。あの日のことを思い出しているようだった。昨年の11月、二人でレスターの彼女の実家を訪れた。そしてロンドンのアパートに帰宅した翌日の朝だった。まだ外は暗かった5時頃、エズミーは母親から、タマスが階段の上で倒れていた、という電話を受けたのだ。おそらく化学療法の影響で発作が起きたのだろうということだった。すぐに車で病院に向かい、7時過ぎには着いたが、その時にはすでに彼は亡くなっていた。エズミーが父親に最後のお別れを言うには30分ほど遅かった。
「彼に結婚を認めてくださいとか言ったわけ?」彼女はまだ半信半疑の様子だった。「ってことは、あの時車の中で言ってた、彼を許してやれよ、とか、長く続く結婚生活はきっと素晴らしいよ、とか、あのくだらない話は全部、私を振り向かせるためだったってこと?」
「いや―」
「いつになったらそういうのやめてくれるの、トム? 周りの人たちからも、ずっとそのことを聞かれ続けてきたけど、私の中では、とっくに解決済みの問題なのよ。今さら埃(ほこり)のかぶった本を引っ張り出してこないで」
「エズミー、君は誤解してるよ」
「一つだけ答えて」と彼女は彼を無視して言った。「それは去年からのこと?」
「いや、なんていうか」
「私は呆(あき)れてるの。あなたはあなたの問題について、何年もずっと私に嘘をついてきたのよ。そのことへの謝罪の方法がこれ?...だとしたら」彼女はそこで言葉を探すように間を空けてから、続けた。「あなたは状況をだいぶ悪くしちゃったわね」
「エズミー、聞いてくれ!」トムは毅然(きぜん)とした態度で彼女の両手を握り、彼女が手厳しい言葉を吐き続けるのを止めた。彼は深呼吸をしてから、言った。「君のお父さんが僕に、君と結婚しろって言ったんだ。君が結婚という制度に反対してるのは、単なるポーズっていうか、本気ではないって彼は思ってたんだよ」
エズミーは何も言わなかった。だんだんと怒りが鎮まり、代わりに心が痛み始めたようだった。彼女の目は涙ぐんでいるようにも見えた。風のせいで涙の膜に覆われていただけかもしれないけど。
「もしそれが実現しても、その時には自分はいないだろうって彼は言ってたよ。でも、それが実現することを確信して死にたいって。だから...」
「私のパパのことで」と、彼女は悲しそうに言った。今まで心の奥に押し込んでいたあらゆる感情が、とめどなく浮き上がってきたかのような表情だった。父の死後、胸中に生じた未練やわだかまりが、一気に噴き出したかのような。「じゃあ、これって、彼のためにやってるのね?」
「いや、僕は―」
「それとも、あなた自身のためにやってるの? トム」と彼女は聞いたが、彼は何も言わなかった。「なぜあなたが私をこういうスポットに連れてきたのか、その理由を知りたいのよ。これはあなたが本当に望んでやったことなの? それとも、私の父の霊を慰めようとか、そういうこと?」
「両方、だと思う」と、彼は下を向いて、足元近くまで迫ってきた波打ち際に視線をやった。潮が少しずつ陸地を侵食してくるのが見て取れた。
「じゃあ、私だけだったってこと? 今までずっと? くだらない制度にしがみつくなんて馬鹿みたいって思ってたのは私だけ? そんなものに頼らなくても、二人で幸せに生きていけるって思ってたのは私だけ? 周りの人たちからそのことを聞かれるたびに、私とあなたは違うことを思ってたの? あなたは『ああ、もうすぐ彼女の気が変わるだろうから、それまでの辛抱だ』って?」
「そんなこと思ってないよ!」
「じゃあ、何? 9年間、そんなの必要ないって言ってきたじゃん。今のままでいいって。あなたは全部を納得の上、一緒に過ごしてきたんじゃないの? 私は今、こんな海の前に突っ立って、気付かされたのね、あなたの全ての言葉が嘘だったって」
「エズミー」と彼は切羽詰まったような声を上げた。「それは違う」
「どう違うの?」と彼女は叫んだ。「どう説明すれば、嘘じゃなかったってなるわけ、ねえ...教えて。嘘なんかついてないのなら、ちゃんと説明して。私たちはチームだって思ってた。あなたと私。エズミーとトム。私たち二人のやり方でやってきたじゃない」
「これからもそうしよう」
エズミーは再び彼に背を向け、海水に侵食されていない乾いた地面に向かって歩き出した。トムも彼女の後に続いた。
「彼がそういうことを言ったのはね、私やあなたのためじゃなくて、彼自身のためなのよ。それがわからないの? 私が結婚を拒絶するようになったのは、自分のせいだって彼は思ってたの。だから、あっちの世界に行っちゃう前に自分で解決しておこうって。そんなことが可能だって思うほど彼は傲慢だったのよ」彼女は袖(そで)で鼻を拭った。「あなたはすぐ人に影響を受けるお人好しだから、それに乗っかったんでしょうけど、本音を言えば、トム、あなたも内心ではそれを望んでるのよ」
「そうだとしたら? もし僕たちにはそれが必要だって僕が思ってるとしたら? 僕がそれを望んでるなら何?」
「そうだとしたら、あなたは失望することになるでしょうね。私は何度も言ったように―」
「で、僕の気持ちはどうなるんだ?」トムは波の音に負けじと叫んだ。そして無意識で自分の口から飛び出した言葉に驚いた。「今までずっと、すべては君を中心に回っていたけど、それはすべて」
「すべて何?」
「結婚だよ、エズミー。君は一度も、文字通り一度だって、僕がどう思っているかを聞いたことがないじゃないか。君がノーと言って、それっきり、この話は終わってしまった」
「私は結婚したくないのよ、トム。どうしてそんなにわからずやっていうか、理解してくれないの?」
トムはすぐには答えなかった。彼は自分の言いたいことはわかっていたが、それを言うことが賢明かどうか判断がつかなかった。
「それで?」と彼女が言った。
「僕たちにとって、そうすることが、いいことだと思うんだよ、エズ」と彼は一つ一つ事実を確認するように言った。「今まで...順調に来れた面もある。でもちょっと、ぎくしゃくしたこともあったよね。僕の...問題もそうだけど、君のお父さんのこととか。それで僕たちに必要なのは、これかもしれないって思ったんだ」
「私はそうは思わないわ」
「君が考えてさえくれれば」
「私だって考えてるわよ。結婚については、それこそ100万回も考えたわ。友達が結婚するってことで、女性だけの婚前パーティーに参加するたびに、そこで、あなたは?って聞かれるたびに考えさせられたわ。あなたのお母さんにも考えさせられた。彼女は私が気づかないと思って、会話の中にちょいちょい結婚の話を入れるじゃない。何なのあれ? サブリミナル効果でも狙ってるの?」
「ならいいよ」
「『ならいいよ』じゃないわよ、トム。全然よくなんかないわ。私の気持ちは前からわかってたはずでしょ」
「そして今、君は僕の気持ちがわかったはずだよね」
エズミーとトムはお互いに少し離れて立ったまま、それぞれ相手の目をじっと見つめていた。トムはその時、自分が見ているこの人は、何年も前にあのパーティーで出会った同じ女性なのだ、と、しっくり来るものがあった。彼女は今まで一貫して、自分自身にプライドを持ち、ぶれずに自分の人生を歩んできたのだ。一方、僕はどうだろうか? 僕は自分があの時と同じ人間であるという確証がなかった。そして、もし違う人間なら、彼女が今見ている人物は、いったい誰なのだろう?
「私はもう行くわ」とエズミーが言った。「追って来ないで」
「謝らないよ。僕は今日のことを後悔してない」彼女の背中に向かって、トムは言い放った。
「私は後悔してるわ」と彼女は歩きながら呼び返した。「私はあなたを拒否したくなかったのよ、トム。なのに、プロポーズしようとするなんて、そんな馬鹿な男だとは思わなかった」
15分後、トムはまだ海水に沈んでいない数少ない岩の上に一人で座っていた。今夜はどこで寝るべきかと考えていた。エズミーは僕がベッドに入ってきたら確実に嫌がるだろうし。その前に、僕がローラとアマンの海辺の家に戻ったら、どういう雰囲気になるだろう? 気まずくて無言? それとも、4人でトランプをしたり、おしゃべりしたりしながら、今日1日をぶち壊す出来事なんて起こらなかったかのようなふりをして、何食わぬ顔で夜を過ごすのだろうか?―1日どころか、この1週間を僕はぶち壊してしまったというのに。
もしかしたら、パブに空きがあるかもしれない。しかしトムは知っていた。今日という日だけは、そんなところに行ってはいけない、と。ビールサーバーや、並んだボトルや、色とりどりの電球に囲まれて、一晩を過ごすわけにはいかない。
パーカーのポケットに手を入れて、彼は小さな黒い指輪の箱をつかんだ。ベルベット素材の粗い感触が指に伝わってくる。彼は一瞬、それを海に投げ込み、ケルト海の穏やかな波間に漂わせて、遠い船出を見送りたい気持ちになった。しかし、一方でそれができないこともわかっていた。見えない何かが、未知なる力が、彼をこの小さな箱に固く結びつけているのだ。売ることも、返すことも、捨てることもできずに、彼はこれを家に持ち帰るだろう。そして、机の引き出しの一番奥に入れて、ほこりをかぶるまで放置しておくのだ。金の輪は時とともにくすんだ色に変色し、平板なエメラルドは誰にも見られることなく、輝きを失っていくのだろう。
「なんてことしてくれたの!」背後から声がして、振り向くと、ローラが砂地を歩いて近づいてくる。この海辺の町に引っ越してから、彼女は中流階級のイギリス人女性然とした身のこなしになっていた。青と白の〈ブルトン〉のトップスを着て、カーキ色のタイトなズボンを足首までまくり上げ、〈ソルトウォーター〉のサンダルを履いている。ウェーブのかかったブロンドの髪は肩のところで外側に跳ねている。彼女は昨年のクリスマス前に『デイリー・テレグラフ』紙の記者を辞め、ここに引っ越してきてからは、子供向けの本の執筆に専念している。前みたいな生き急いでいる感がなくなったのは、彼女がロンドンを離れたことと関連しているんだろうな、とトムは思った。
「座ってもいい?」とローラは言って、彼が答える前に彼の隣に立ち、岩に腰を下ろした。「こうして一晩中、ここにいるつもりなの?」
「いずれ海に流されるかもしれないと思ってね。波が僕をさらって、向こう岸まで運んでくれるんじゃないかって。そしたら、新しい人生を始められるかもしれない」
「海の向こうはアイルランドね」
「たぶんそんなに遠くないよ」
「たぶんここもそんなに悪くないわ、トム」
「まあね」とトムは言って、足を前に伸ばし、足の裏を海水に浸(ひた)った砂浜につけた。粒が大きめの砂の感触が肌に気持ちいい。「今は、これ以上悪くなることはないって感じで、どん底を味わってるよ」
「トム」ローラは自分の子供に、言うことを聞きなさい、とたしなめるような言い方で名前を呼んだ。
「彼女は今どんな感じですか?」
「彼女は大丈夫よ。まだちょっと動揺してたかな。今はモーに読み聞かせをしてるわ。ドクター・スースの物語を、ジントニックで喉を潤しながら朗読してる」
「モーくんはドクター・スースをもう理解できる年齢でしたっけ?」
「まだ自分では読めないけど、アニメは好きだから、エズミーが声をあてて、絵を見せながらお話を聞かせてるのよ」
トムは、ローラの家の広いリビングのソファに座って、読み聞かせをする彼女の姿を思い浮かべた。高価な木製の家具や、装飾用の流木や、カラフルなプラスチック製のおもちゃに囲まれ、2歳の男の子を膝の上に乗せ、彼を包み込むように腕を回し、彼の肩越しに朗読している彼女の姿が目に浮かんだ。彼女の声まで、頭の中に流れ出す。それぞれの登場人物をはっきり区別しようと、口調やアクセントをわかりやすく変えながら、子供を喜ばせるために、1ページ1ページゆっくりめくっていく彼女の指まで見えた気がした。
「子供は好きだけど、自信がないの」というのが、子供を持つことについて話した時のエズミーの常套句だった。彼もまた、同じように自信はなかった。自分自身の人生でさえ、こんなにめちゃくちゃな有り様なのだから、もう一つの命の人生をちゃんと監督できるとは、到底思えなかった。ただ、子供がいないまま、二人だけで一緒に年を取っていくことを思い描けるのと同じくらい簡単に、将来子供ができることも想像はできた。とはいえ、それについて二人できちんと話し合うこともなく、生活の忙しさにかまけて、年々大きな決断から遠のいていっているのも確かだった。他の人々が新しいキッチンを設置することについての議論を避け、後回しにするのと同じように、この問題を回避してきたのだ。
「ちょっとやっちゃった感じですよね?」とトムは言った。
「そんなことないわ!」ローラはそう言って、長めの間を空けてから続けた。「なんていうか、よくやったわ、とは言えないけど...そうね、トム。あなたの気持ちはわかるわ」
「わかってくれる人がいて良かったです」
「いつから気が変わったの? 結婚を迫るほど、あなたがこだわりのある人だとは思えなかったけど」
「彼女の父親に言われたんです。亡くなる直前に」
「そうみたいね、それはさっき聞いたから知ってる。けど、実際、エズミーがお父さんと何回結婚について話し合ったと思う?」と、彼女が意表を突く質問をしてきた。さすが元ジャーナリストだと思った。長年にわたって彼女に鋭く詰問(きつもん)されていた政治家たちに、一瞬同情した。
「それは、一度もないでしょうね」
「その通り」
「でも、彼と話したことで、僕自身もそうしたいんだって気がついたんです。それが大きな問題になってしまって」
「あなたはきっと乗り越えられるわ」
「そうかもしれないけど、いつまで経っても、わだかまりは消えないんだろうなって。消えませんよね? 僕は乗り越えたいけど、彼女は引きずるでしょうし」
トムは海水に足を突っ込んだまま、足の指の間に砂が絡(から)まっては、海水に流される感触を楽しんでいた。
「愚かな考えだった。こんなことやる前に気づくべきだった」と彼は言った。
「元気出しなさい、トム。実は私もね、あなたと同じように、エズミーの気持ちが変わるかもしれないって思ったことがあるのよ。あなたのおかげでね。だけど、あなたも知っての通り」
「はい」
「こういうことに関しては、彼女の意志は固い」
トムはうなずいて、足を組み直した。
「彼女はいつも、結婚なんてただの紙切れだって言ってるでしょ。でもね、紙切れの中には他の紙切れよりも価値のあるものだってあるのよ」とローラは言って、結婚推進派の旗(はた)を掲げるように、カラフルなネイルを施した指を突き上げた。「エズミーが何と言おうとね」
「大学の学位記」
「は?」
「彼女が最も大切にしてる紙切れだよ。それは大学の学位記」
ローラが微笑んだ。
「あなたたちはやっぱり相性抜群みたいね」と彼女は言った。「あなたもそれに気づいてるんでしょ?」
「そう思いたかったんですけど」
「トム」と彼女が言った。またあのたしなめる口調だ。
「なんだかもうめちゃくちゃですよ」
「そういう時もあるわ。あなたたちなら、きっと乗り越えられる。いろんなカップルがいるけど、あなたたちは相性がいいカップルなんだから、カチッとはまる。あなたに足りないものはすべて、彼女が持ってるんだし。その逆も然り。二人はあれね、うちにいっぱいあるレゴブロック。あなた子供の頃、得意だった? あの要領で二人の関係を組み立てていけばいいのよ」
「それは僕たちより、あなたとアマンに当てはまることですよね」
「よしてよ、トム。私はアマンを愛してるけど、でもね、時々私たちの関係は、もう最悪。ドタバタ喜劇よりひどい有り様よ。私の父は相変わらず人種に偏見があるから、私がアジア人と結婚したことをいまだに快く思ってないし。アマンはアマンで、私がたまに仕事で出張するのが気に入らないのよ。ずっと家にいろって。そのくせ自分は、講演してくれって呼ばれれば、二つ返事でほいほいとどこへでも飛んでいくのよ。こないだも、サンフランシスコでIT系のオタクたちが集まる会議があったんだけど、彼は勝負スーツを持って出かけていったわ。絶対にあれね、若い女性記者たちを口説きまくってるのよ。彼へのインタビューが終わったら、今晩食事でもどう? とか言ってね。私も昔は言われたこともあったけど、私たちは今ではもう、ほとんどセックスしないわ。その代わりみたいに、少なくとも月に一回は、口げんか。それっきり結婚生活が終わってしまうんじゃないかってくらい、毎回激しく言い合ってる」
「そうなんですね。僕の立ち位置からは、すべてが順調に見ていたけど」
「順調なわけないじゃない。でもね、私たちはこのレールから降りないわ。私たちはお互いを愛してるから。降りたい理由なんてたくさんあるのに、降りない」と彼女は笑いを交えて言った。「あなたとエズミーは全然違う道を歩んでるけどね」
「僕たちも以前はそんな感じだったんですけどね」
「どういう意味?」
「あなたは彼女から聞いて、何でも知ってるんでしょ? 去年の、あの...エピソードも」
ローラはうなずいた。
「あれ以来、ほんとに大変なんですよ。彼女にいろいろバレちゃって...よりによって僕の母親から」
「知ってるわ。彼女が言ってた」
「それで今度は、彼女の父親が」
「トム、あなたは―」
「問題は、僕がまだちゃんとしてないってことなんですよ、ですよね? なんていうか、まだ具合が良くなってないっていうか、今でもたまに、やばいなって時があるんです」
「エズミーは知ってるの?」
二人は座ったまま、しばらく暗がりの中で波がゆったりと打ち寄せる様を眺めていた。
「トム」と彼女は言って、彼に何か言うように促した。
「だからですよ。だから僕はプロポーズしたんです。そうすれば彼女は、これからも離れない。もし次の機会があれば、もう一度」
「エズミーは、それは知ってるの?」
彼は答える前に、少しためらった。「いえ、気づいてもいないでしょうね。彼女は僕を買いかぶってるんです。僕は彼女が思ってるような男じゃないのに」
ローラは立ち上がり、お尻についた砂を払うと、海の空気を長く深く吸い込み、ふーっと吐き出した。
「それは私に相談することじゃないわ。私はあなたのことが大好きよ。それはあなたもわかってるでしょ。でも、そういう相談には乗れない」
「ローラ...」
「私は戻るわ」と彼女はきっぱりと言った。「モーの寝る時間だから」
「お願いします」
「彼女と話して」ローラは彼を振り返って言った。「いい加減にして。それは彼女と話して」
トムはそれから1分ほど、海が少しずつ迫ってくる様を眺めていた。今夜のパブは大盛況らしく、騒がしい声が漏れ聞こえてくる。パブの中ではバンドが演奏しているようだ。それを聞きながら彼は、最後に観客の前でライブをした時のことを思い出していた。そろそろ復帰してもいい頃合いかな、と思った。―ただ、ライブをするにはお金が必要だった。
遠くで、教会の鐘が鳴り始めた。彼はポケットから指輪を取り出した。
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〔チャプター 16の感想〕
コーンウォールという地名にピンときた方、あなたはもう通(つう)です!笑←イギリス通?←いや、藍通!笑
藍はプロポーズする状況にすら至ったことも(そういう状況をサプライズ的に作ったことも)ないから、何も語れないんだけど、独り身には世間の風当たりが手厳しいっていうのは、ある! スーパーマーケットとかで周りからの視線が辛辣というか、まるで「独り身はずるい」みたいな...いやいや、藍は好き好んで独身貴族を気取ってるわけじゃなくて、たくさんの女性にふられまくって、つまり不本意ながら、独り身のままでいるわけで...それをふまえて、風当たりは「弱風」か「微風」でお願いします🙇笑
藍にとって、付き合う付き合わない、というピュアな恋の指針はダッシュとリリーで、←お前、体だけピュアって、一番キモいパターンじゃねーかよ!爆笑
ちょっと大人な、結婚するしない、という色恋の指針はトムとエズミーかな☕←トムとジェリーじゃなくて?笑←は?←だって、追いかけっこでしょ?爆笑
(これはトムとエズミーの話ではなくて、藍とまゆちゃんの話なんだけど、笑)藍を引っ張れるだけ引っ張って捨てれば、藍が途方に暮れるだろう、藍が空っぽになるだろうと思って、藍を捨てたんだろうけど、でもね、空っぽにはならなかったんだよ。藍の中には一緒に過ごした濃密な時間が、(尾ひれまでつけて、笑)ちゃんと息づいているんです!←まゆちゃんって誰?←それはもちろん、空想上のキャラクター。笑
一つアドバイスをすると、本当に相手にダメージを与えたいと思ったら、最初から拒絶しないとね!笑←でも、そしたら君はそんな女性のことはすぐに忘れて、他の女性にアプローチをかけるでしょ!←当たり前だろ!!←だからだよ。だから彼女はいったん受け入れてから、引っ張れるだけ引っ張って、捨てたんだよ。←なるほど。←その証拠に、彼女の術中にはまって、今でも彼女のことを毎晩考えてるじゃん!!←毎晩ではない、たぶん...
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チャプター 17
午前10時~11時
病院内の一番哀しい場所
2017年1月 ― ロイヤル・フリー病院、ロンドン
エズミーは足を床に叩きつけていた。まるでどこかで音楽が流れていて、そのビートに合わせてリズムを踏んでいるかのように、彼女は数秒おきに、コン、コン、コン、と靴音を踏み鳴らすのだった。彼女の靴の硬くて平べったいかかとが、病院の淡いブルーの冷たいリノリウムに当たって、残響が遠くまで流れていく。むき出しの冷えた廊下は、実際の音よりもはるかに大きな音を響かせるらしく、コンッという音一つ一つにエコーがかかったように、産科病棟の妊娠初期ユニットを通り過ぎていった。
妊婦や、その後ろを心配そうに歩く父親たちが前を通り過ぎても、彼女はほとんど顔を上げなかった。家の近くの町医者から「問題がある」と言われて以来、彼女は幼い子供や赤ん坊を目にするだけで、涙ぐむようになっていた。それで、あえて見ないようにしているのだろうとトムは思った。
先日、その町医者は「この段階では決して良い兆候ではありませんね」と言っていた。彼はかなりの老医で、とっくの昔に医学の限界を知り、今では情熱も失せ、毎日惰性で診察をしているのではないか、と二人は訝(いぶか)しんだ。「紹介状を書きますから、大きい病院で血液検査を受けて来てください。その結果を見てみましょう」
検査結果がウェスト・ハムステッドの個人病院に送り戻され、hCGの値が低いことが確認されたことで、エズミーは総合病院の妊娠初期ユニットで診察を受けることになり、予約を取った。
「どのくらい低いんですか?」とエズミーはその町医者に聞いていた。
「正常な値ではないってことです、残念ですが。妊婦初期の段階では通常、数日ごとに倍になって、どんどん増えていくはずなんですが、どうもそうはなっていないようですね」
この日の予定をすべてキャンセルしたエズミーは、朝からインターネットで、妊娠初期に出血し、hCGの値が低いと診断された女性の朗報を探し回った。彼女は、人生の悲運をみんなで書き綴るフォーラムに救いを求めたが、彼女が得られた反応は、医学用語の頭字語と、同情だけだった。
一方、トムは再び、やばい状態に陥りそうな予感を、昨年の後半からじわじわと感じていた。自分の中に何かがあるような、肺か胃か、その辺りに何かがあるような感覚。実際、肋骨の内側に手を入れれば、それを掴んで引っ張り出せそうなリアルな感覚に、彼はマントラを唱えるように、必死で自分に言い聞かせた。エズミーに気づかれちゃダメだ。
彼は季節が変わるとともに、その嫌な予感も過ぎ去ってくれることを願った。年末が近づき、冬の到来とともに、胸のつかえも真っ白に消えてくれるのではないか、と。彼は落ち込んだ時には、すべてを肯定する言葉を内心で繰り返し呟いていた。自分は無価値なんかじゃない、人生に希望がないなんてことはない、と。しかしそれでもなお、嫌な感覚はくすぶっていた。自分がいつ壊れてもおかしくはない、という感覚が。
そんな時、エズミーから陽性反応を見せられた。トムはそれを見て、自分のことよりももっと重要な、考えるべきことができたと思った。自分は病気だと言い訳して、嘆いたり苦しんだりしている場合ではない、と。誰かを守れる、踏ん張れる男になる時が来たのだ。
「でもこれって、『妊娠』ってことでしょ?」と、エズミーがベッドに潜り込んできて言った。彼はベッドの上で気を紛らわせようと、やみくもにスマホの画面をスクロールしていた。彼女は、生理は予定通り来てるのに変ね、と首をかしげていた。
「そうみたいだね」
「ということは?」とエズミーは言って、にっこりと満面の笑みを浮かべた。
「ということは...」
「あなたがパパになるってことよ」と彼女が言った。
トムは微笑み、次第に声を上げて笑い出し、そして嬉し泣きした。けれど、その裏には再びあの深い恐怖がひそんでいた。自分の面倒を見るだけでもこんなに必死な男が、どうして子供の面倒なんて見ることができるだろうか? トムはネットで、うつ病や不安神経症が遺伝するかどうかを検索し、いくつかの記事を前のめりになって読み込んだ。
同時に、こんな時に赤ちゃんができることに不安も感じていた。エズミーの父親の死、コーンウォールでのプロポーズの失敗、などをまだ引きずっていて、二人の関係は最近ぎくしゃくしていた。大晦日に二人でお祝いをし、新たなスタートを誓ったものの、2017年が始まるというよりは、2016年がようやく終わった感がまだ強いこの時期に、新たな命を受け入れられるかどうか不安だった。
それでも、もしかしたら、そんなすべてを消し去るように生まれてきた赤ちゃんが、二人が必要としている希望をもたらしてくれるかもしれない。くしくも、トムがプロポーズを通してもたらそうとした希望を。
彼は認めようとしないだろうが、二人の間に生まれた子供が彼の心を癒し、症状を回復させる存在になるかもしれなかった。彼を泥沼から救い出してくれる存在、二人の絆をしっかりとつなぎとめてくれる存在に。
「エズミー・サイモンさん?」と、ぽっちゃりとした赤い頬の看護師が、老朽化して所々ペンキの剥がれた灰色のドアから顔を突き出した。二人は彼女を見上げた。「もうすぐ診察しますよ。今、別の女性の診察が終わるところなので」
まだ待つのかよ。今回の件では、全体において時間が元凶だった。数日で簡単に解決できたはずの問題が、何人かの一般開業医が口先だけで曖昧な回答をし、責任を回避するように他の病院に回されるということを繰り返し、3週間もかかってしまったのだ。
最初の町医者は、出血に対するエズミーの心配をほとんど無視し、「着床の問題ですね」と軽く扱い、まだ8週目だというのに、いきなり助産師を紹介する始末だった。
「お昼時だったから、彼はランチのことで頭がいっぱいだったんじゃないかしら」と、後になって彼女は言った。
それでもエズミーは自分の体を心配し続け、もう一度診察を受けようと決意し、予約を入れ、それから、何度かその町医者の診療所を訪れ、そのたびに検査し、首をかしげる老医の顔を覗き込むはめになった。
ようやく、緊急性を帯びてきて、そして今に至る。
トムは手を伸ばし、軽く震えているエズミーの手を取った。
「大丈夫?」
「怖いわ、トム」と彼女は静かに言った。「本当に怖い」
「わかってる。僕はここにいるよ。一緒に乗り越えよう。すべてをね。僕が言ったように」
彼女は彼の片手を両手で挟むようにして握り締めた。
「この廊下は冷たいけど、君は一人じゃないよ、エズ」
エズミーは足元を見下ろした。彼女が深呼吸をすると、再びドアが開いた。先ほどと同じ看護師がドアを手で押さえている横から、ショックを受けた様子のアジア系の若いカップルが出てきた。男性はパートナーの背中に手を添えている。彼女の手には、他の病院の診断書らしき紙が何枚か握られていた。
「エズミーさん」と看護師が言った。
彼女が立ち上がって先に入っていった。トムは後に続き、看護師に「こんにちは」と言ったが、無視された。エズミーはカーテンの後ろに通され、スキャンを担当する超音波検査士が「スーです」と名乗るのが聞こえてきた。その間、彼は診察室の隅に椅子を見つけ、二人のコートと彼女のバッグを膝の上に載せたまま、そこに座っていた。
「さあ、こっちよ」と看護師が言った。それまでトムは気づかなかったが、彼女は北部なまりの心地よい声をしていた。「あなたは、いわゆる生存不能な妊娠をしています。というのはつまり―」
「その意味はわかってます」とエズミーは淡白な声で言った。「ごめんなさい。本を読んできたので」
「そうですか。それじゃ、現段階での治療法も知ってますか?」
「いいえ」と彼女は言った。彼女の声は、今度は少し震えていた。
「まあ、この初期段階では、卵子が自然に溶解するかどうかを見ることになるでしょう。もしそうならなければ、医師があなたと相談して、選択肢を検討することになります」
その看護師はエズミーに優しい声で、気をつけるべきことや、様々な場合の対処法などを説明し、これまでに何が起きたのか、次に何をすべきかが書かれているリーフレットを手渡した。そして、二人は別のカップルが待つドアの外へと案内された。
トムはエズミーの背中に手を添えるようにして廊下を歩き、冷たく哀しい妊娠初期ユニットから離れていった。病院内を歩きながら彼は、可能な限り彼女の視界をさえぎり、幸せそうな妊婦が見えないように配慮した。しばらくすると、二人は病院の外に出て、1月の冷たい日差しの中にいた。
「大丈夫?」
「何か飲みたい気分だわ、お願い」
トムは時計を確認した。11時15分前だった。この辺りのパブは、まだどこも営業していないだろう。
「エズ、まだ11時にもなってないよ―」
「いいじゃない、トム。どこか開いてるお店を探してよ」と彼女はピシャリと言った。「あなたは飲むことに関してはエキスパートなんだから、見つけられるでしょ」
ガツンと一発くらったような衝撃を受け、彼は何も言い返せなくなった。今はその時ではない。今回は、飲みたくて仕方ない自分のために飲み屋を探すわけじゃない、と自分に言い聞かせた。たしかに考えてみれば、人生において成し遂げたことがあるすれば、開いてる飲み屋を見つけることくらいだった。
トムはスマホを取り出すと、この辺りのパブを検索し、行ったことがあるお店の記憶と照らし合わせた。午前中から店を開けてくれるとしたら、〈ザ・ジョージ〉かな。
「わかった。いいお店があるよ」と彼は言って、彼女の腕を取り、ロイヤル・フリー病院から南へ、ゆるやかな坂道を登っていった。ポンド通りとヘイバーストック・ヒルが交わるところまで来ると、彼女が泣いていることに気づいた。トムは彼女の体を引き寄せる。バスが二人を冷やかすようなシューという音を立てて、彼らの隣に停まった。
「大丈夫だよ」と彼は静かに言った。
10分後、二人は52インチのテレビの下に置かれた二人掛けのソファに座っていた。常時〈スカイ・スポーツ〉を流しているスポーツ・バーはまだ開店直前だったが、すでにカウンターでは一人の男が、朝一番の一杯を飲んでいた。店の壁際には、液晶画面にクイズが表示される最新のマシーンが並び、それらに今電源が入ったらしく、ビーッと音が鳴ると、チカチカと赤や黄色の光を点滅させ始めた。女性のバーテンダーが開店の準備を着々と進め、ラジオをつけると、ザ・ラーズの『There She Goes(ほら、また彼女が横切った(=また彼女のことを考えてる))』が流れ出す。エズミーの目の前に、ラム酒入りのホットチョコレートが差し出され、トムの目の前には、お酒の入っていないストレートのホットチョコレートが置かれた。彼の心の一部分が、彼女が飲もうとしている酒入りの方をうらやましく思った。その気持ちをぐっと抑え込むように、甘いホットチョコレートを喉の奥に流し込んだ。
エズミーは一口飲むと、ソファの背もたれにもたれかかり、愛情と憤りと悲しみが混じった表情でトムを見つめた。
「大丈夫?」と彼が聞くと、彼女はうなずいた。もちろん、彼女は大丈夫ではなかった。一方でトムは、このことが二人をどこへ連れていくのか、気付けば二人はどこへ流れ着いているのか、と自問していた。そうこうしているうちにも、日に日に彼の精神は蝕(むしば)まれていくのだろう。
しかし彼はまたしても、自分の精神状態について何も言えなかった。
女性店員は、昨夜床を掃除するためにテーブルの上に載せた椅子をすべて下ろし終えると、ドアにかかった看板をひっくり返し、『オープン』にした。
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〔チャプター 17までの要約〕
この要約を読めば、今からでも間に合います!←どこ行きの電車にだよ!笑←電車?笑
プロローグ June 2017
付き合って10周年の記念日に、エズミーが謎のゲームを仕掛けてきた。24時間の時間帯ごとに印象的なエピソードを思い出せ! と。果たして彼女の意図とは?笑
パート 1
チャプター 1 June 2007
知人の家の仮装パーティーで出会う。
チャプター 2 June 2007
朝のベッド内のシーンから記憶は始まるが、パーティーからベッドに直行したわけではなく、家まで送って一旦トムは帰り、翌日の昼間に公園デートして、夜にパブでトムの演奏を見て、「彼ならいいか」と思ったっぽい。笑
チャプター 3 October 2007
地元の友人たちとパブで飲んでいて、エズミーを呼ぶ。
チャプター 4 April 2009
同棲を始める。内容を思い出せない本やCDは捨てる! というゲームをする。笑
チャプター 5 December 2007
トムの実家でクリスマスを過ごす。
パート 2
チャプター 6 June 2008
高速道路でビチョビチョ(スケスケ)笑
チャプター 7 March 2010
エズミーの母校、オックスフォード大学に行く。
チャプター 8 August 2012
キャンプが崩れる。笑
チャプター 9 May 2011
エズミーの誕生日パーティー。エズミーによると、5がつく歳、25歳、35歳、45歳...が人生の節目らしい。
チャプター 10 April 2007(二人が出会う前の話)
トムがやばい状態になって、死にかける...
パート 3
チャプター 11 December 2013
エズミーの実家でアルバムをめくる。
チャプター 12 July 2014
アナベルとサムの結婚パーティーにて...
チャプター 13 January 2015
トムの地元で、トムは再び「やばい状態」に...
チャプター 14 February 2015
久しぶりに外出したトムは、エズミーを迎えに空港へ...
チャプター 15 November 2015
エズミーの父親が死にそうで...
チャプター 16 September 2016
サプライズでプロポーズを...
チャプター 17 January 2017(2017年1月)
妊娠しかけたんだけど、初期段階で溶解というか、消えちゃったらしい。藍は(身体的には)男だし、深く付き合ったこともないので、よく知らないのですが、いわゆる流産みたいですね。関係が長く続く秘訣は、子供を作ることだったりするのかな?(知らないけど...笑)
パート 4
チャプター 18 June 2017(2017年6月)
チャプター 19 February 2017(2017年2月)寝ちゃった(しちゃった...)
チャプター 20 February 2017(2017年2月)飲んじゃった...
チャプター 21 April 2017(2017年4月)
チャプター 22 June 2017(2017年6月)白昼の怒鳴り合い
チャプター 23
チャプター 24
エピローグ
4分の3くらい訳し終わって、トムは藍だな~!という感じがします。笑←ダッシュの時もそんなこと言ってなかった?笑←ダッシュのひねくれ具合も藍っぽかったんだけど、トムの方が近いかも。というのも藍も、(藍はお酒は飲まないんだけど、)年に3回くらいは「やばい状態」がめぐって来るから!←お酒を飲まないくせにやばい状態って、ほんとにやべー奴じゃねーかよ!!笑
まあ、藍の場合は、ひっそりと内的に「やばさ」と闘ってる感じなので、その間はつらいんだけど、その時期を抜ければ、心は真っ青なブルーに、突き抜ける青空に晴れ渡るので、青空を見るための曇りかな、と思っています。つまり、一旦雲がかからないと...ね!笑
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パート 4
チャプター 18
午後8時~9時
僕らの10周年記念日の前夜
2017年6月 — 西ハムステッド、ロンドン
トムはゲームのルールをもう一度読み返した。
1日でめぐる私たちの人生ゲームへようこそ! 私たちの10周年を一緒に祝うために、エズミー・サイモンがトム・マーレイのために考案した新しいゲームです。
メモ用紙の各ページは1時間を表します。24枚あるので24時間、つまり1日です。あなたは、私たちが一緒に過ごしてきた人生で、最も重要な24の瞬間を思い出してください。1時間ごとに1つの出来事とします。
ルールはこの1つだけです。メモ用紙に示された時間のことを思い出してください。大体このくらいの時間だったな、くらいで大丈夫です。たとえば:
午前3時~4時頃、エズミーがミルトン・キーンズ駅まで僕を迎えに来てくれた。僕は馬鹿だったから、電車に乗ったまま寝ちゃったんだ。(あれは2011年3月だったな。覚えていたら、年月まで言ってね)
みたいな感じで、あなたから24の重大な出来事が出そろったら、ゲームクリアよ。あなたは賞品を受け取れるわ。
楽しんで! 愛してる。エズより、キスの花束を。
彼はエズミーの顔を見上げた。二人の間に置かれたろうそくにほのかに照らされた彼女の顔が、にっこりと満面の笑みをたたえていて、彼は一瞬たじろいでしまう。それからカードに視線を落とす。
僕らの関係を振り返って、最も重大な24の出来事か。最高の瞬間ではなく、重大か。彼女はこのルールを書いた時、慎重に言葉を選んだはずだ。最も重大、それはつまり...うーん...
彼女の表情を見て、トムは初めて疑問に思った。彼女は僕の問題のことを前から知っていたのだろうか。―そもそもの初めからずっと知っていたのだろうか。もしかしたら、誰かが彼女に接触してきたのかもしれない。あるいは、たまたま街で誰かと出くわしたとか。それとも、これが彼女のやり方で、半ば強引に僕の口から白状させるつもりなのか。彼女の口から事実を突きつける代わりに、僕の腕を背中にひねり上げるようなやり口で、僕が望もうが望むまいが、自分で墓穴を掘らせようとしているのだろうか。僕が自ら破滅を導くのを、微笑を浮かべて見守っているってのか。
トムはテーブルの上のカードに再び目をやってから、エズミーを見返した。
「準備はいい?」と彼女が言った。
トムは何も言わなかった。
「トム?」とエズミーは言って、彼を促した。
「ちょっと待ってくれ」
「もっと説明が必要?」
「いや、そうじゃなくて」彼はきっぱりと言った。「ごめん。悪いけど、まだ準備ができてないんだ。これはいったい何?」
「言ったでしょ。これはゲームなの。あなたは24の出来事を書き留めて―」
「それはわかった」彼はぴしゃりと言った。「今晩のことだよ。まず、出かける前にちょっとした夕食を食べた。そして帰ってきたら、君がドレスに着替えていて、プレゼントと、こんなくだらないゲームだ。僕は今までに僕たちに起きた出来事を、いちいち思い出さなきゃならない。バカバカしい。僕はハメられた気分だよ」
「ハメられた?」
「そう、君にハメられたんだ。エズミー、いったい君は何をたくらんでる? 心を開いてすべてを話してくれ」
「私はハメようなんてそんな―」
「じゃあ、なんで僕をこんな目に遭わせるんだ?」
エズミーは唖然として何も言えなかった。テーブル越しに彼と向き合ったまま、じっと彼を見つめていた。彼女の顔には、悲痛の色が浮かんでいた。彼が今までに一度しか見たことがない、悲しみに満ちた表情だった。数年前のあの日の早朝、車で彼女の地元に向かっている途中、彼女の母親から電話がかかってきて、タマスが今亡くなったと彼女に告げた時、彼女はこんな顔になった。彼を見つめる彼女の目に、徐々に涙が溜まっていく。溢れ出た涙のしずくは、彼女の頬を小川のように流れ、せっかく施した化粧に真っ直ぐな線を残しながら、流れ落ちた。
「バカバカしいゲームね」と、彼女は静かに繰り返した。そしてトムはその瞬間、これで今夜はお開きになる、と悟った。どんなに謝罪しようと、彼女の機嫌が戻ることはない、と。
彼は間違っていた。彼女は何も知らなかったのだ。その年の初めに彼が何をしたのか、彼が自分の中に押し込め、彼女に隠してきたすべてのことを、彼女は何も知らなかったのだ。『1日でめぐる僕らの人生』は、ちょっとした余興に過ぎなかった。こんなことでもしなければ困難に陥りつつあった二人の関係に、彼女は光をもたらそうとしてくれたのだ。今ならわかる。しかしそれを知ったところで、彼の気持ちが晴れるわけではなかった。
「そんなつもりじゃ...」
「私は頑張ってるよ、トム」
「エズ」
「ほんとに頑張ってるなって自分でも感心しちゃうくらい。いろいろあったけど、それでも私はこの10周年を祝いたいって思ってるんだもん。10年経ったけど、私たちは何を手に入れた?」エズミーは周りを見回しながら、涙をこらえていた。これまで何度も見てきた表情だ。自分が悩まされていることを表に出すまいと、涙の流出をこらえているのが伝わってきた。「この西ハムステッドの小さなアパートと、猫ちゃんだけね」
トムは彼女に異議を唱えようとはしなかった。それしか得るものがなかったにもかかわらず、こうして今も付き合い続けていることの奇跡を、あえて彼女に言い聞かせようとも思わなかったし、周りのみんながかつてうらやんだ関係を今も続けていることが、どれほど幸運なことであるかについても口にしなかった。
「黙ってるってことは、同じ意見なのね? 10年経っても私たちは何も得られなかった」
「そうじゃない、エズ―」
「このゲームはちょっと面白かったな。それがすべてね。何も得られなかったけど、なかなかいい思い出は結構できたじゃないって思えたから」彼女は椅子を壁際まで引くと、立ち上がった。
「頼むよ」トムは手を伸ばして彼女を引き止めようとしたが、自分が言い過ぎてしまったこと、そして、少なくとも今は、発言を撤回することもできないことはわかっていた。
彼女は彼を無視し、キッチンへ向かってすたすたと細い廊下を歩いていった。すると、キッチンからオーブンのドアが開く音がして、冷たく硬い黒のタイルが敷き詰められたキッチンの床に、ガシャンとお皿がぶつかる音がした。記念日のために焼いた料理が入っていたのだろう。それから、いつだって聞きたくはない、ましてや自分がその原因だなんて耐えられない、低くくぐもったすすり泣きが聞こえてきた。最後に寝室のドアがバタンと閉まる音がして、静寂が訪れた。
一人になった彼は、パンの入ったバスケットや、エズミーがテーブルの上に飾った赤ワインのミニチュアボトルを見つめていた。メモ用紙で作ったカードの束の一番上には、『1日でめぐる私たちの人生』と書かれていて、時計の絵が小さく描かれている。
トムはカードの束を手に取ると、もう一度パラパラとめくってみた。
そしてめくりながら、自分ならどの瞬間をそれぞれのカードに記録するだろうかと自問した。二人が出会った夜、は外せないだろう。それから、最初の記念日。無残な結果に終わったけど、あの海岸への旅行も入れるな。エズミーの30歳の誕生日も。
しかし、と彼はそこで思った。この僕らの10年を形作ってきたものは、もっと曖昧模糊とした、記録されることもなく流れていった時間の集積ではなかったか。二人の会話も、最初は探り探りだったけど、だんだんと言外の意味が広がっていき、今では少し話すだけで、彼女の内面まで見えるようになった。小さな物事が積み重なり、いつしか大きなうねりとなって、僕らをもう戻れないところまで連れてきたのだ。
彼女が知らない出来事やアクシデントについては、24の重大事に入れた方がいいのだろうか。今まで彼女に言わずに秘密にしてきた裏切りや過ちは? 彼女に嘘をついてきたことは?
エズミーは僕らが楽しめたらいいと思って、このゲームを作った。けれど、なんでもかんでも言ってしまったら、楽しめなくなってしまうだろうな、とは知れた。トムは、彼女がラウンジと呼んでいるリビングを見回してみた。いろんな物に囲まれていた。どれを見ても、このカードに書き込めるような出来事を思い出す。良いことも悪いことも。壁の写真には、サマセットまでキャンプ旅行に行った時の二人が写っている。あの時は、雨でテントが崩れて大変だった。初めて一緒に暮らした部屋で、彼女が紅茶を飲むのに使っていたマグカップ(今はペン立てになっている)もある。
トムは外に出て、思い出の品々が目に入らない場所で考える必要があった。
彼はテーブルから立ち上がると、できるだけ静かにアパートの廊下を歩き、キッチンの中をちらっと見てから(猫のマグナスが、エズミーが床にぶちまけたラザニアの残骸を美味しそうに食べていた)、寝室のドア(今は固く閉じられ、ドアノブに触れることさえ許されない)の前を通り過ぎた。彼はランニングシューズを履くと、雨を避けるために薄手のジャケットを羽織り、玄関のドアを開けた。
〈アイラ・ガーデン〉に続く小さな共有スペースに出ようとした時、トムはエズミーのゲームカードをまだ後ろのポケットに入れていることに気づいた。彼はそれを取り出し、最後にもう一度見つめてから、使い込まれてボロボロの肩掛けかばんの底に落とした。それから、そっと後ろ手でドアを閉めた。
チャプター 19
午前4時~5時
あのホテルの部屋
2017年2月 — アルバート・ドック、リバプール
彼の携帯は、ホテルの部屋のどぎつい模様のカーペットの上で、ひたすら震え続けていた。それより前に彼の後ろポケットから滑り落ちた携帯は、画面側をカーペットにつける形で落ちていたため、画面の点滅も、彼女の名前も、彼女が電話をかけてくるたびに表示される二人で写った写真も、彼の目には届かなかった。応答がないまま留守番電話サービスの案内が流れ出し、彼女が通話を切ると、また一つ不在着信の表示が上乗せされた。それから数分間は沈黙が続いたが、再び携帯は震え出すのだった。
彼女が繰り返し電話をかけていた相手は、まだ気を失ったまま、死んだも同然の状態で、周りのすべてに気づくことはなかった。
ようやく、午前4時を過ぎた頃、携帯が震えている音にぼんやり気づいた彼だったが、床からの高さが結構あって寝心地も悪いベッドから、手を下ろしてそれを拾い上げるまでには、さらに10分か15分を要した。驚いたことに、充電器に繋がれていなかったにもかかわらず、一晩経ってもバッテリーは持ちこたえていた。スマホの側面のボタンを押すと画面が光り、こんな時間に彼を起こした原因が、ずらっと画面に表れた。16件の不在着信、4件のボイスメール、9件の未読メッセージの通知に、眠い目が大きく開く。そのどれもがエズミーからのものだった。
トムはスマホのロックを解除し、指でスクロールし始めた。夜中の12時頃に最初のメッセージが届き、最新のものは10分前に届いていた。
トム。いつなら話せる? 一日中働いてたのは知ってるけど、もう終わってるでしょ。休憩も取らなかったの?😘
本当は寝たいんだけど。ひどい一日だったわ。電話ください😘
大丈夫?
トム。こんなのふざけてるわ。1日中音沙汰なしで、夜中の1時になっても連絡がないなんて。
本当に心配になってきたわ。トム、お願いだからメールして。
眠れないの。涙が溢れてきた。あなたは行くべきではなかった。これは何かの間違いよ。電話ください😘
あと30分しても連絡がなければ、警察に電話する。
本当に心配なのよ、トム。何があったにせよ、無事だけは知らせて。
これから警察に電話するわ。無事なら電話ちょうだい😘
彼は手の力を抜き、スマホをするりと落とすと、目をぎゅっと閉じた。
昨夜のことが懐かしく、ほとんどノスタルジックな面影を持って、まぶたの裏に蘇る。毛皮を噛んだような、食べ物が腐ったような味がする。普段使わない筋肉を使ったせいか、手足が痛む。皮膚が汗をかこうとしているのか、肌がチクチクと火照(ほて)りを感じる。血液が気だるく静脈を流れていくような感覚。逃れようのない吐き気が襲ってきて、押しつぶされそうな頭痛が走る。
二日酔いだ。と思ったが、同時にまだ少し昨夜の酔いが続いていたこともあり、その思考も薄れていく。
エズミーと出会う2ヶ月前、病院で目覚めたあの朝以来だった。つまり、ほぼ10年ぶりに経験する、飲んでしまった感。この10年間、二度とこんな嫌な後味は経験すまいと、彼女を失望させまいと、心に誓っていたはずなのに。それなのに...渇望(かつぼう)は先月辺りからますます強くなるばかりで、ついに最高潮に達した欲求は、振りほどけないほど鋭敏になっていた。
何か正しい対処法があれば、どうにかなったかもしれない。しかし自分の周りに、これだという対処法は一つも見当たらなかった。自分のせい以外の何物でもない。またやっちまった。
突然、彼は何かに気がついた。誰か、と言った方が正しいだろう。自分以外の呼吸音が聞こえ、枕元に自分のではない腕があった。マットレスのすぐ隣が自分以外の体で沈んでいる。その体が少し動き、触れた肌からは体温が感じられた。
彼は寝返りを打つようにして、そちらを向いた。やはり、同じベッドで誰かが寝ていた。それが誰で、どうしてこうなったのか、記憶をたどろうとする。彼女が誰かはわかったが、だからといってこの状況は変えられない。
「なんてことだ」とトムはささやいた。上半身を起こし、ホテルのベッドに座り込む。彼はボクサーパンツしかはいていなかった。足元がおぼつかない感じで、インフルエンザの病み上がりの時みたいに足が震えた。
静かに眠っているルイーザにもう一度目をやると、布団をめくって彼女が着ているものを確認したくなった。彼女が服を着ていればいいと願いつつも、どうせ何も着ていないのだろうと思い、めくるのはやめておいた。このようなことは以前にもあった。トム・マーレイ的とも言える、典型的な失敗例だ。長い間記憶の奥底に放っておいた、埃をかぶった台本を演じ直している気分だった。
おずおずと、彼はトイレに向かった。小銭やコートが置かれた机の横を通り過ぎた。壁にはテレビが備え付けられていて、平凡な水彩画も掛かっている。一歩歩くごとに素足を通して、カーペットの弾力や毛触りを感じた。意識が必要以上に鋭敏になっていて、現在経験しているすべてを逐一(ちくいち)全身が感じ取ろうとしている。ライトをつけて、明るく白い、病院のように殺風景なバスルームに足を踏み入れた瞬間、圧倒的な悪臭に見舞われた。自分が昨夜吐いた嘔吐物に違いない。お風呂の中には、彼が着ていた服が無造作に脱ぎ捨てられていた。ジーンズと〈ベンシャーマン〉のシャツが、浴槽の隅でくしゃっと丸まっている。シャツは湿っていて嘔吐物で汚れていたが、ジーンズは大丈夫そうだった。彼はそのジーンズを穿くと、旅行かばんからTシャツを引っ張り出した。寝る時に着るはずだったTシャツに、遅ればせながら首を通す。
トムは昨夜のライブを必死で思い出そうとする。
昨夜はキーボードではなくギター担当だった。それくらいは覚えているが、こんな状態でどうやってギターを弾いたんだろう? 昔は少しくらい飲んだところで大丈夫だった。大丈夫どころか、時には少し自信がつき、間奏のソロでは大胆になり、ステージでの存在感も増したほどだ。しかし最後に酒が入った状態で演奏したのは、15年も前だった。観客とバンドメンバーをがっかりさせるような、ひどい演奏をした可能性が極めて高い。もしかしたら、パーティーを台無しにして、ギャラも貰えなかったのかもしれない。彼はほとんど何も覚えていなかった。かろうじて覚えているのは最初の曲で、ブラーの『カントリー・ハウス』を演奏していた時、目の前のダンスフロアで観客が上下に飛び跳ねていた様子がぼんやりと蘇る。
ホテルの部屋のドアをできるだけ静かに開け、トムは廊下へと足を踏み出した。清掃用具の臭いがむっと立ち込めていて吐きそうになるが、吐き気をこらえながらエレベーターに向かった。両隣の部屋には、昨夜からいろんな物音が聞こえていただろうか? 自分の記憶を手繰り寄せるよりも、隣の部屋の人に聞いた方が、昨夜何があったか詳しくわかるかもしれない。
受付に座っていた夜間担当の従業員が彼の顔を見て驚いた顔をした。あるいは、彼ではなくても、日曜日のこんなに朝早くから誰かが出てくることに驚いたのかもしれない。彼女が「おはようございます!」と朗らかに挨拶してきたから、彼は気まずくなりつつも頭を下げて前を通り過ぎた。明るいライトに照らされた窓のないロビーをそそくさと歩き抜ける。ガラス張りの自動ドアを抜けると、ひやっと朝の冷気が頬を叩き、波止場の方から新鮮な空気に乗って、海の匂いが鼻に届いた。
トムはホテルを離れ、海の匂いに誘われるように埠頭(ふとう)までやって来た。海に面した赤レンガの〈テート・ビルディング〉は、今は現代アートの美術館になっている。水面にはボートが何隻か揺れながら浮いていて、観光客を乗せるクルーザーが待機している。黄色い潜水艦も一隻だけ海上に姿を現していた。彼は夜明け前の海を眺めつつ歩を進めながら、これから自分がしようとしていることは正しい行為なのかと考えていた。嘘を嘘で塗り固めるような、自分の過ちの数々にさらなる欺瞞(ぎまん)の筆を走らせ、自分でもわけのわからない曼荼羅(まんだら)を仕立て上げようというのか? いっそのこと、潔く白状してしまった方がいいのではないか? 自分の過ちを認めてしまった方が...というか、過ちの数々を。
しかし、タイミングが悪かった。
よりによって、なんで昨夜なんだよ。
赤レンガの壁を背に、彼はスマホを取り出すと、自分のメールアカウントにアクセスし、メールを書き始めた。
おはよう、エズ
昨日から連絡できなくてごめんね。ライブの時にスマホと財布を盗まれちゃって、困ったよ。今はホテルのフロントでパソコンを借りて、これを送信してる。連絡がこんなに遅くなって(あるいは、こんなに早い時間に)ごめん。警察に行って被害届を書いて、状況とかを説明してて、やっと30分くらい前にホテルに戻ってきたんだ。今日の午後1時ごろには帰るよ。
君が無事であることを祈ってる。
愛してる。
トムより😘
彼は画面の下に表示されている、Sent from my iPhone(アイフォンから送信)の文言を削除してから、送信ボタンを押すと、赤レンガの壁に寄りかかるように腰を下ろし、足を伸ばして海を眺めた。
彼の人生は自己嫌悪の連続だったけれど、この時以上に自分を嫌いになったことはなかった。エズミーが怒るだろうな、とは思った。どうしてもっと早く連絡できなかったのよ、と。でもそんな口論は、2、3日もすれば断ち切れになり、僕らはそれを過去の出来事として乗り越えていくのだろう。とその時は思った。だけど、実際は...
罪悪感が体内に残ったアルコールに混じって、血管をめぐっているようだった。トムはスマホの電源を切ると、アルバート・ドックの海面に向かって、それを投げ捨てた。黒光りする水面に、黒光りする画面が浮かび上がって、しばらく浮いたまま漂っていたが、ふっと見えなくなると、秘密の数々を内包したまま、水面下に消えていった。
トムがホテルの部屋に戻り、重いドアを押し開けると、その音でルイーザが眠りから目覚めたようだった。彼女は枕に寄りかかるように上体を起こすと、ベッドのライトをつけ、薄明かりの中で彼を見た。彼女はTシャツを着ていたが、彼女のジーンズやブラジャーは、ベッド脇の絨毯(じゅうたん)の上に無造作に散らばっているのが目に入った。
「おはよう」と彼女は眠そうな声で言った。「どこに行ってたの?」
「ちょっと新鮮な空気を吸いにね」
彼女はうなずいた。「気分は良くなった?」
「あまり」
「でしょうね」と彼女は言った。「仕方ないわ。禁酒してたんでしょ? 10年もだっけ?」
「ほぼ10年だね」と彼は条件反射的に返したが、一瞬遅れて彼女の言葉に驚き、少したじろいでしまう。「それ、誰に聞いたの?」
「モグスよ。って言っても、それを聞いた時には、君はもうだいぶ飲んでいて、手をつけられない状態だったけどね」
「なんてこった」トムはソファにくずおれるように座ると、両手で頭を抱えた。「ライブは? 大丈夫だった?」
「うーん、まあ」
「マジかよ」と彼は言い、再びこみ上げてきた吐き気をぐっとこらえた。「どのくらいひどかった?」
「まあ、君はギャラをもらえなかったくらい、かな」
トムは片手でチョップするように自分の額を叩き始めた。
「やめて、トム」とルイーザが言った。「自分を責めても仕方ないでしょ―」
「仕方なくないよ」と彼は彼女の発言を遮った。「僕が悪いんだから」
二人はしばらく黙っていた。知人に過ぎなかった二人は、昨夜久しぶりに再会し、意気投合したのか何なのか、望んでいたわけでもないのに、親密になってしまった、らしい。昨夜何が起きたのか、本当のところを知らなければならなかった。自分は何をしたのか、―あるいは二人で何をしたのか、―彼が聞くのをためらっていると、ルイーザが口を開いた。
「あのね。ごめんなさい。ソファで寝ようとしたんだけど、眠れなくて。体を伸ばせないとダメね。だからってお風呂で寝るわけにもいかないでしょ、理由は明白だけど」
「べつにいいよ」とトムは言いながらも、彼女が何を言ったのか、彼女の発言が何を意味しているのか、理解するのに時間がかかった。少なくとも、意味しているかもしれない事実に気づくまでに。
「ごめん、ルイーザ。こんなこと聞くなんて、ひどいってわかってるけど、その、なんて言うか、僕たちはベッドで...」
「トム」
~~~
〔チャプター 19の感想〕
これは、自業自得じゃね!笑
藍の場合、一途だったにもかかわらず、捨てられたからね!←一途の方がキモいんだよ!!爆笑
ギリで浮気はしてないのかな?笑←いやいや、同じベッドで寝たけど、してない、的な??爆笑
~~~
チャプター 20
午後4時~5時
自制が利かなくなった日
2017年2月 — ハノーバー・ストリート、リバプール
彼はすぐに彼女に気づいた。彼の2本のギターと、ライブ用の機材があれこれ詰まった大きな旅行かばんを抱えて会場入りした瞬間、彼女に気づいたのだ。彼女はステージ上でベースをチューニングしながら、バンド仲間と談笑していた。
トムがルイーザに会うのは、ほぼ10年ぶりだった。トムが時々参加していたオアシスのトリビュート・バンドが、ルイーザのバンドと共演した時以来だった。彼女のバンドは1980年代に流行った曲ばかりを演奏していた。あの時は、たしか会場がチェルトナムにあって、有名なエンジニアリング会社が主催するクリスマス・パーティーだった。午後9時頃には、へべれけに酔っ払った社員が我が物顔で騒ぎ出し、ステージ上まで上がってきてマイクを奪うと、リアム・ギャラガーになりきって、調子外れの歌をがなり立てていた。
かつて、トムとルイーザはすぐに打ち解けた。どこかの会場で出演バンド同士顔を合わせるたびに、気さくに近況などを喋り合っていた。二人の間には、火の粉がパチパチとくすぶっているような、恋の予感が漂っていた。しかしタイミングがなかなか合わなかったし、最後に会った時も同様だった。トムはエズミーと付き合い始めたばかりで、ルイーザも、学生時代の同級生と婚約したばかりだった。彼は税理士をしていて、大学を卒業してからは一度も会っていなかったのだが、ネット上で再会を果たしたという。お互いにバンド活動に費やす時間を徐々に減らし、築き上げつつあるそれぞれの生活を優先していた頃だった。
「彼はくすぶっていた火の粉をつついて、私を燃え上がらせたのよ」と、彼女は婚約者に関して、トムへの当てつけのように言った。「そこからすべてが始まった感じね」
その後間もなく、トムは〈スーパーソニック〉の活動を休止した。必然的にルイーザと顔を合わせることもなくなり、彼女のことを思い出すこともなくなり、かつての友情と言えるのかどうかわからないが、仲の良い関係も色あせてしまった。
だから、会場に入り、彼女の姿が目に入った時には、びっくりしてしまった。それから、彼女が80年代に流行った〈バングルス〉の『Manic Monday(慌ただしい月曜日)』をリハーサルとして弾き始めた。その完璧な演奏っぷりに釘付けになりつつ、一気に当時の記憶が蘇る。
トムはライブ会場の後方の席に座り、彼女の演奏に見入った。ルイーザは、あれから10年近く経っているというのに、ぱっと見た感じの印象はあまり変わっていなかった。髪は少し伸ばしているようで、無造作なボブヘアーだった。当時は髪に入れていたピンクのメッシュは消えていた。当時の彼女はベルボトムのジーンズを穿き、〈ホール〉か〈アーニー・ディフランコ〉か〈ザ・ホワイト・ストライプス〉辺りの有名バンドのロゴが入ったタイトなTシャツを着ていたが、今は、黒のスキニージーンズに、無地の白いオックスフォードシャツというシンプルな服装に変わっていた。そういえば、彼女はまだ舌にピアスをしているのだろうか、と思った。当時はカメラを担いだスタッフが彼女に近づくたびに、紫色に塗られた唇から舌を思いっきり突き出し、ピアスを見せつけていた。
ボーカルがモニターの返し音量について文句を言い出し、曲はサビの途中で断ち切れとなった。ポンポン、ガシャガシャとそれぞれの楽器が一旦音を閉じる。彼は思わず立ち上がって、大きく手を振り、サウンドチェックをしている彼女の視界に入り込もうとしたのだが、腰が浮く寸前に、近くのドアが開き、この後一緒に演奏することになっているバンドメンバーが、ベースやドラムスティックがはみ出たバッグを抱えて入ってきた。
7年前、彼らと最後にライブをした時以来、一人を除いて誰とも会っていなかった。あの時もトムはサポートメンバーだった。レギュラーメンバーのギタリストの奥さんが産気づいたそうで、彼が出産に立ち会うため参加できず、トムが助っ人ギタリストとして呼ばれた時以来だった。ドラムのスティーブン・モグガック(通称モグス)とは、たまに出くわすことがあった。彼もサッカー好きで、彼はアーセナルのファンらしいが、北ロンドンでは段々少なくなってきたスポーツバーで、タパスやクラフトビールをお供に、大画面でサッカー観戦をしている彼を見かけることがあった。そんな時にはバンドの近況を聞いたりしていた。今夜の代役をトムに依頼したのも、モグスだった。
「宿敵リバプールの本拠地に乗り込んできたぞ」と、モグスが細いタバコを指でくるくると回しながら言った。「90年代のカバー曲を2時間やる。主催者はレストラン・チェーンの経営者で、40歳過ぎのおっさんだ。ニールはディズニーランドで家族サービス、元家族と言った方がいいな。元妻が子供たちに会わせてくれる貴重な機会なんだとよ。お前は空いてたんだろ? 腕もまだ健在だよな?」
腕はそれなりに大丈夫だが、タイミングは最悪だった。でもエズミーの病院の費用とかもろもろで、1,000ポンド(約15万円)ほど必要だったから、エズミーがトムに、お金のために行ってきて、と言ったのだ。内心は、彼女に背中を叩かれなくても、行きたかった。何年も前に遠ざかってしまったバンドやライブ音楽の世界に、もう一度包まれてみたかった。ステージライトのまぶしさの中で、観客たちがボーカリストの歌声に負けじと上げる大声を浴びながら、最近の日常を覆い尽くすどんよりとした靄(もや)を吹き飛ばすように、いろんなことを忘れたかった。
彼はモグスの依頼を受けた。
「トム!」ルイーザが声を上げた。ほとんど忘れかけていた、どことなく育ちが良さそうな甲高い声だった。彼女はサウンドチェックを終え、バーを兼ねている会場の、一段高くなったステージから降りてきて、バンドメンバーに近況を聞いていたトムのところにやって来た。「伝説の、かどうかは知らないけど、トム・マーレイじゃない!」
ルイーザはトムの体に腕を回し、まるで長く海外で暮らしていた旧友に10年ぶりに会ったかのように、ぎゅっと抱きしめた。
「いったい、そんな腑抜けた顔しちゃって、どうしたのよ?」と彼女は言った。そういえば彼女は、どんな状況でも悪気なく悪態をついてくる女の子だった、と思い出す。「こんなところで会うなんてね。トム、どうしてた?」
「元気でやってたよ、ありがとう。今夜は、90年代のトリビュートバンドの一員として演奏するんだ」
「マジで? 君はもうとっくの昔にやめたと思ってた」
「そうなんだけど、一夜限りの復帰だよ。かっこよく言うと、ワンナイトスタンドかな。いや、スタンドってそういう意味じゃなくて。とにかく、君は? 君だってもうやめたと思ってたけど」
「まあね。結婚を機にいったんはやめたんだけど、子供が二人できて、なんやかんやあって、離婚も経験して」と彼女は言った。「そして今、私は戻ってきたの。だからこれは、ある種の中年の危機的帰還と考えてもいいわ」
「じゃあ、昔のバンドを再結成したってこと?」
「そんなところね。トーニャはアマーシャムでヨガのインストラクターをしていて忙しいみたいだから、今はスリーピース・バンドだけどね。君たちの前に私たちが45分間、80年代の懐かしい名曲たちを演奏するわ」
「前座というか、僕たちのオープニングアクトってこと?」
「おい!」と彼女が彼の腕を叩いた。「対バンって言ってよね。対等な立場よ。主催者の趣向みたいね。バンドを2組呼んでパーティーを豪華にしたかったんじゃない? もしくは、お金をばらまくのが好きなのか。それはともかく、君は今どこに住んでるの?」
トムが答えようとした時、ステージ上から自分の名前が呼ばれるのが聞こえ、内心ほっとした。というのも、自分の人生について聞かれても、いったいどこから話せばいいのかわからなかったし、ましてやルイーザの人生について、何から聞けばいいのかわからなかったからだ。なぜ離婚したのか? 子供は何歳? 何がうまくいったの? そしてもっと重要なのは、何がうまくいかなかったのか?
「あ、呼ばれた。僕もサウンドチェックをしなくちゃ。でも、ちょっとその辺で待ってて。後でまた話そう」
『A Design for Life(これも一つの人生設計さ)』だけを25分間ひたすら演奏し、リハーサルを終えたところで、トムはカウンターの近くの丸テーブルにいるルイーザを見つけた。彼女は脚の長い椅子に腰掛けており、彼女の前に置かれたグラスの中では、透明な冷たい飲み物が泡を立てている。スマートフォンの光に顔を照らされながら、彼女は画面を指でスクロールしていた。
トムが丸テーブルを挟んで彼女の向かいの椅子に腰掛けると、彼女は顔を上げて、「やっと来たわね」と言った。リハーサルを終えてからライブが始まるまでのこの時間だけは、どうしてもそわそわしてしまう。宙ぶらりんの時間が無限に続くかのようで、何度経験しても慣れなかった。「じゃあ、まず君から。この10年のことを話して」
そしてトムは、彼女にほとんどすべてのことを話した。エズミーのこと、二人の出会い、ロンドンで同棲していること、企業のイメージビデオ用の音楽を作曲する仕事、お金持ちの家の子供にレッスンをしていること、音楽教室でも教えていること。かつてルイーザとともに歩んできたライブハウスをめぐる生活からはすっかり遠ざかり、今は落ち着いた生活を送っていること。
しかし話しているうちに、トムは自分の言っていることの多くが、中途半端な真実であることに気がついた。まだ結婚はしてないと言った時、去年サプライズでプロポーズを試みたけど失敗した話は省略したし、このところ金銭的にも大変で、こうしてリバプールまで来たのも、作曲や編曲の仕事がさっぱりなくなってしまったからだというのも省いた。住宅ローンの支払いはすべてエズミーに任せっきりだということも話さないことにした。
彼は話しているうちに段々と、人生の別バージョンをでっち上げているのだとわかってきた。自分とエズミー、二人の関係を見栄え良く仕立て上げたバージョンを、他の人に見せたいだけなのだ。実際の人生とはまるで違う、不幸や秘密や傷心をいっさい描かない、いろんなところがぼやけたポートレート。
それから、ルイーザに「君たちに子供はいるの?」と聞かれ、トムは「まだいない」とだけ答えた。
もちろん、それは事実だった。けれどその言葉には、トムが素っ気なく口にした以上の、多くのことが隠されていた。3週間前、エズミーのお腹には小さな命が宿っていたこと。大晦日に妊娠を知った時には、涙が出るほど嬉しかったこと。しかし、そんな喜びもつかの間、二人の関係が切実に必要としていた新たな命が失われてしまったこと。出血、血液検査、hCGの不規則な数値、町医者の対応や、耳にした「生存不能」「高リスク」といった言葉も省かれていた。
トムは何かを隠している素振りをルイーザに見せなかった。流産のショックも、自分がどれほど悲しかったかも、それでも、エズミーはもっとつらいだろうからと、彼女の支えになるために悲しみを抑え込んだことも、何も話さなかった。エズミーはこのことを友達に話してもいいと言った。だからアナベルにはざっくりとは話したけれど、それでも、内面に湧き上がった感情までは、アナベルにも打ち明けていない。
表面上は冷静を装い、トムは、落ち着いて、と自分に言い聞かせながら生活してきた。しかし胸中では、葛藤が絶えず渦巻いていた。金銭的に厳しくなってきたことを知って、トムはカウンセラーのクリスティーンに会うのをやめた。もうすっかり具合が良くなったから、と嘘を言ったのだが、実際は、2年前の大晦日に倒れて以来、彼の不調はまだ回復していなかった。むしろ悪化の一途をたどっているかのようで、ここ数年で最悪の鬱症状や不安神経症に陥っていた。生活の混乱の中で、トムはエズミーにそれを悟られないように気を配っていた。
「まだいない」とトムは繰り返した。ルイーザは肩をすくめると、「子供はやめといた方がいいわ」と、子育てのストレスについて冗談を言った。もちろん、知る由(よし)もない悲しみに、配慮なんてできるはずもない。
トムはお茶を濁すように笑って、すべてを忘れようとした。自分がこんな人間になり果てたことに、つくづく嫌気が差す。何ができたのかと過去を悔やみ、どうやって乗り越えればいいのかもわからず、ごちゃごちゃ考えては不安ばかりがつのっていく男。エズミーとの生活がどうなるのか心配で、自分がもがいていることも見えなくなっている男。自分で築き上げた世界なのに、その重みに押しつぶされ、ますますその世界の意味がわからなくなっている男。それが今の自分だった。
こんなふさぎ込んだ自分は投げ捨てて、前みたいに戻りたいと思った。ギターをかき鳴らし、観客を踊らせ、二次会ではしゃぐ、それ以外のことはいっさい考えず、流れに身をゆだねる男。バーでいろんな人に絡み、喋り、馬鹿笑いに興じる男。そんな前のバージョンに戻りたかった。
ルイーザが話している間、トムは彼女が時折りジントニックに口をつけるのを見ていた。彼女の口の中に広がっているだろう、アルコールの味を思い出していた。何年経っても、それがどんな味だったか、彼はすぐさま思い出すことができた。最初の1杯が喉を通る時の爽快感。始まったな、という喜びとともに緊張がほぐれ、2杯目は舌で転がすようにじっくり味わうのだ。3杯目になると、落ち着きが訪れた、と実感する。問題は、杯数がどんどん増えてきた時だ。でも今はそこまでは考えていなかった。
トムは混乱し、不安を感じていた。自分を信じることができない。心臓の鼓動が激しく速まる。なんとか自分を落ち着かせたかった。そのために最も効率的な、最良の方法を彼は知っていた。でも、それは大きな一歩であり、なかなか踏み出せずにいた。
「僕を止めてくれ」とルイーザに言いさえすればいいのだが、言い出せない。自分が今どう感じていて、これから起こるだろうことを彼女に伝えればいいだけだ。そうすれば、彼女は、じゃあ飲まない方がいいわね、と僕を制してくれるだろう。しかし、理性とか合理的な判断なんてものは、もっと純粋で根源的な欲求の前では、ちんけな奴隷と化す。
彼女の子供の一人がダイニングテーブルを壊したという話の途中だったが、トムは何も言わずにテーブルから立ち上がった。そして、椅子に立てかけられたギターや、積み上げられたドラムバッグの横を早足で通り過ぎた。飲みたい欲求をごまかし、消し去るのに役立ちそうな方法を、必死で考えては実行に移してみる。足が床を打つ感触に意識を集中してみた。それから、周りのリアルな世界に焦点を当てるように、見えるもの、聞こえる音、感じる匂いなどを5つ、頭の中にリストアップしてみる。
しかし、どれもうまくいかなかった。
彼は外に出ると、にぎやかな通りの道端でスマホを取り出し、電話をかけた。相手が応答するまでの呼び出し音にすがるように、スマホを耳に押し付ける。しかし、応答したのは生のエズミーの声ではなく、彼女のボイスメッセージだった。彼はもう一度彼女を呼び出してみたが、結果は同じだった。仕方なく、彼は文字でメッセージを打った。
できる時に電話して😘😘
すぐに返信が来た。
今は無理! 忙しいの。何度も電話しないで😘
雨が降り出したが、トムはその場で、夕方の街の喧騒(けんそう)を横目にしばらく立ち尽くしていた。大きく息を吸ってみるが、空気が肺まで届いている気がしない。
無視しろ、と自分に言い聞かせた。飲みたい欲求を無視するんだ。けれど、どうすれば無視できるのかがわからない。
そこが行き止まりだった。
雨脚が強まりだし、トムはスマホをポケットに入れ、店の中に戻った。テーブルではルイーザが彼を待っていた。彼女の手前のグラスはもう空になっている。
「大丈夫?」と彼女が、向かいの席に着いたトムに聞いた。
「大丈夫」とだけ彼は答えた。「話を続けて」
「そっか」と彼女は言ったが、彼のぶっきらぼうな物言いに、気分を害したようだった。
彼女に失礼な態度を取っていることを謝ろうと思った。けれど、気もそぞろというか、意識が散漫になっていて、それすらもできなかった。彼女の話もほとんど聞いていなかった。結婚、離婚、子供、家、そういう単語が聞こえてはいたが、それらがつながり一つのストーリーを成すことはなかった。一応うなずいたり、微笑んだりはしていたが、それもままならなくなった彼は、突然、彼女の話をさえぎった。
「グラスが空いたみたいだから、何か別の飲み物を持ってこようか?」と彼は聞いた。
「あ、お願い。ジントニック。でもあれかな、ライブ前にあんまり飲まない方がいいかな。と思ったけど、ま、いっか。私たちは前座に過ぎないんだし、ね?」
トムは微笑むと、彼女のグラスを手に取り、カウンターへと向かった。彼はルイーザのジントニックを注文した。カウンターの向こうの女性店員がぼやけて見えた。天井や壁の高い位置で光るライトがやけに眩しい。チカチカする視界の中で、ずらっと並んだボトルを見つめていた。見慣れたボトルもあれば、初めて見るボトルもある。現役から遠ざかって10年も経つのだから、新しいお酒も入ってくるだろう。そうして自分が何をしようとしているのか、まるで別室のモニターで自分の様子を見ているみたいに、手に取るようにわかった。ついに、たがが外れる時が来たんだな、と他人事(ひとごと)のように思った。断崖絶壁で力をゆるめ、体を前に倒そうとしている自分がいた。
もう手遅れだ。どうしたって止めることはできない。
「それから...」とトムは、20ポンド札を持った手と声を震わせながら言った。「ウィスキーも。ジンジャー入りで」
「ウィスキーの銘柄は何になさいますか?」
「何でもいい」と彼は即座に言った。
トムはその女性店員がお酒を注いでいる様子をじっと見つめていた。二つのグラスが目の前に差し出され、我に返ったように彼はその横にお札を差し出した。
「お酒は飲まないんじゃなかったの?」とルイーザが、テーブルに置かれた二つのグラスを見ながら言った。彼はグラスの表面に結露した水滴を、考え込むように見つめている。ライムが一切れささったグラスの中で、氷のすき間を埋めた茶色い液体が、魅惑の輝きを放って揺れていた。
「やめてた時期はあったんだけどね」と彼は視線を下げたまま嘘をついた。彼女の目を見ることはできなかった。「今はたまに飲んでるんだ」
「そう、ならいいわ」と彼女は言った。目の前で大変な事態が起きつつあるとはつゆ知らず、彼女は無邪気にグラスを掲げた。「久しぶりの再会に」
二つのグラスが小気味よい音を立て、彼女はにっこりと微笑んだ。トムはゆっくりとグラスを傾け、魅惑の液体を喉に流し込んだ。
チャプター 21
正午~午後1時
話すべき時ではない
2017年4月 — カムデン・タウン、ロンドン
かつて住んでいた赤レンガの建物を見上げながら、今あの部屋には誰が住んでいるのだろう、とトムは考えていた。それが誰であれ、かつてあの小さな部屋で人生の一時期を過ごした人物にとって、あの部屋がどんな意味を持っていたのか、今の住人には知る由(よし)もないだろう。22歳でローストフトを離れ、父親が運転し、母親が助手席に座るワゴン車の後部座席から初めてこの建物を見た日のことは、今でもはっきりと覚えている。僕をロンドンまで送り届けるために両親が借りてくれたレンタカーだったが、大した荷物はなかったから、ワゴン車の後ろにはまだスペースが余っていた。あの日、僕は親元を離れ、独り立ちするために小さな一歩を踏み出したのだ。それには大きなリスクが伴うこともちゃんと自覚していた。
19歳の時に自殺未遂を起こし、大学を早々と退学した後は、2年ほど地元に戻っていた。昔使っていた子供部屋で寝泊まりしながら、カバーバンドを組んだり、音楽教室でアルバイトをしたりしていた。我が子が心配でならない母親が運転する車に揺られ、心療内科に定期的に連れていかれた。そんな日はまるで小学生にでも戻ったような心持ちだったし、音楽をやっている時は、これだけで独り立ちしたい、という強い野望がこみ上げてきた。少年、青年、大人、いろんな自分が表面に現れては、ぐらぐらと感情を振り回されていた。回復途中だったということかもしれないが、とにかく、なんとかして水面に出たかった。だから、初めてこの部屋の鍵を手にして、ドアを開けた瞬間の感激は、玄関前でイライラしながら待っていたニキビ面の不動産屋が想像だにしないほど、大きな内的興奮だったのだ。
旧型のトム・マーレイがアップデートされ、いわば動画での双方向通信も可能になる仕様の、トム・マーレイ 2.0 が市場に出た形だ。お酒がすっかり抜け、希望で胸がぱんぱんに膨らんだ、緊張気味の新たなスタートだった。
あの日、息子を部屋に一人残し、涙を流しながら玄関を出ていった母親の姿を思い浮かべた。「大丈夫、きっと大丈夫よ」と繰り返し言っていたあの言葉は、僕へというより、彼女自身に言い聞かせているみたいだったな。
今日は午前中、近くのチョーク・ファームでセラピーを受けた後、せっかくだからとカムデンまで来てみたのだ。表向きは、昔アナベルに言われたことを実践するためにやって来た。
「いつだって生きる理由はあるのよ、トム。それが何なのか思い出してごらん」
本当はそれよりも、エズミーの前では醜態(しゅうたい)をさらすわけにはいかない、と固く胸に誓うためにここまで来た。昔アナベルの前でさらしてしまった醜い姿、床に倒れ、口からだらしなく嘔吐物を垂れ流す自分を、エズミーには絶対に見せられない。昔住んでいたアパートを見上げながら、そう彼は改めて誓った。それでもいつか、彼女がそんな僕を発見し、慌てて救急と、僕の親に電話している光景が浮かんだ。今度は未遂じゃなくて、ちゃんと死んでるみたい、なんて思いながら、彼女は電話の発信音を聞いている。
トムが彼女に対して正直であってほしい、と彼女は常日頃から望んでいた。トムもそれは心得ていたから、表面的にはそう振る舞っていたが、実際にはそこまで至っていなかった。正直にあれこれ話そうと、細かなピースを頭に並べた瞬間に、話す気が萎(な)えてしまうのだ。何も話さない方がいいと、すべてのピースを引っ込めてしまう。問題はそんなところにあったのだが、彼はエズミーを精神的支えとして見ていたから、彼女の存在が問題を解決してくれるのではないか、とばかり思っていたから、自分の行いを省みることは今までなかった。
「僕のせいだったんだ。すべては、僕の」と彼は午前中のセラピーセッションで言っていた。このところ毎週同じ話を繰り返している。リバプールでの失態。ことが起きてしまった直後から、ありのままをエズミーに正直に話してさえいれば、こんなことにはならなかった。と彼は涙を浮かべ、カウンセラーに打ち明けた。
「彼女にそう言おうとしてるの?」と、カウンセラーのクリスティーンが言った。
「今となっては、もう無理ですよ」
「無理かどうかを決めるのは、あなたの気持ち次第よ」と彼女は言った。
トムは赤レンガのアパートを後にし、カムデンの中心街に向かって歩き始めた。リージェンツ川のほとりにベンチを見つけ、彼は腰を下ろすと、ポケットから新しく購入したスマホを取り出した。機種を変えても、過去数年間に撮った写真は一つ残らず保存されていた。指で画面をスクロールする。ビーチで撮った水着のエズミー、街中でのエズミー、ハムステッド・ヒースでの自撮り、スマートフォンのレンズ越しよりも肉眼で見た方がずっと美味しそうな、僕が作った料理。その一つ一つに、小さな物語があった。幸せや、笑いや、楽しさを二人で共有していた断片に、目が潤む。
この一つ一つが、レンガのように人生を築いていくのだ、と彼は思った。
生きていくために必要な瞬間瞬間。
生にとどまるために。
~~~
〔チャプター 21の感想〕
藍の心境にしっくり来すぎて、泣いちゃう...
~~~
これらの写真と、どれを見ても呼び起こされる思い出たちは、トムがエズミーを愛し、エズミーがトムを愛していた理由をめくるめく物語っている。夜、ヨレヨレのジャージとパーカー姿のお互いに寄り添うようにソファに座りながら、料理の腕前を競うテレビ番組を見る。朝はベッドで新聞を大きく広げ、寝ぼけまなこで読むふりをする。そんな日々が思い出される。
そのうちのひとつで目を止めた。この写真は、2016年の大晦日に撮ったものだ。ジャミラが恋人のクリスとお金を出し合って購入したというチョーク・ファームの高級アパートに立ち寄って、4人で夕食を取った。そのあと、プリムローズ・ヒルの頂上まで登り、そこに二人並んで座って、ロンドン市街地の摩天楼を見下ろしながら、エズミーと一緒に年を越したのだ。―ちなみに、クリスは研究者で、彼が言うには、癌は血液の欠陥を調べれば治療できるらしいが、トムには、なんだか眉唾(まゆつば)な話に感じられた。その夜、丘の上の彼らの周りには、ロンドン北部の高級住宅街に住む家族連れが大勢いて、中国風の提灯(ちょうちん)を夜空に放っていた。その周りでは、子供たちが走り回ったり、ズボンを泥だらけにしながら、小高い丘を滑ったりしていた。
カチッと腕時計の針が12時を指し、新年を迎えた瞬間のことをトムはありありと思い浮かべた。彼とエズミーはお互いに向き合い、まっさらな気持ちで新しい年を迎える心構えができたと感じていた。
「愛してる。そして、今までいろいろごめん」と彼は言った。提灯の一つが、彼らの背後の裸の木にあやうくぶつかりそうになりながらも、夜空に舞い上がっていった。
「私も愛してるわ」と彼女は言った。「ねえ、今年は謝る回数を減らそうか?」
二人はキスをした。ひとしきりお互いの体を抱き締め合ったあと、彼女が、二人で自撮りしましょ、と言ってスマホを取り出した。そして、21世紀のひとコマを記録する係になった気分で、遠くに打ち上がった花火をバックに、二人顔を寄せ合ってこれを撮ったのだ。
あれからまだ半年も経っていなかったが、トムには、一生分の時間がその間に過ぎたように感じられた。周りの人たちも、顔は見覚えがあっても、まったくの別人のようだ。そういえば、人体は7年ごとに細胞が生まれ変わるという記事を読んだことがある。7年で、細胞的には完全に別人になっているらしい。
では、心や魂はどうなのだろう?
この写真を撮ってからわずか3週間後、二人は妊娠初期病棟にいた。エズミーの検査が終わり、流産という悪い知らせを突き付けられたあと、彼女が何か飲みたいと言ったから、〈ザ・ジョージ〉に立ち寄った。それから家に帰って、ちょっと昼寝する、と言ってベッドルームに入っていった彼女の背中を見送ると、トムはバスルームに閉じこもり、15分ほど膝を抱えて泣いた。
そしてバスルームから出てくると、何事もなかったような顔で振る舞うことにした。
リージェンツ川を眺めながら、これからも二人で生きていくためには、何かを変えなければならないと思った。
トムは再び物思いに沈んでしまう前に、思い切ってエズミーに電話をかけた。
「今何してる?」と、彼は丁寧な挨拶のたぐいを省いて言った。
「書類仕事だけど、どうして?」
「今から会えないかな? と思って。今カムデンにいるんだ。リージェンツ・パークを散歩してもいいしさ、コーヒーを飲んだり」
「そうね」と彼女は戸惑い気味に言った。「トム、体調は大丈夫なの?」
「ああ、快調だよ」と彼はなるべく明るい調子で言った。「ただ...その、君に話したいことがあるんだ」
「話したいことって? ヒントだけでもちょうだい」
「いや、ヒントとか、そういうのはない」
「あなたがそういう風に誘ってくるのって、文字通り初めてね。10年間、あなたは家で仕事をしていて、私が外で働いてたってのもあるけど、あなたから公園でコーヒーを飲もうなんて、今まで一度も言ったことなかったじゃない」
「それはそうだけど―」
「なんだか私が誘いを拒んでるみたいに聞こえたら、ごめんなさい。そうじゃなくて、誘いには乗りたいんだけど、ただ、どういう風の吹き回しなんだろうって、びっくりしちゃって」
「たまにはそういうことをするのもいいかなって。待ち合わせして、デートみたいに」
「あなたのそういう考え方好きよ。付き合ってるのに今さらって気もするけど、初心に戻る感じで新鮮かもね」
「じゃ、今から会える?」
「わかったわ。そうね、20分後に地下鉄の出口のところでいい?」
「じゃ、そこで待ってる」トムはそう言って電話を切った。急展開で会うことになり、蝶が胸の中で羽ばたきだしたみたいに、ハラハラドキドキしだした。具合が悪くなる兆候のようにも感じられた。これが吉と出るか凶と出るかは判然としなかったが、どちらかには転がってしまうだろう。
リバプールへの演奏旅行で、携帯を投げ捨て、代わりにひどい二日酔いを抱えて、ロンドンに帰ってきてからずっと、トムはエズミーに話すべきかどうか迷っていた。過ちを犯したからといって、それで悪い人間になってしまうわけではない。それはわかっていたが、今回のことは、そういう次元を超越してやばい気がした。
トムはカムデンタウン駅の出口に立っていた。彼の周りには人々がごった返していて、みな思い思いにカフェに入ってコーヒーを飲んだり、ライブのチラシを配っているパンク風のチンピラを避けるように通り過ぎたりしていた。トムの前を、なんとなく見覚えのある有名人(テレビドラマで見かけた女優だったか、バラエティー番組の司会者だったか?)が通り過ぎていった。バイオリンを肩に乗せた大道芸人が、〈オアシス〉の曲の冒頭部分を、ビブラートを利かして奏で始めた。
その日はうららかに晴れ渡った春の日だった。―これなら夏服でも大丈夫だろうと人々に視覚的に思わせるトリッキーな季節だ。トム自身は、ジーンズに深緑のTシャツを着て、その上にボタンのない薄手のカーディガンを羽織っていたが、少し肌寒かった。
エズミーにしては珍しく約束の時間を過ぎても姿を現さなかったので、彼はメールを再び開いた。
発信 : louisamctell1979@geomailer.com
宛先 : tommurraymusic@geomailer.com
2017年4月2日
Re : ごめんなさい
こんにちは、トム。
あのね、もう何度目かわからないけど、あなたは私にそう何度も何度も謝り続ける必要はないのよ。
あの夜、あなたの身に何か悪いことが起こったのはわかってる。私がその場にいて介抱してあげられて、それは良かったって思うけど、もしあなたが私に...そういうことをしたって勘違いさせてしまったのなら、私の方こそ、ごめんなさい。ソファで寝ればよかったんだけど、ほんとにひどい腰痛持ちで、ソファでは寝られないの。自分の部屋のソファでも無理だし、私専用の高価な枕を使ったって無理なんだから(もうボロボロの枕だけど、愛着があってね)。
とにかく、元気にしてる? トム。色々あったけど、リバプールで君に再会できてよかったよ。あれからしばらく経つけど、これからも連絡を取り合えるといいわね。
ルーより😘
追伸 : 参考までに言っておくと、私はもうルイーザ・マクテルじゃないの。メールアドレスをまだ変えてないだけ。離婚すると、いろいろ変更しなきゃいけないのよね。昔みたいにベーシスト、ルイーザ・スコットとして、現役復帰よ。
もう何度も読み返したが、彼はまだ返信していなかった。「元気にしてる?」と聞かれても、ここ数週間具合が芳(かんば)しくなく、何とも答えられない状態だったのだ。返信しないでメールを眺めている方が楽だった。
「もう他の女の子とメール? 呆(あき)れちゃうわね。たったの5分遅れただけなのに」と、背後からエズミーの声がした。
トムは振り返りざまに、慌ててメールアプリを閉じ、スマホをロックしてジーンズの後ろポケットに押し込んでから、エズミーの顔をちゃんと見た。トムはなんとなくその変化に気づいたものの、具体的に何が違うのか理解するのに数秒かかった。
「あ、髪?」と彼が言うと、彼女はうなずいた。「え、どういうこと? いつ切ったの? エズ」
「えっとね、私、あなたに嘘をついちゃったかもしれない。今日は午前中から仕事の予定が入ってるって言ったけど、実は、美容院に行くために午前中、仕事を休んだかもしれない」
「え、じゃあ、今日切ったの?」
「うーん、もし昨日切ったのなら、あなたは昨日気づいたはずなんだけどな」
「そりゃそうだ。昨日なわけない。ごめんごめん」彼はそう言って、彼女をじっと見つめ、その新鮮さを受け止めた。今まで付き合っている間、エズミーはずっと、少しウェーブがかった髪を肩にかかるか、かからないか程度の長さでキープしてきたのだが、その大部分がばっさり切り落とされ、うなじがすっかり露(あら)わになっていた。
「トム、いつまでジロジロ見てるつもり? 好きかどうかも言わないで」
「あ、ごめん...いや、好きだよ。すごくいい...ほんとに...なんて言ったらいいかわからないけど、ほんとに...」
「ほんとに短いでしょ? ピクシーカットって言うのよ」と彼女は、前髪を指で少し伸ばしながら言った。髪の間に指を通したり、いじるのをやめられない様子だ。
「うん、短いね。でもすごく似合ってるよ」
「ほんと?」エズミーはそう言いながら振り向くと、クリーニング店の窓に映る自分の髪型を見た。「ちょっと過激すぎたかな?」
「過激だけど、いい感じ」トムは彼女を安心させようと、穏やかな口調で言った。
「悪い印象の過激さ、ではなく、いい印象ってこと?」
「そう、その通り。いつから考えてたの? そういう...」トムは何を聞こうとしているのか自分でもわからないまま、見切り発車で質問した。
「この前の週末からね。だけど、あなたを驚かせようと思って黙ってたの」
エズミーは微笑むと、トムの唇に彼女の唇を押し付けるようにキスをした。そしてトムの手を取って、駅を離れ、にぎやかな十字路を横切って公園の方へ向かった。歩きながらトムは、今日は話すべき時ではないかもしれないと感じ始めた。今日の彼女はあまりにも幸せそうで、明るくて、彼女の中で何かが吹っ切れたような清々しさがあった。そんな彼女を落ち込ませるのは、身勝手だと思った。
でも、今話を先延ばしにしても、石はさらに苔(こけ)むすだけだ。さっさと背負った石を投げ捨てて、身軽になってしまった方がいいのだろうか?
数分間、お互いに無言のまま歩いていると、エズミーが再び口を開いた。
「さっきの電話、ごめんね。ちょっと不機嫌そうだったわね。あなたに会いたくない、みたいな」
「べつに気にしてないよ」
「会いたくなかったわけじゃないの。むしろ誘ってくれて嬉しかった。私たちが付き合い始めた頃のことを思い出してたの」と彼女は話し始めた。「毎週のように日曜日は、二人でこの辺りをぶらぶらしてたなって。公園の中の、あの馬鹿でかい邸宅にはいったいどんな富豪が住んでるのかしらって思ったりしながら、ね。公園内のおしゃれなカフェはいっつも席が埋まってて、あなたがぶつくさ文句を言いながら、私たちは駅のそばの薄暗い小さなお店に行くはめになるのよ」
「〈ワールズ・エンド〉は名前のわりに、いいお店だったじゃないか。ホットチョコレートもうまかったし」
「あれはココアパウダーをお湯で溶かしただけよ。あなたが私の肩越しにサッカーを見たいからって理由で、いつもあのお店に行ってたんじゃない。〈ワールド・エンド〉って呼ばれるくらいだから、それなりの理由があったんでしょうね。とにかく、久しぶりにこの辺りを散歩するのはいい考えねって言いたかったの」
「よかった」そしてトムが、「あのさ、エズミー」と、愁(うれ)いを帯びた深刻そうな声音を使って、穏やかさから真面目さへと話の軸を移そうとしたその時、エズミーが割って入るように再び口を開いた。
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〔チャプター 21の感想〕
なんだか切なすぎて、最後まで訳したくない...涙
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「ここにいると、話がはずむっていうか、いろいろ話すいい機会になるわね」そう言ってエズミーが視線を落とした。彼女は紺色の〈コンバース・オールスターズ〉を履いていて、そのシューズを地面にこすりつけるようにして歩いている。彼女が一歩進むごとに、小さな石がその周りに散らばった。
「そうだね」と、トムはひやひやしながら言った。
「今年に入ってから、なんだかお互いに大変なこと続きよね。っていうか、思えば今年に入る少し前から、その兆候は始まってたのかもしれないね」
トムは何も答えずに、エズミーが彼の沈黙を暗黙の了解として受け取る気配を待った。
「私ね、そのことについてずっと考えてたの。私たちのことについて。理想的な時期とはいえないけど、だからって私たちを決定づける年にしちゃいけないと思うんだ。今年は始まったばかりだし、この先好転するかもしれないでしょ?」
「それは...もちろん、君の言うとおりだよ」
「私たちは少し、私たちらしさを取り戻さなきゃいけないよね? エズミーとトムに戻ろうよ。不運に見舞われた、よくいるカップルじゃなくってね。流産したからって、それで私が決定づけられることはないでしょ」と彼女は言った。「あと数週間で、私たちは付き合って10年になるのよ。だから、思い出しましょ。なぜそのほとんどが楽しくて素晴らしい時間だったのかを、そして、なぜ私たちはお互いを愛しているのかを。そういうことを改めて思い返すいい機会だと思うの。これも、たかが髪型だってのはわかってるけど...」
トムの瞳はうるうると、今にも涙がこぼれそうだった。それでも彼はなんとか冷静さを保ちつつ、彼女の手を握り締めた。これは相手を受け入れたこと、支えになることを示す行為で、彼ら二人の関係においては、しばしば必要とされてきた。
「私が言いたいのはね、今から新たに2017年を始めましょってこと。もう一度ね」
「わかった。ただ僕は―」
「春は新しい命が生まれる季節でもあるでしょ。だから、この数ヶ月のことは一旦ピリオドを打って、また明日から1年をスタートさせるべきだと思うの。―明日はちょうど5月1日だし」
「そうすると、今日が大晦日ってことだ」
「そうなるね」
「じゃあ、良いお年を! だね」とトムは明るく言った。今日はエズミーに打ち明ける日ではないな、と結論づけた。明日でもない。
しかし、いずれその時は来るだろう。近いうちに、本当のことを話さなければならない時が。
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〔感想〕(2022年3月17日)
毎年春の空気に包まれると思い出すのは、小学校ではなく、中学校でもなく、高校なわけがなく、大学ですらなく、予備校である。予備校の入り口から受付の窓口に至るロビーの空気こそが、藍にとっての春そのものだ。受付で札束と引き換えにどっさりと受け取ったテキストを、ロビーの台の上でパラパラとめくってみた。英語の長文問題がたくさん載っていた! それぞれの長文問題の下には出題した大学名も書かれている! 藍はにんまりと喜びを胸に秘め、予備校のロビーを後にした。地方のうらぶれた公立高校出身だったこともあり、藍は情報に飢えていたのだ。だから嬉しかった。そんな春の思い出...
居心地が良すぎて、予備校には長居してしまったけれど、人間関係に気を遣う必要もなく、グループを組む必要もなく、講師も人気が生活に直結するから毎回真剣だし、予備校というシステムも、建物(空間)も好きだった。
ただ、予備校生といえども、urge(衝動)は抱え込んでいて、何人かの女の子に声をかけたり、告白したりしてしまった...(汗)そして、時にはこっぴどく振られ、時にはやんわりと振られ、時にはおぞましいものを見るような目で逃げられ...(冷や汗)
やべー、感想が小説になっちゃう...笑←どこの部分の感想だよ!笑笑←どこというわけではなく、「春」の空気感の感想でした。
藍が感じた「春」の空気感も、てんこ盛りで翻訳に乗っけたつもりです...🌸
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チャプター 22
午前11時~正午
僕らの10周年記念日
2017年6月 — ストウ=オン=ザ=ウォルド、グロスターシャー州
「また逆戻り?」とエズミーが言った。ベッドの端に座ったままのトムを見下ろすように、彼女は突っ立っている。
彼女はかなりショックを受けた様子だ。まるで家族の突然の死を告げられたかのように。彼女がこれまで確信してきたこと、―つまり彼がしらふの状態であること、―今まで彼女の中の支柱(しちゅう)となってきたそれが、突然崩れてしまったのだ。彼女の背後から、急に打ち明けられた告白。エズミーはぽかんとしつつも、なんとか理解しようと必死で頭をめぐらせた。
ホテルの部屋に入ると真っ先に、彼は彼女に打ち明けたのだ。
「いつ?」
「2月。リバプールで」と彼は言った。そして再び彼女の表情がショックで曇った。ほとんど目に見えるほどの苦悶(くもん)が、彼女の顔に浮かぶ。あの時、彼女に話した嘘話を彼女は思い返しているんだとわかった。そして今知った真相とのギャップに、気持ちの落としどころを探している。が、見つからない。
あの時、彼はそこにいて...
彼は私にこう言った...
「オッケー」と彼女は、なるべく穏やかに響くように語尾を伸ばした。
「今まで話さなくてごめん。僕はただ―」
「ただ何?」と彼女が今にもキレそうな勢いで言った。「10年間の断酒生活がそんな終わり方をして、それでも大したことじゃない、言う必要ないって思ったわけ?」
「いや、言おうとしたんだ」
「いつ?」
「カムデンの公園に久しぶりに行ったあの日。君があまりにも―」
「それはもう2ヶ月も後のことでしょ! 私は次の日のことを言ってるのよ、トム。次の日っていうか、当日。なぜその夜すぐに、あなたじゃなくても、誰かが私に『トムが今大変なことになってる』って連絡をくれなかったの?」
「連絡をしないでくれって頼んだんだ」
「誰に? 誰に頼んだの?」
「バンドのメンバーたちだよ。君は会ったことがない」
エズミーが彼に背を向けた。一瞬、彼女が部屋を出て行くのでは、と思った。これでもう、終わりだ、と。彼女がもう一度こちらを向いた時、彼女の目は涙でいっぱいだった。彼女の顔には怒りや傷みがありありと表れており、もはやウェーブのかかった髪が顔の輪郭を隠していないことも相まって、それらを痛烈に放っていた。
「最後にお酒を飲んだ時、あなたは自殺しようとした。そのことを告げられた日から、私はまた同じことが起きるんじゃないかってずっと心配してきたの。つまり、私たちの過ごしてきた時間のことよ。あなたが私と一緒にいて、またそういう気持ちになったんじゃないかって」
トムはそれについて考えてみたが、何も言わなかった。
ほどなくして彼女の怒りは悲しみに変わり、エズミーはその場に泣き崩れてしまった。トムはベッドから立ち上がり、彼女を慰めようと彼女の肩に手を乗せたが、まるで見ず知らずの人の手のように、激しく払いのけられた。
「ごめん、エズ」
エズミーはしゃくり上げながらも、彼を見上げた。
「十分じゃないわ」と彼女は言った。
「どういう意味?」
「ごめんって。あなたは嘘をついて、嘘をついて、嘘をつきまくったの。そして後になってから、ごめん、だけなんて」
トムが口を開こうとするのを、エズミーが遮った。
「私が10年間心配してきたことが、全部現実になるのよ。あなたは私に本当のことを話さず、嘘をつい―」
「僕は嘘はついてない」と彼が割って入った。
それを聞いて彼女は振り返り、ドアに向かって歩きだした。トムは彼女に、待って、と呼びかけた。
「どうして私が」と彼女は叫ぶように言った。「どうして私が待たなくちゃならないの?」
「だって、僕たちはこれを解決しなきゃいけないじゃないか」と彼は言い、希望を込めた優しい声音で付け加えた。「そうだろ?」
彼女はちょっと考えてから、ドアから一歩こちらに戻ってきた。
「じゃあ、もし解決しなきゃいけないことが何もないとしたら?」彼女のその言葉に、トムの顔からあらゆる色が、すーっと消えていった。
「どういうこと?」
「さあね」と彼女は彼をあざ笑うように言った。「あなたは私に対して、敬意のかけらも持ち合わせてないみたいね。―私たちの関係なんてどうでもいいと思ってるのよ。だってそうでしょ。そんな一大事が起こったっていうのに、私に言う気になれないなんて」
「そういうことじゃないよ」
「じゃあ、その時どんな感じだったの?」と彼女が詰問(きつもん)口調で言った。「あなたは何も言おうとしないじゃない。私が知っているのは、その時、私は流産した直後で、なんとか悲しみを乗り越えようとしていた。その間に、あなたがまたお酒を飲み始めた。それだけ」
「僕たち」とトムは言った。
「どういう意味?」
「僕たち二人が流産したんだ。一人でなんとか乗り越えようとか、そういうのはよそうって、前に二人で話し合って決めたじゃないか」
「そうだけど、でも私よ、トム。そうでしょ? 私が赤ちゃんをこのお腹に宿したの。私が赤ちゃんを失ったのよ。あなたはただそこにいただけ。『君は一人じゃない』だっけ?」彼女は、妊娠初期病棟の廊下で彼が言ったことを思い出しながら言った。「なんなのあれ? あんなでたらめってないわよね?」
エズミーは彼に背を向けて、部屋の向こう側の壁に向かって歩きだした。彼女が示した突然の断絶に、トムは自分の中の一部分から、ふつふつと怒りが湧き出てくるのを感じた。僕らが何かを失った時、喪失感にどう対処して、その後、二人でどう乗り越えていくかについて、互いに交わした約束を、そんなにあっさりと破棄するなんて。
「あの夜、他に何かあったの?」
トムはこれに対しては何も言えなかった。何を言えばいいのか見当もつかなかった。
「エズ...」
「知りたいの!」と彼女が声を張り上げた。「なんていうか、全部を聞くのは耐えられそうもないけど、だけど、何があったのか知りたいのよ。あの夜に」
そうしてトムは彼女に話した。
あのいまわしい鬱が、自分の人生に再び忍び寄ってきたこと。それによって、二人の人生にも暗い影を落とし始めたことを話した。でも、そのことをどうしても言い出せず、ぴしゃりと扉を閉め切って、見えないふりを、やつらの気配すら感じないふりをしてきたこと。隠し事はなしっていう、最初の頃二人で決めた口約束を破ってしまったこと。それでもエズミーだけは、心の扉の内側に入れたことを話した。
彼は自分の思いのたけを彼女にぶつけた。何ヶ月も前から崖っぷちに立たされたような心細さを感じていたこと。―果てしなく続くような歯がゆさを感じていたこと。それでも、どうにか目を逸らしつつ、やり過ごそうとしてきたこと。無視できるたぐいの、たわいもないものだって自分に言い聞かせていたこと。自分を奮い立たせ、歯を食いしばって頑張れば、気合いで解決できるって。そういう前時代的な精神論でなんとかしようとしていたことを。
今、彼は泣きながら、あの日のことを彼女に話していた。リバプールのバーでのこと、衝動のこと。ついに抗えず、飲んでしまったこと。彼女に電話しようとしたこと。自分を落ち着かせるために外に出たこと。そのどれもが中途半端になってしまったことを。
それから、ルイーザにキスしようとしたこと。翌朝目覚めると、すぐそばで寝ているルイーザに気づき、自分はキス以外にも何かしたのだろうかと心配になったこと。したのかどうか自分では思い出せなかったが、してないと聞かされ、ほっとしたこと。この部分を伝えるのが、一番きつかった。
最後に、彼は家に帰ってからのことも話した。突然、何もかもが変わってしまったように感じ、体調が日に日に悪くなっていった。断片的にいろんな記憶が蘇り、そのたびに自己嫌悪が雪だるま式に膨らんでいった。そして、どん底まで落ち切った自分に気づき、セラピーや〈アルコール依存症克服のための会〉に、勇気を奮い立たせるようにして、どうにか足を運んでいる、と。
エズミーは瞬きもせずに聞いていた。彼女は一見すると、彼の話に何の評価も下していないように見えた。彼女の瞳から時おり大粒の涙がこぼれ落ちていた。トムがひとりで苦しんでいたことを知り、相談してくれなかったことに、そしてアルコール依存症の彼のどうしようもなさに、涙がぽろぽろ流れ落ちたのだろう。
トムが話し終わると、エズミーの目の下は涙で濡れていて、慌てて手の甲でぬぐったことで、目の周りが赤くなった。
「ごめん」と彼が言うと、彼女が彼の手を取った。「この先どうしたらいいのかわからないんだ」
「私だってわからないわ」と彼女は言った。
しばらく二人で黙ったまま座っていたが、エズミーが手を離し、立ち上がった。
「ちょっと外を歩いてくるね。今聞いたことを一人で整理したいの」
「わかった。君はどう―」
「どうしたいかなんて聞かないでよ、トム」と彼女は言った。「私だって本当にわからないんだから」
そう言ってエズミーは彼に背を向け、すたすたとホテルの部屋を出て行った。彼はベッドの端に座ったまま取り残された。
今、この部屋で一人きりになったトムは、これでよかったのだろうかと考えていた。終わり。10年。ここは〈バイロン・ハウス〉という高級ホテルで、彼女が僕らの10周年記念を祝おうと、予約してくれた部屋だ。ここに到着して間もなく、この半年近くの間に蓄積された思いが堰(せき)を切ったように、懺悔の言葉が溢れ出した。
しかし必ずしも、今日こそは話さなければ、という必要性が、彼にそうさせたのではなかった。二人で自宅を出て、〈アイラ・ガーデン〉を通ってハウンズロー駅から電車に乗り、このホテルにたどり着くまでの間に、いろんな思いが木霊(こだま)して、やりきれない気持ちになっていた。そして、ホテルの部屋に入った瞬間、半年前のあのホテルでの出来事がフラッシュバックして、居ても立っても居られなくなったのだ。
部屋に入るやいなや、エズミーがはしゃぐように部屋中を歩き回る姿を、ぼんやりと眺めていた。第二の自宅に来たといった感じで、ホテルに泊まる時はいつも、彼女はそんな風に興奮ぎみになるのだ。インスタントではなく、豆をひくコーヒーマシンや、ジェットバスや、鏡の前に並ぶ高級なアメニティグッズを指差し、上擦った声を発していた。けれど、トムはほとんど聞いていなかった。彼は足元に荷物を下ろすと、そのままベッドの端に座り、黙って俯いていた。
「トムー」と、彼女がバスルームから顔を出した。「大丈夫? 気分は平気?」
彼が顔を上げると、彼の目には涙が浮かんでいた。「そうでもないよ、エズ。君に話したいことがあるんだ」
そうして今、窓の外に目をやると、ベンチに座っているエズミーの姿が見えた。彼女の視線の先には緑の芝生があって、二人の子供がボールを投げ合っている。彼女には時間が必要なんだとわかった。わかっていても、トムはどうしても彼女にその時間を与えることができなかった。
彼はベッドから立ち上がり、部屋を出ると、急ぎ足で廊下を進んだ。さっきまでいた部屋がどんどん遠ざかり、ロビーに続く階段を下りると視界が開けた。ロビーでは、正装に身を包んだコンシェルジュが、週末の休暇にやって来た夫婦を褒めそやすようにもてなしている。トムにも「何かお困りでしょうか?」と声が掛かったが、無視して、両開きのドアから表(おもて)の通りに飛び出した。そう遠くないところでベンチに腰を下ろしているエズミーの姿が目に入る。空を見上げて、短い髪をそよ風になびかせている。
彼が近づくと、彼女が気配に気づいて振り返った。彼女があからさまな嫌悪感を表情で示し、すぐに彼は追いかけてきたことを後悔した。
「一人にさせてくれないの? まだ5分も経ってないじゃない」
「エズ、僕は―」
「僕は何? トム。私に伝えれば、私がさっさと私たちの将来について結論を出すとでも思ったわけ?」
「いや、君が知らないままでいる状況に耐えられなかったから」
「あなたが私に嘘をついてたってわかって、私は今のこの状況に耐えられないわ」彼女はそう大声で言い放つと、ベンチから立ち上がった。バセットハウンド(足が短く、耳が長い中型犬)を散歩させていた老夫婦が、怪訝そうな視線を向けたが、彼女は気にせず、さらに大声を放った。「これで何度目なのよ!」
「エズミー、僕は...」嘘なんかついてない。そう言おうとして、その言葉を飲み込んだ。その部分で言い争っても、事態が悪化するだけだと思ったし、それに実際、嘘をついた。つきたくなかったけど、ついた。その時にはそうせざるを得ない事情があったはずだが、今となっては意味がない。行動で示すしかない。「僕が悪かった。ごめん」と彼は頭を下げた。
トムとエズミーは向かい合ったまま立っていた。初夏の太陽が斜めから降り注ぎ、彼女の顔の半分を照らしていた。彼女は〈ブルトン〉のボーダー柄のトップスを着ていたが、その長袖を肘のところまでまくり上げていた。肌色というより白に近い腕が露わになっていて、いつも身につけている腕時計を、文字盤が手首の内側に来るようにはめている。
何か形のないものが変わってしまった、と彼は感じた。かつては一つのチームだった二人が、今は敵対している。これまでの年月が、二人の絆を強めるはずだったのに、逆に弱めてしまったようだ。
「時間が必要なら、エズ」
「時間の問題じゃないわ」と彼女がすかさず言い返した。「もう考える必要もない」
「わかった」と彼は心もとなく言った。
「さっきまで考えてたの。あなたがここまで下りてきて、中断されちゃったけどね、っていうか邪魔しようと思って来たんでしょ? これから6ヶ月、私たちはどんな風に過ごすんだろうって想像してたの。今回のことをうまく乗り越えられるかどうか」
「それで?」
「こう考えたの。もしまたどこか遠くの街でライブがあったらどうなるだろう?って。もしまた、私は会ったことがないそうだけど、その旧友? 古き良き時代を共に過ごした仲間? 知らないけど、またその人と会ったら、あなたはどうするだろう?って。それか、私がしばらくの間、どこかの街の会合に出張で留守にしたら?って。また同じことが繰り返されない、なんてどうしたら確信が持てるっていうの?」
「それは―」
「信用できない人とは一緒にいられない、トム。私には無理よ。あなたをそこへ行かせたのは私だから、って保護者みたいに自分を責める気持ちもあるわ。あなたは10代の若者で、まだ分別が身についてないから」そこで彼女が声を荒げた。「そんな人に責任能力があるなんて誰が思う?」
「僕が自分でわかってるよ」
「そんな人が誰かと...私と人生を共にしてるなんて誰が思う?」
エズミーは袖を腕時計が隠れるまで下ろした。その袖口で目元をぬぐってから、彼女は自分を取り戻そうと、深呼吸をした。
「私だけは中に入れてくれるって約束したじゃない、トム。でも、いざとなったら何も言わないのね。この半年間、あなたはずっと黙ってた。生まれてくるはずだった赤ちゃんのことであなたは悲しんでるんだろうって、私に思わせておいて」
「悲しかったよ。今も。そのことも考えてた」
「でも、もっと他にもあったんでしょ? お酒を飲んじゃって、すべてが振り出しに戻ったっていうのに、あなたは言わなかった。あれね、幼児がママに言われるまで黙ってるみたいね。っていうか、あなたはいっつもそうじゃない。私の誕生日の時、あなたの同級生にばったり会うまで、あなたはあのことを言わなかったし、大晦日のパーティーでも、ニールの家で倒れるまで、あなたはじっと黙ってた」
「エズミー」
「もう駄目よ。あなたは嘘をついて、噓をついて、つきまくったの。話すのがつらかったんでしょうね。それはわかってる。でもね、誰も寄せ付けず、そうやって壁を作ってばかりいたら、一体どうやって一人で対処するつもりなの?」
トムは何か言い返したかったが、今回ばかりは何も言うべきことが浮かばなかった。彼女が正しい。
「赤ちゃんが...流産のことで」と彼は言った。何か、なんでもいいから何か、自分の立場を挽回できそうなことを言わなくちゃ、と思った。「それで事態はより深刻になったんだ。それから...」彼はそれを言うべきかどうか、言ったらもっと立場があやうくなるかもしれない、と思いながらも言った。「コーンウォールでのこともそう」
「そうね、私がプロポーズを断ったから―」
「いや、そうじゃなくて、つまり、君がお父さんのこととかで落ち込んでたから...ああいう行動に出たわけで。結果として、ますます僕たちの関係が悪化しちゃったけど、それも含めて、僕の不安の中身は一つじゃないってことだよ」
「そっか、今頃になって教えてくれてありがとう」彼女はそう言って、辺りを見回した。それから真剣な表情で、彼に向き直った。
「信じられない。こんなところで私たち、こんなことを繰り広げてたなんて」
みぞおちにくらったボディーブローのように、トムはその言葉にハッとした。
「どういうこと?」と彼は言った。
「見て。ここは公共の広場よ。せっかくの私たちの10周年記念旅行だっていうのに」
「いや、そこじゃなくて、『こんなこと』ってどういう意味?」
エズミーは答えに躊躇し、一瞬、彼から目をそらした。
「私は第一発見者にはなりたくないって話よ、トム。もしあなたがまた、魔が差して、倒れてたりしたら...」と彼女は言ったが、自殺という言葉までは使えなかった。「もしあなたがもう一度試みたりしたら」
「エズ」
「あなたはそれがもう二度と起こらない、なんて私に約束することはできないわ」
「できるよ!」
「無理ね。さっきあなた自身が言ってたじゃない。また...だんだんそういう気持ちになっていって...って」
「だけど、今回はしなかったよ。直前で思いとどまったんだ」
「直前ってどこまで?」と彼女は聞いた。対決的な口調が一瞬消え、代わりに、一種の諦めに似た同情の響きがあった。
トムは少しの間ためらった。「錠剤が目に入ったんだ。ジャミラがアメリカから持ち帰った大きな瓶に、丸い薬が詰まってた」
それを聞いて、エズミーがその場にくずおれた。怒りや悲しみ、悲痛な感情がこみ上げてきた。彼女の姿を見て、トムにもそれが伝わってきた。彼の両親の姿に重なったのだ。どうしようもないこと、医学的にも本人にはどうしようもないと証明されていることで、本人を責めているという罪悪感。うつ病や不安神経症の患者の行動に振り回される人たちはみな、そういった思いが胸中に交錯し、苦しむことになるのだ。胸中に浮かぶ怒りは、身勝手なものだと思い込まされてしまう。
「ねえ、どれくらい、その...リバプールでのことがどれくらい、あなたに影響を与えたと感じてるの?」
またしても、トムは答えるのをためらった。しかし、彼はその答えを知っていた。
「トム」と彼女がきっぱり言った。「私は知りたいの。どっちが先なのか。うつの症状が表れたのが先か、リバプールでの出来事が先か、どっちなの?」
「どっちでもない!」と彼はキレた。「うつぎみで気分も悪かったし、それから...あのことがあって。それぞれがお互いに悪い影響を与え合ったんだ。どっちが先かなんて、そんな簡単な話じゃないんだよ。お互いがお互いを取り込んで、どんどん膨らんでいって、そういうものだろ?」
「わからない。私には本当にわからないわ」エズミーはポケットからティッシュを取り出すと、目元と鼻を軽く叩くようにして、涙をぬぐった。
エズミーがまっすぐに彼を見つめた。広場の周りでは、何人かの人が二人を見ていた。あからさまではなく、見ていることに気づかれないようにしながらも、見ていた。無視できない見世物のごとく、白昼の怒鳴り合いは目立っていたのだ。彼女はベンチに座り、彼にも隣に座るよう手で促した。
「私たちはもう、お互いに正直ではいられないみたいだけど、どうしてこうなったのか知りたいの」とエズミーが言った。
「どういうこと?」
「どうして今まで何も言えなかったの?」
「それは―」とトムは言い始めた。関係を悪化させたくなかったから、と一瞬言いかけて口をつぐみ、言い直した。「君が動揺するのがわかったから。そして言い争いになるだろうなって思ったから。こうなることを望んでいなかったから」
彼女は再び立ち上がると、その場から立ち去ろうとした。
「頼むよ」と彼が懇願するように言って、彼女はまたベンチに腰を下ろした。
「私たちはお互いを見失ってしまったみたいね」
「僕が君の気持ちを見誤って、プロポーズしたこと?」
「それだけじゃなくて、すべてに関してよ。プロポーズもそうだし、あなたの嘘も、あなたの病がぶり返したこともそう。私に責任がないなんて言ってるんじゃないわ。あなたは『大丈夫だよ』って言い続けていたけど、そこで私は会話を切らずに、もっと追及しておけばよかったのかもしれない」
「そんなことないよ。君に責任はない」
「じゃあ、どうすればいいのよ?」と彼女はキレぎみに言って、彼から顔を背けた。「さっきまで考えてたんだけどね、いっそのこと、あなたが彼女と寝ちゃった方がよかったんじゃないかって」
「なんで?」
「その方が楽でしょ? こんな中途半端な感じじゃなくて」
「現状は大変ってこと?」
「わかんない」と彼女は静かに言った。そこでトムは立ち上がり、彼女の前にしゃがみ込むと、彼女の手をとった。
「エズミー。僕たちはちゃんと乗り越えられるよ」
『ハリーポッター』のロケ地にもなったコッツウォルズ地方に来て、まだ1時間も経っていなかったが、トムには丸1日が経ったように感じられた。関係が深まり、年齢を重ねると、相手の顔を見ただけで、その人が何を考えているのか察しがつくようになる。トムとエズミーの場合もそうだった。お互いの癖や特徴を知り尽くし、表情の微妙な変化から、ストレスや心配事の有無、心痛の状態が手に取るようにわかるのだ。
しかし今、緑の芝生が広がる町の広場で、ベンチに座っている間、トムはエズミーの気持ちがまったく読めなかった。―まるで閉じられた本のように、中身が見えない。彼は恐ろしくなった。
「質問してもいい?」と突然彼が言った。エズミーはうなずきながら、少し腰の位置をずらした。このベンチは人々が5分以上座ることを想定していないらしく、座り心地が悪かった。「僕を見て、何が見える? 君のパートナー? 友人? 愛する人? 明日、隣で目覚めたいと思う人? あさっても、その次の日も、一緒に朝を迎えたい? それとも、何か他のものが見える?」
「トム」と、エズミーは少しためらいがちに、少し焦りぎみに言った。
「これは重要なことなんだ、エズ。君はまっすぐ僕を見なければならない」
「そうね」
「どう? 何が見える?」とトムが聞いた。
エズミーは答えようとしたが、その前に、二人を見下ろしていた教会の時計が鳴り、大きな音を響かせた。針が頂点に達し、辺り一帯に正午を告げた。
チャプター 23
午後5時~6時
引っ越しの日
2017年8月 — ウェスト・ハムステッド、ロンドン
トム:
冷凍庫を空にする
CDの梱包
ゴミ箱
キッチン
鍵
新しい家具
エズミー:
猫
冷蔵庫
本
バスルーム
ベッドルーム
リビングルーム
食器棚
役割分担表は冷蔵庫の扉に貼られていた。A5サイズのノートを1枚ちぎった紙にそれぞれの役割が書かれ、マグネットでとめられている。2008年、二人でアムステルダム旅行に行った際、美術館で買ったマグネットだった。表面にフェルメールの『牛乳を注ぐ女』が描かれている。それぞれの項目の横には、やったことを示すチェックマークが書かれ、もうほとんどチェックされていた。二人の部屋は、ほぼ空っぽの状態になっていた。長年使ったパソコンを中古ショップに売る前に、あるいは捨てる前に、工場出荷時の初期設定に戻そうと、いろんなファイルを削除したみたいだ。かつてホームだった家が、ただの建物に戻っていくプロセスが、彼はなんだか嫌だった。空間が内包していた意味がどんどん抜けていくようで、むなしくなる。
表面をきれいに取り繕ったところで、刻まれた過去が消えるわけではないのに。
エズミーは数時間前に出て行った。頬にそっとキスをして、静かに「さようなら」と言い残し、キャリーケースに入れた猫と一緒に出て行った。トムは玄関で彼女を見送った。彼女は、彼女が使っていた鍵を彼に手渡すと、〈アイラ・ガーデン〉を横切り、猫と一緒に小型車に乗り込んだ。この部屋をどうするかについて、二人で話し合った結果、長期的な観点でどうするかはまだ決めずに、とりあえず1年かそこら、誰かに貸し出すことにした。
見知らぬ人(おそらくカップルだろう)が、自分たちが暮らしていた部屋に住み、この古い本棚に彼らのものを置いていき、自分たちが寝ていたベッドで眠るというのは、なんだか妙な感じがした。次に誰がこの空間をホームと呼ぶことになるのか、そんなこと考えたくもなかったが、どうしてもまだ見ぬ新たな住人の影が思考に割り込んでくる。
彼は今、キッチンに一人ぽつんと佇んでいる。あと何箱か運び出せば家の中は空っぽになる。外では、白い〈トランジット〉が片輪を縁石に乗り上げた形で待機している。二人で使っていた小型車はエズミーが乗って行くことになったので、彼がこの日のために借りたワゴン車だ。彼の足元には、4つの袋が置かれている。二人とも未練もないし、現世では何の役にも立たないと同意した品々が入っている。品薄で買い取り強化中のリサイクルショップに持っていくのすら、失礼にあたるようでためらってしまうガラクタだ。そのうちの一つから、小さな金属製のプレートが顔を出していた。流れるような筆記体で「LIVE LOVE LAUGH(ともに生き、愛し、笑え)」と書かれ、羽ばたく蝶や、飛び出すシャンパンのコルク栓で華やかに装飾されている。ローラがエズミーに結婚を促そうと、当て付けがましく買ったプレゼントで、彼女からの一連のひどい贈り物の一つだ。当然の如く、彼らの家の壁に掲げられることは一度もなかった。
トムはそれを家に持ち帰った夜のことを思い出していた。ローラとアマンと、エズミーと僕で食事をした。OXOタワーの展望台レストランで、テムズ川やセント・ポール大聖堂を見下ろしながらのディナーだった。
「さあ、開けてみて」とローラが目を輝かせて言った。「あなたたちにぴったりだと思って」
「あら...素敵」とエズミーが言った。明らかに言葉と表情が合っていない、と彼は思った。ローラからのプレゼントを開ける時のエズミーは、大体いつもこんな感じで、上辺だけの喜びを当て付け返すのだ。(トムが横で見ていて一番傑作だと思ったシーンは、ローラが出版した本にローラ自身が目の前でサインをし、それを受け取った時のエズミーの、あからさまな苦渋の表情だった。)その間、アマンは恐れおののくように、あるいは恥ずかしそうに、その様子を見守っていた。彼も最初は、あんなおかしなプレゼントは贈るものじゃない、とか言っていたのかもしれないが、いっこうに聞く耳を持たない妻への助言をいつしか諦めてしまったのだろう。家に帰ってから、トムが冗談めかして、どこに掲げようか? と家のあちこちの壁にそのプレートを当てている時の、エズミーの笑い声が脳裏に蘇った。
彼は数時間前に、ガラクタが詰まった袋をひっかき回して、何か価値あるものはないかと念のため確認していた。たとえそれが、もっと早くに処分しておくべきものだったとしても、感傷的な意味を伴った品物があるかもしれない。エズミーがそれに気づかず、袋に放り込んでしまったのではないか、と再確認したのだが、やはりすべてが意味のないガラクタだった。
トムの携帯電話が、むき出しのキッチンカウンターの上で鳴った。画面を見れば、彼の父親からだ。彼は手にはめていたゴム手袋を引っ張り抜いて、電話に出た。
「父さん?」
「おお、トム」とゴードンが言った。トムはその口調から、父親がこの電話をかけることに少し躊躇していたことを察した。だいたい父親から電話がある時は、ローストフトに向かう途中の車の中から現在の交通状況を知らせるとか、そうではなくても、実務的な報告がほとんどだった。感情的な会話は、たいてい顔を合わせてしていた。といっても、お互いに気まずそうに床を眺めながらの会話だったけれど。
「お前が元気かどうか確認しようと思ってな」と彼は続けた。「すべてが滞(とどこお)りなく...うまくいったか」
「ああ、今のところ順調だよ。ありがとう」
「それで、お前は元気なのか?」
「元気さ」とトムは言った。「ただ、ちょっとへばっちゃって。わかるだろ?」
「そりゃわかるさ」と彼は答えたが、彼がわかっていないことは、彼自身にもトムにも明々白々だった。
「エズミーは?」
「彼女も元気だよ。3時頃出て行った」とトムは、彼女が鍵を手渡してきた時のことを思い出しながら言った。
「そうか...それはよかった。お前も元気そうで...よかった」よかったを繰り返す彼の言葉の井戸は、干からびる寸前のようだ。
近くに母親もいる気配がありありと伝わってきて、彼女が言葉を発していなくても、トムの耳にはその声が聞こえてくるようだった。父の背中をつつくようにして、トムをなるべく長く電話口にとどめておくために、もっと何か言いなさいよ、と無言の圧力をかけている様子まで目に浮かんだ。
「そうすると、今日はお前にとって大事な日ってことだな。それで、母さんが...わしもだが、お前が大丈夫か確認しておこうってな」
「大丈夫だよ」
「よし、ならいい。あっちに着いたらメールでもよこせよ」
「そうするよ」
二人はぎこちなく別れの挨拶を交わし、電話を切った。トムは携帯電話をジーンズのポケットにしまいながら、手を止めた。突如として、今自分の身に起こっていることの重大性が、どっと全身にのしかかってきたのだ。
今日まで、別れの予感は、いわば家具にかぶせた埃(ほこり)よけシーツの裏側に隠れた形で、見えなかった。つまり引っ越しの準備とか、片付けの忙しさに埋没されて、あまり感じなかった。しかし今になって、とうとうその時が来たんだ、と急に身に染みた。二人の人生を一新するために、ここを後にする日が来てしまったんだ。今日で、(少なくとも当分の間は、)ロンドンでの生活ともおさらばだ。これから、650キロ北へ一人で移動することになる。国境を越えた先で新たな生活を始めるために。
エディンバラに行って、僕の生活がどう変わるのか、そこまではあまり考えていなかった。見慣れぬ町並み、道も覚えなきゃだし、新しい住所も覚えなきゃ、カフェやお店も探さなくちゃだし、と新たなリストが浮かび上がる。僕とエズミーが慣れ親しんだこの、ロンドンの小さな一角は、上書きされるように死滅していくんだろうな。
今日の午前中、アナベルがここに顔を出した時になって初めて、自分の生活基盤が大きく変わろうとしていることに思い至った。この幼なじみに会おうと思ったら、これからは、何週間も前から計画を立てなければならない。ロンドンでは、ありえないような偶然がしょっちゅうあったけれど、どこかでばったり顔を合わせるなんてことも、もうなくなる。
「じゃあ、ついに実行するのね?」とアナベルは言って、荷造りの箱に入れずに残しておいた2つのマグカップのうちの1つを手に取り、ミルクの入っていない紅茶をすすった。エズミーは、アナベルの3歳の娘マーラと一緒に遊んでいる。
「ついにって何?」
「あんたは昔から言ってたじゃない。『うだつが上がらないのはロンドンという街のせいかもしれない』って」彼女は彼の言い方を真似て言った。「『もうこんな街こりごりだよ。エディンバラにでも引っ越そうかな』って。20代前半の頃は、毎週のようにそんな脅し文句だか、愚痴だかを聞かされていたっけね。あんたが会うまでは―」と彼女は、エズミーの名前を出す寸前で口をつぐんだ。
「ああ、そういえば言ってた」
「場所を変えたって何の解決にもならないわよってあたしは返してたんだけど、今思えば、あんたをロンドンに引きとめようとしてただけかもね」
「君は昔っから自己中だっただからな」
「あんたが近くにいれば何かと便利だったんだけど、でも今はもう、あんたに実用的な使い道はないわ。お役御免ね」
「たしかに、もう何の役にも立てそうにない。じゃあ、これで永遠にお別れ?」
「たぶんね」
「よくもまあ、二十数年も続いたな」とトムは微笑みながら言った。アナベルと出会った小学生時代を思い出していた。二人はクラスの中でも底辺に近いグループにいた。血筋の問題とか、サッカーのフリーキックが下手くそだとかで、よくいじめられていた数人の集まりだった。「エディンバラまで遊びに来てよ。長旅になるけど、いい? みんなで」
「もちろんよ」と彼女は言った。その時、マーラがキャーと悲鳴を上げながらキッチンに走ってきて、そこで会話は中断された。彼女の後を追ってエズミーが両手を上げ、ガオーとモンスターを演じながら入ってきた。「どうしたの?」とアナベルが言うと、マーラは彼女の太ももの後ろに隠れた。
「エズミーおばさんが私を捕まえようとしてるの!」と彼女が金切り声で言った。その時、エズミーが触手のような腕を、マーラの頭上に下ろしてきたので、彼女がまたキャーと悲鳴を上げた。彼女はそのままリビングに逃げ込み、キッチンに三人が残された。
エズミーとアナベルがハグをした。彼女たちの友情は、言ってみれば、僕を介したお下がりの洋服みたいなものだが、だからといって、重要な関係であることに変わりはない。
「2分だけ待ってて」とトムは言って、寝室からある物を取って来ようと、少しの間、二人のもとを離れた。
彼が戻ってくると、二人は引っ越し作業の煩わしさや、エズミーがこれからレスターまで、一人で車を運転することについて談笑していた。エズミーは、黒と白のまだら模様のキッチンカウンターに寄りかかるように立っていた。そこは彼女の定位置で、ほとんど毎晩のようにそこに立って、トムが夕食を作るのをそばで見ていた。(彼は決して言わなかったが、ちょっとだけ邪魔だった。)
「君に渡したいものがあるんだ」とトムはアナベルに言った。二人の会話がひと段落したところを見計らって、切り出した。「昨日、僕の作業部屋を片付けてる時に見つけたんだ」
「あんたの財産を分けてくれるの?」と彼女が冗談めかして返した。
「これだよ」と、彼は彼女の発言を無視して、カセットテープを差し出した。
「何これ? もしかしてあれ? あんたが自分で選曲して録音したカセットを学校に持って来て、好きな女の子にプレゼントしてたやつ? 締(し)めの曲はいっつもフェイセズの『ウー・ラ・ラ』なのよ」と彼女がエズミーに言った。エズミーも表面上は微笑みを返したが、実際には笑っていなかった。
「黙れ」とトムは言った。「そうじゃない。これは僕が君のファーストダンスの伴奏をした時のテープなんだ。リハーサルの時に録(と)っておいたんだよ。君が気に入るかもしれないと思ってね」
「あらまあ、トムったら。すっごく素敵」と彼女が言った。「でもまあ、これをもらっても、もう二度と、ほぼ確実にあたしが踊ることはないでしょうね。今は1989年じゃないし、それに、それを再生するカセットデッキもうちにはないのよ。だけど、その気持ちは素敵」
「そこは発想の転換だろ。レコードで踊ってるやつは結構いる。でも、カセットで踊るなんて、今どき君が初めてかもしれない。君はせっかくストーク・ニューイントンに住んでるんだし、―あそこはかつてヒッピーダンスが栄えた本場じゃないか、だろ? 君がその分野の開拓者になっちゃえ」
「そんなこと言ったって、あたしはね、1日のほとんどの時間を子供用のカラー粘土と格闘してるんだから。あれってカーペットにくっつくとなかなか取れないのよね。時間もないし、踊るスペースもないし」
アナベルは再びカセットに目をやり、マジックで書かれた「AW-1」という自分の名前のイニシャルを見た。それから、それをバッグにしまい、トムとエズミーを見上げた。アナベルは目に涙をうるうると浮かべていた。
「あ、そろそろ、マーラをクリックルウッドに連れて行かなきゃ。お友達と遊ぶ約束をしてるのよ。そういうわけだから...」
「ああ」とエズミーが言った。「心配しないで。最後に二人だけにしてあげる」
「そういう意味じゃなくて、ちょっと待って」とアナベルが言って、立ち去ろうとするエズミーを引きとめた。「寂しくなるわ」彼女はそう言いながら、エズミーの体を両腕で包み込んだ。
「私も」とエズミーは言ってから、自分の体を引き離すと、空っぽのキッチンにトムと彼の幼なじみを残して立ち去った。
アナベルはリュックサックを手に取り、勢い良く背中に回してそれを背負った。そして、もう一回エズミーと追いかけっこをする~と言い出し、今にも走り出しそうなマーラの手を取った。アナベルが泣く姿をこれまでほとんど見たことがなかった。彼女の結婚式の時も、その1ヶ月前に両親が出席しないと告げてきた時も彼女は泣かなかった。唯一見た彼女の涙は、僕が病院で目覚めた時だった。自殺未遂をした時、アナベルは病院のベッドの横で、僕に寄り添うようにいつまでも座っていてくれた。
「ティッシュいる?」
「うっせ」と彼女は言った。Fで始まるもっと汚い言葉を使いたかったのだろうが、子供の前ということで、彼女はやんわりと毒づいた。
「またすぐに会えるよ。この次会うのは新年ってことで」
「わかってる。でも、今まで通りってわけにはいかないでしょ? あんたとあたしは同じ時期にロンドンに引っ越してきた。あんたはすっかりあたしの人生の一部なんだよ、世界中の誰よりも。って言いたいところだけど、サムとマーラ以外ではね。さっさとスコットランドに消え失、行っちゃいな」
「消え失せろ?」と彼は笑顔で言った。
「子供の前で汚い言葉はやめて」と彼女は言って、プルオーバーのゆったりした上着の裾で目元をぬぐった。「ねえ聞いて、トム。あなたが行っちゃう前に言っておきたいことがあるの。今年起きたことを考えるとね」
「僕まで泣かそうっていうのかい? だってさ―」
「いいから黙ってて。冗談じゃないの。そういうところよ。あんたはそうやってすぐおちゃらけて、すぐ大事なことを忘れて、なんで家の中に仕事場があるのに30分も遅刻するのか意味不明だし、そんなずぼらなあなたが彼女とやっていけるわけないって、ふさわしくないって、あたしはあれだけ言ってたでしょ? あんたはあたしの最も古くからの友人なんだからわかるのよ。まあ、最も役立たずな友達でもあるけどね」
「たしかに」トムはうなずきながら、涙がこみ上げてくるのを必死でこらえていた。
「そうでしょ、ほんとに何度でも言っておきたいわ、トム。あんたは最も...」
トムはうなずき、声を振り絞って弱々しく「ありがとう」と言いながら、アナベルと抱き合った。マーラも何かを感じ取ったのか、一緒になって彼の足を抱き締めた。
「君がいなければ、僕はエズミーと出会えなかった。それはたしかだろ?」二人が体を離すと、トムは言った。
「すべては目論見通りよ、相棒。最後の一滴まで残らず計画通り」
アナベルは彼をもう一度抱きしめ、さよなら、と言って、娘の手を引き去っていった。キッチンとラウンジを隔てている柱の陰から、エズミーが見ているのに気づいたが、どうしても彼女の目を見る気にはなれなかった。
それから半日経った今、一人、彼はキッチンを見回した。もうほとんどすっからかんになったキッチンに、ぽつんと一つダンボール箱が置かれている。彼は最後にやかんと、ブリキの茶筒(ちゃづつ)をその中に入れた。茶筒には、ティーバッグと賞味期限の長いミルク・ソケットが詰まっている。エズミーが今年の初め、出張に行った際、会議センターからくすねてきたものだ。そのダンボール箱を外の車に持ち出そうとした時、開けっ放しの玄関のドアがノックされる音がした。若くて、陽気な「こんにちはー」という声がそれに続いた。
「どうぞー」とトムが返すと、若い男が顔を出した。グレーのピンストライプのスーツに、白いシャツ、ピンクのネクタイをした22歳くらい男だった。大きな革財布を小脇に抱えて、自信たっぷりといった風情(ふぜい)で家の中にずかずかと入ってくる。
「〈アルダー不動産〉のウィル・マーサーです」男はそう名乗って、握手を求めてきた。握った彼の手のひらは熱く汗ばんでいた。「すみません、ちょっと早かったですかね?」と言って、ウィルは腕時計を確認した。
トムもスマホの画面をちらりと見た。6時まであと15分ある。もう少しこの場所で、ぼんやりと一人の時間を過ごしていたかったな、と思った。
「とにもかくにも、ここから早く逃げ出したいって感じですかね? グラスゴーまでは長いドライブになりますね」
「エディンバラです」
「ああ」どっちでもよくね? と言いたげにウィルは顔をしかめた。「どっちも近くですよね?」
「まあ」
トムはウィルをリビングに案内した。そこには、中央に真新しいソファがどんと置かれている。新たにこの部屋を借りる人のために、トムとエズミーが〈イケア〉で買ってきたものだ。それがテレビユニットと向き合っていた。テレビユニットは彼らが使っていたもので、一応きれいにはしたが、マグカップを繰り返し置いたことによる円形の染みがいくつか残っている。空き家というのは不思議なものだ。彼は壁のあちこちに刺さったままのピクチャーフックや画鋲を見上げながら、そう思った。壁の絵を外したことで真っ白な正方形が露わになり、時間の経過によって黄色っぽく変色した周囲の壁に、四方をくっきりと縁取られていた。掃除機もなかなか届かない、そのため滅多に掃除したことがなかった部屋の隅は、黒ずんだように汚れている。―トムが木目調の細長いプレートを、壁の底辺にガード板としてはめ込んでおいたのだが、それが剝(は)がれかかっていて、トムの仕事のいい加減さが露呈してしまっている。いくつもの円が旋回しているような模様の漆喰(しっくい)の天井には、今は省エネ電球が1個だけ付いている。
「紅茶をお出ししたいところですが、やかんを片付けてしまったんです」
「お構いなく。最後にしまうんですよね? で、最初に出す」
「はい?」
「やかんですよ。最後にしまって、またすぐ使うから真っ先に出す。そういうものでしょ?」
「ああ、そうですね」
「それはともかく、そんなに時間はかかりませんよ。お湯が沸騰するよりも早く済みます」とウィルは、今日という日の重大さを見誤ったまま明るく言った。「あなただけで、お一人でよろしかったですか?」と彼は言って、大きな革財布を開けると、すかすかの中から3枚の紙を取り出した。
「そうです、僕一人です」
「よかった、なら問題ありません。じゃあ、このXのところにサインしていただければ、それで完了です」と彼は言って、トムがサインするために膝の上に書類を置くのを見ていた。「あとここですね、メンテナンスに関するものです」と彼が指差す。「そして、これが鍵用の書類です。2セットでよかったですよね?」
トムはうなずきながら、ちょっと頭がくらっとした。そのプロセスのあまりの速さと、心のこもっていない様についていけない。だいたい不動産業者なんてそんなものだ。お客にとって引っ越しは人生の一大事なのに、どいつもこいつもその重大さをわかっていない。〈アルダー不動産〉のウィル・マーサーも、その点では例外ではなかった。
「じゃあ、3枚ともサインが終わりましたら、私の方でもサインをして、控えをお渡しします」
鍵は2つとも、キッチンの窓辺、淡いブルーのタイルの上に置いてあった。そのすぐ脇のタイルが大きくひび割れている。今はもうないが、常に緑の葉っぱをぐったりさせていたバジルの鉢植えを置いて、エズミーが隠していたひび割れだ。
彼は鍵をウィルに手渡した。
「ありがとうございまーす」とウィルが元気よく言った。「今度ここに入居することになったのは、素敵なカップルですよ。ジャックとスーズ。スペルはOが二つで、スーーズ(Sooz)」
トムはウィルの乗りについていけないまま、ぎこちない笑顔で応えた。ウィルはなぜか、トムが早くここを出て行くのを今か今かと待っているように見えた。
「少し時間が必要ですか? この場所に別れを告げたりとか」
「いや」トムはちょっと間を置いてから言った。「大丈夫です」そう言って、キッチンから出て行こうと背を向けた。
「あ、これを忘れないでくださいね」と言って、ウィルが箒(ほうき)とちりとりを手に取った。「みなさんいつも何か忘れていくんですよ」
トムはウィルに礼を言って握手をし、最後のダンボール箱を抱えて、外の車まで持って行った。彼はダンボール箱の中から白い靴箱だけを取り出すと、それを〈トランジット〉の運転席に持ち込んだ。エズミーの箱だ。本当は家の中で目を通すつもりだったのだが、せっかちなウィルの早い到着のせいで、その計画はおじゃんになった。
中には、ライブのチケット、写真、安っぽい休日の思い出の品、絵葉書、そんなものが山積みになっていた。その時は「記念に!」と思って取っておいたのだろうが、今ではその時の記憶もおぼろげで、詳細までは思い出せない。エズミーも、同じようなものを箱いっぱいに入れていたのだ。最も基本的なレベルで言えば、こんなものを取っておいても何の役にも立たないし、どれもくだらないガラクタばかりだ。―そうは言っても、捨てるなんてできやしない。
トムはゲームセンターのメダルの束を片側に押しやると、お目当てのものを見つけた。メモ用紙の薄い束だ。エズミーのカバンの底で何ヶ月も揺られていたため、角が少し擦り切れている。表紙にエズミーの筆跡で、文字と時計の絵が描かれていた。二人の人生を新たな局面に導いたものだ。これによって言い争ったり、認め合ったりもした。このエズミーが考案したゲームで、僕らは10年間を見直し、再評価したのだ。
彼はそこに刻まれた瞬間瞬間に思いを馳せながら、それをパラパラとめくり始めた。それぞれの出来事には時刻まで書かれているが、エズミーは時刻に関してどれほどこだわっていたのだろう。
トムは一応まともな記憶力を持っていたが、あの惨(みじ)めなキャンプで、テントが水圧にとうとう耐え切れず、二人の頭上で崩れ始めたのが、正確に午前4時だったかどうか、そこまでは確信が持てなかった。エズミーに聞けば確証を得られるかもしれない、と思ったが、あの時の詳細な記憶が次々と蘇るだけで、今さら正確な時刻までは判明しないだろう。
気づけば、僕はストックウェルで二人が出会った夜のことを思い出していた。アリの部屋にスーパーヒーローが大集合した仮装パーティーだ。仮装の指示を無視したのは僕とエズミーだけだった。彼女は単に仮装なんてしたくなかっただけだが、僕の場合、仮装なんてしたら、またスイッチが入って、自分が大変なところまで行っちゃうんじゃないかって心配だったからだ。あの時、ぐずぐずしている僕の背中をアナベルが執拗に押してくれたんだっけ。「さっさと話しかけてこい」って。
エズミー、だよね?
そうです。えっと、あなたはトム?
僕たちが初めて交わした会話が思い出される。あの時、スーパーヒーローの靴について、僕がくだらない冗談を言ったんだ。
この彼女との出会いのシーンが、24の思い出の1つ目に来るな、と直感的に思った。このゲームのルールでは、時間をずらしてあと23個か、と記憶を巡らせてみる。他に何が加わるだろう?
簡単にぴったりはまる時間帯もあるはずだ。なかなか目ぼしい思い出が見当たらない時間帯もあるかもしれない。結局のところ、一緒に暮らすというのは、幸せな時間だけでは定義できないのだろう。それと同じくらい重要なのは、二人で困難に立ち向かっていくことで、そうやって長い年月を共に過ごしていくうちに、堅い殻が形成されていくのだ。僕のうつ病の再発。彼女の父、タマスの死。海岸でのプロポーズ。リバプールでのあの夜。
関係が進行中に、二人の関係を定義するような瞬間瞬間を数値化して、その軽重(けいちょう)を判断することは可能なのかどうか、疑問に思った。それとも、一旦区切りをつけて別れた後でなければ、それぞれの出来事を解析できないのだろうか。
そしてまた、エズミーはそのことを知っていたのかもしれない、と思った。彼女はこのゲームで、二人の関係にけじめをつけようとしたのだろうか?
一瞬、メモ用紙の束を両手でひねりつぶし、窓から投げ捨ててしまいたくなった。けれど、僕はそれを上着のポケットにしまった。エディンバラに持っていって、机の一番上の引き出しに入れておこう。僕たちが持っていたもの、そして僕たちが失ったものを、これを一目見るだけで、いつでも思い出せるから。
最後にもう一度、二人で暮らした家を目に焼き付けてから、僕は車にキーを突っ込んで回した。ラジオも同時について、ちょうど〈ドライブタイム〉が6時のニュースを流す時間だったが、なぜか今日は、子供がつたない声でニュースを読み上げていた。音楽を求めてラジオ局を変えてから、ギアをドライブに入れ、走り出した。
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〔チャプター 23の感想〕
引っ越しの自由とか、移動の自由が日本で認められてから、まだ100年も経っていないことを思うと、衝撃を受ける。
藍もトムと同じくらいの回数(細かく数えると5回くらいかな)、引っ越したことがある。
何万年単位とか何千年単位で考えるのは、なかなか想像が及ばないので、(1192作ろう)鎌倉幕府辺りから考えても、自由だー!って叫びたくなるくらい、藍は自由を享受しているんだな!!
ロンドンからエディンバラまで、650キロ離れているらしいけど、東京から札幌までの距離は約820キロで、東京から青森までの距離は約710キロだそうで、それより近いので、一人で車でもなんとか行けそうですね。頑張れ、トム!(ちなみに、レスターは結構近くて、日本で言うと群馬くらいです🗾)
藍も経験あるけど、車の一人旅って結構つらいんですよね。最初は優雅にラジオなんか聞いちゃって余裕ぶっこいてるんだけど、同じ姿勢で何時間も動けないってのがつらい...しかも車内だから風も感じないし...徐々に枯れていく野草になった気分🥀←どんな気分だよ!笑
でも、いったん離れてみるってのもいいかもしれないね。離れてわかるお互いの存在の不可欠さ、みたいな!笑
藍も今はそういう期間なのかな~って思ってる。←君の場合は永遠だけどね!爆笑
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チャプター 24
午後11時~真夜中
1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成
2018年6月 — バルセロナ
トムは〈ランブラ・カタルーニャ通り〉の北側にあるベンチの一つに腰を下ろした。彼の周囲では、レストランが次々とシャッターを下ろし始め、閉店間際に食事にやって来た人を追い払ったり、いつまでも店内でぐずぐずしているお客を追い出しているところだった。それでもバルセロナの街はまだ賑わっていた。観光客はバーからバーへとはしごしたり、ホテルへ戻ろうとゆったり夜の街を散歩したりしていた。道端で露店を構える商人は、大方バッタものだろうが、「メッシ 10」と背中に書かれたTシャツを威勢よく売っている。地元住民たちは自室の窓から、そんな街の風景を見下ろしている。
彼はカバンの中に手を入れて、手紙が入ったクッション封筒と、ノートを取り出した。それから、カバンの底に大切にしまっておいた〈メモ用紙の束〉をゆっくりと取り出す。引っ越してからずっと机の引き出しにしまっておいたものだ。今日この束は、このゲームを考案した人のもとへ戻るのだ。
1日でめぐる私たちの人生。あの小さな時計が24個描かれている。しわくちゃのA5の便箋に、彼女の筆跡で書き込まれたゲームの紹介文。
端が擦り切れたメモ用紙の束を手にした。一枚一枚ゆっくりとめくっていく。ちゃんと24枚ある。24時間分だ。
次にノート。これは後から僕が買ったものだ。真っ赤な革製のノートには、断片しか覚えていなかった会話から記憶をたどり寄せて書いた思い出や、彼女が僕に話したことなどが何ページにもわたって書き込まれている。1時間ごとに書かれた二人の時間、選ばれし24の出来事だ。―僕の記憶が許す限り、完璧に仕上げたつもりだ。
たまに浮かんだメロディーを楽譜に書き起こすことを除けば、僕がここ数年で手書きで書いたものは、おそらくこれだけだった。そして今、ようやく時間ができたので、僕はその書き込みを読み直し始めた。
これでいいのか? これで全部か? これが決定版か? これをまとめ上げるのに数ヶ月を要した。付け足しや削除の連続で、何ページも引きちぎり紙くずにしてしまった。今目の前にあるリストとは異なる24の出来事を連ねたリスト、いわば別バージョンの人生もあったのだ。
追加しようと思った出来事のほとんどは、幸せな時間だった。しかし、そのようなリストは不誠実なものになるだろう。―自分にも、彼女にも、二人にとって不誠実だ。
よし、これしかない。これらの出来事が起こった時間については、多かれ少なかれ正確であると確信していた。そして今日の午前中、バルセロナのゴシック地区のカフェで、それぞれの時間に関連するメモを参照しながら、最終編纂(へんさん)をしたのだ。僕はエズミー・サイモンとの生活を再現し、追体験することに深い喜びと、胸を突く哀愁を覚えていた。
しかし、ゲームはまだ終わっていない。完成まで、枠がまだ1時間分残っている。
僕は時計を確認した。付き合い始めて11回目の記念日まで、あと20分。
僕は時間をつぶすために、カバンの中から彼女の手紙を取り出した。ウェスト・ハムステッドにある二人の共同住宅を出てから半年ほど経った1月末、この手紙が郵便受けに入っていた。僕はエディンバラのシャーロット広場近くに、ジョージ王朝様式の古いタウンハウスを借りたのだが、その1ルームのアパートに届いたものだ。
この手紙を見つけた時のことを思い出した。僕が借りたタウンハウスは4部屋あり、つまり4人の住人が住んでいるのが、郵便受けは共有で、雑然と郵便物が投げ込まれた箱から、自分宛ての手紙を探さなければならない。その中から彼女の筆跡が目に飛び込んできた時の、最初の衝撃。次に封筒の中には何が入っているのだろう、と胸騒ぎがした。
そして、その中身が何であるかを知った時の苦い悲しみが蘇ってきた。
僕はそれを狭いキッチン(兼リビング兼ダイニング)に持ち帰り、スコットランドの雨が、がたつく窓を激しく打ちつける中、座って読み始めた。
親愛なるトムへ
あなたは私に理由を聞いた。なぜ私たちは続けられなかったのか。なぜ私はそれを乗り越えることができなかったのか。
あの時、私は十分に答えることができなかったし、自分がどう感じているかを言葉にすることもできなかった。わかっていたのは、あなたに対して抱いていた感情が間違っていたということ。私たちを「私たち」たらしめていたものの大部分が、あの日死んでしまったということ。そして、一度失ったものは、もう二度と取り戻せないと思った。
今、少し距離を置いてみて、私は正しかったと思う。あの時はお互いつらかったけど、私たちは最善の選択をしたの。楽な方に流されるんじゃなくてね。
今なら、なぜもう終わりだと思ったのか、その理由も伝えられる。
私たちを結びつけていた何かが常にあった。今にして思えば、その何かは正直さだったんでしょう。あなたは自分の過去や、あなたがどういう人間かということを私に話すのに、少し時間を要することもあったわね。でも、あなたが私に隠し事をしていたなんて、私は一瞬たりとも思ったことはないわ。だけどあなたは隠してた。こうして書いてみると、そんなの大したことじゃないって思えるかもしれないね。でも、考えれば考えるほど、それが私たちの絆だったことに気づかされるの。それがなくなった時、私たちも離れ離れになったのよ。他に選択肢はなかったの、トム。本当に残念に思ってるけど、愛だけでは十分ではないこともある。愛だけでいいじゃないかって私たちがどんなに望んでもね。
というか、私はこれを悲しい手紙にはしたくない。あなたのいいところもいっぱい書いてあげたい。あなたが前に進み、良い人生を歩んでいくことを願ってる。あなたにはその資格があるんだから。
よく聞いて、トム・マーレイ。あなたは素晴らしい人よ。優しくて、面白くて、温かい心を持ってるわ。ちょっとだらしなくて、がたが来てる感は否めないけど、それも全体としてみれば、可愛げがあっていいじゃない。それに、見た目もそれなりに悪くないし。
10年間、あなたは私をとても幸せにしてくれた。それが途絶えた時はすごく悲しかったけど、10年というのはとても長い時間よ! 10年といえば、ワールドカップが2回と半分。スーパームーンが6回。銀行の休業日が80回。つまり、あなたはすっごく長い間、私を幸せにしてくれた。日曜日がずっと続いてたみたいに楽しかったわ。(色々ググって調べたのわかっちゃった?笑)
私が言いたいのは、偶然に誰かを幸せにすることはないってこと。あなたが素晴らしい人だったから、そうなったのよ。途中で終わったからといって、その事実は何一つ変わらない。
ペンを置く前に、もう一言だけ言わせて。あの日、コッツウォルズに10周年記念旅行に行った時、もうダメだってわかった時、あなたは私に、「私があなたの生きる理由だ」って言った。それで私は怒って、動揺しちゃったけど、今から考えると、あの時、私はこう返すべきだった。「トム、あなたの生きる理由は『あなた自身』よ」って。
自分のために生きて。
いつでもそのことを忘れないで。
そして幸せになってね。満足するの。それから、また恋をして。こんなこと言いたくないけど、あなたはその気になれば結婚だってできる!(それは気が早いかしら?笑)
会いたい。
愛してる。
エズミーより😘
僕は深く息を吸い込むと、手紙を折り畳んでカバンに戻した。初めてこれを読んだ時、僕は1時間くらい泣きながら、ソファに横になって何度もこれを読み返した。彼女の言葉をほとんど空で覚えてしまうほどに何度も繰り返し。それ以来、僕はこの手紙を100回以上読み返している。読み返すたび失恋の痛みに打ちひしがれたが、それも徐々に薄れ、ふさわしい返事をあれこれ考えられるくらいにはなった。ただ、考えてはみても、いっこうに適切な言葉は浮かばず、途中で紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てることの連続だった。いつしかゴミ箱は、エズミーに宛てた手紙の書きかけでいっぱいになった。どれもうまく書けなかった。どのような言葉の組み合わせも、納得いかなかった。
今朝、早起きした僕はジョアン・ミロ公園を走り、Airbnbで借りた部屋に戻って、ようやく彼女に返事を書くことができたのだ。なんとか間に合った。
時計を見ると、午前0時までまだ数分残っていた。僕は封筒から手紙を取り出し、最後にもう一度目を通してから、それを赤いノートの〈午後11時~真夜中〉の欄に書き写した。
エズミーへ
手紙を送ってくれてありがとう。そして、返事が遅くなってごめんなさい。実を言うと、長い間、言葉が見つからなかったんだ。
それから、手紙という形式では正しい返事にはどうしたってならないことに気づいた。
だから、僕は別のことをします。
今日、―僕はここに座って自分の下手くそな字を読んでいるわけだけど、―今日は僕らが付き合い始めて11回目の記念日なんだ。ちょうど1年前、君がこの〈メモ用紙の束〉と、「1日でめぐる私たちの人生」というゲームをくれた。僕が見たことも、やったこともないゲームだった。
そして、僕はついにそれを完成したよ、エズ。
この封筒の中に24の出来事の詳細な記録が入ってる。僕の汚い字で読みにくいかもしれないけど、『1日でめぐる僕らの人生』だ。僕たちの11年間(ここ重要!!)が詰まってる。いいことも、悪いことも、楽しいことも、つらいことも全部詰め込んだ。エズミー・サイモンが考案して、トム・マーレイがついに完成させた共作だ。
僕はふさわしい24個の思い出を選んだつもりだけど、君はそうは思わないかもしれない。いずれにしても、これをやって、つまり君が考案したゲームをやっていて、気づかされたよ。僕らの結末だけを見れば、僕は君に謝らなければならない。でもそれと同時に、別のことを言わなければならないって。
ありがとう、エズミー。
すべての幸福な瞬間に感謝してる。君の優しさにありがとう。君のおかげで、僕は自分が好きになれたんだ。二人で共有した時間は、すべて特別だったって思うよ。陳腐に聞こえるかもしれないけど、(っていうか、たぶん陳腐だけど、笑)君は僕をより良い人間にしてくれた。僕たちの間に何が起ころうとも、これからも変わらず僕は君を愛してる。
君の手紙には、僕が前に進み、良い人生を歩んでいくことを願ってるって書いてあったね。僕はちゃんと前に進んでるよ。実は今年、僕は大学に入り直したんだ(前とは別の大学にね)。15年の時を戻して、学生に戻ったよ。ちゃんと資格を取って、音楽の先生になるつもり。もう、くだらない作曲の下請けはやらないし、ライブの巡業も卒業した。トム・マーレイは成長しつつあるんだ。(ようやくね。笑)
それはいいとして、僕が元気でやってることを知ってほしい。僕は満足してる。毎週カウンセラーにも会ってるし、必要だと思えば、人と話すようにしてる。自分がどういう人間かってことを受け入れつつあるよ。持ってないものを望んでも仕方ないしね。君に会わなければ、僕がこんな心境に達することはなかった。
君はこう言うかもしれないね、僕がたどったかもしれない道なんて100万もあるって。1日1日、というか、1分ごとに違う選択肢があるんだって。もっと君と話したかったし、もっと君と時間を共有したかった。もっといろいろ一緒にできたはずだね。でも僕は後悔しないよ、エズ。一つだけ、後悔というか、これからも心の奥底で思い続けるだろうなってことがあって。
僕らが出会った夜、というか明け方、アリのパーティの後で、僕らは夜道を並んで歩いて、君を玄関まで送った。あの時、すべてを話してしまうつもりだったんだ。すべてをね。ほとんど口から出かかったんだけど、話さなかった。あの時話していたら、僕らはどうなっただろうって考えてる。
それでも同じだったかもしれないし、違う翌日が訪れ、違う10年になったかもしれない。けど、あの日にしても、10年後にしても、ふられるのは僕の方で、ふるのは君。それだけは確かだよ、逆はない。
とにかく、あと言い残したことは、僕は君を愛してる。これからもずっと愛し続けるよ。君が幸福で、生き生きとしていて、素敵なままでいることを願ってる。エズミー・サイモンが存在することで、世界は良い場所になるんだ。
愛してる。
トムより😘
もうすぐ1時間が経とうとしていた。
僕は〈メモ用紙の束〉を封筒に入れた。そして赤いノートを閉じると、表紙に大きくこう書いた。1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成。それも一緒に中に入れ、封筒のフラップを閉じた。彼女は一字一句読んでくれるだろう。でもそれで、彼女はどう思うだろう? そのことについて彼女と語り合いたくてたまらない気持ちと、そんなこと知りたくもない気持ちが、自分の中でせめぎ合っていた。
セットしておいた手首の時計が震えたところで、僕はベンチから立ち上がり、封筒を広場の向かいにある郵便ポストまで持っていき、切手と、エズミーの新しい住所を最後にもう一度確認してから、ポストの中に押し込んだ。彼女はロンドンのダリッジという、ピムリコよりもさらに南へ下った場所に引っ越していた。
時計に目を落とすと、ちょうど日付が変わった。
新たな1日が始まったのだ。
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〔チャプター 24の感想〕
トムはこのゲーム(小説)を使って、エズミーと再び始めようとしてるんですね! なんてかっこいいんだ!!←かっこいいか? ださくね!爆笑
〔エピローグの感想〕
やっぱり川辺は春から夏にかけてがいいよね!
エピローグは一気に11年、時が戻って、出会ったばかりのトムとエズミーが、街路灯に照らされながら、真夜中の川辺で寄り添うシーンが描かれていて、キュンキュンした💙💖
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エピローグ
二人で歩いた帰り道
2007年6月 — ストックウェル、ロンドン
二人は夜が明ける前の街路を歩いていた。1日のうちで気温が最も下がる時間帯ではあるが、街には昼間の熱気の名残がそこはかとなく感じられた。灰色の車道も歩道も、街路灯のオレンジ色の光に照らされ、街全体がまだ息をしている印象を受ける。夜行バスからサウス・ランベス・ロードに、数人の女の子が転がり落ちるように降りてきた。ハイヒールを履き、露出感のある洋服を着ていて、かなり酔っ払っている様子だ。笑いながら、クラパム方面へよろめくように歩き出す。スポーツタイプの自転車に乗ったサイクリストが、北へ向かって猛スピードで通り過ぎた。キツネのつがいが、ストックウェル終戦記念碑の周りに忍び寄った。が、そこにはすでにデート中のキツネのカップルがいたようで、「邪魔すんなよ!」的なことを言われたのか、驚いたように逃げ出した。
「さっき会ったばかりであれだけど、トム・マーレイ、あなたのことを全部教えて」と、彼女が言った。
「全部って、ひと言では無理でしょ。まず何を知りたい?」
「何歳?」
「25」
「私は26。年齢はいい感じね。じゃあ、履歴書的にいうと、次は学歴かな。最終の学校、大学名とか、行ってなければ高校でもいいけど。あとは仕事と、それから、そうね、2000年以降で、どこかに休暇旅行に行ったとか、そういう話。それぞれ1ポイントずつね」
「ポイント?」と僕は、彼女の方をさっと振り向いて言った。
「そう、これはゲームなの。自分のことを何か言うごとに、1ポイント加算されていくゲーム」
「ゲーム? ポイントにはどんな意味があるの?」
「やっていくうちにわかってくるわ」
「ちょっと待ってよ」と僕は言った。「いきなりゲームとか言われても、ちょっと考える時間がないと。じゃあ、君が先に何か言って」
「いいわ。私が先攻ね」とエズミーは言いながら、歩道に落ちていた、誰かの食べかけのケバブをスキップするように飛び越えた。「じゃあ、まず高校。私はレスターの近くのナイトンってところにある、キング・リチャード・グラマー高校を卒業した」
「僕はベンジャミン・ブリテン高校。ローストフトにある」
「ローストフトって、イギリスで最も東にある町でしょ?」
「正解」
「二人とも1ポイントずつ加点ね。次は大学。私はオックスフォード。言語学を学んで、それからロンドン大学で、小児言語療法の修士号を取ったの」
「ふぁ、すげえ、そいつはすげえや。マジで言ってる?」
「ええそうよ。私はとんでもなく賢いのよ」と彼女は大袈裟に言って、肩で風を切るような仕草をした。
「オックスフォードの連中なんか、話したこともないな。あれだろ? 『今何読んでる?』『経済学なんちゃらを読んでるところだよ』みたいな。ふざけたことを抜かしてるやからだろ?」
「そうだけど、私はあの人たちとはあんまり関わってこなかったから。私もぞわぞわって鳥肌が立つから、避けてたの。避けられてたのかな? それはそれとして、あなたの言葉遣いについて、少し話し合った方がいいかもしれない。言葉のチョイスが古臭い。『やから』って、60代じゃないんだから、もっと若者らしい言葉を選ぶべきね。それに、もっとシャキッとした方がいいわ。驚きを表現するのに、『ふぁ』って何?」
「あ、それは『ファッキン、ヘル』って言おうとしんだけど、このシチュエーションでそれはまずいかなって、すんでのところで止めたから、腑抜けた感じになっちゃった...」
「このシチュエーションって、今はどんなシチュエーションなの? 私の知らない事態が進行中なのかしら?」
僕は少したじろいだ。「君は人を小馬鹿にするのが好きみたいだね」と言って、彼女の方を見る。街路灯の下を通り過ぎる時、エズミーの顔が一瞬照らされた。
「ええ好きよ。あなたが汚い言葉を避けたってことも知ってたし。このシチュエーションを考えて、でしょ?」と、彼女はクスクスと嘲笑するように言った。「それはともかく。次はあなたの番よ」
「ああ、ハートフォードシャーで音楽を学んだ。あまり楽しくなかったな。寮に入ったんだけど、エポキシ樹脂の大きな塊だったよ。ツタに覆われてるわけでもないし、情緒もない。半分はガラス張りで太陽を眩しく反射していて、あと半分は、1970年代に建てられたアスベストとビニール樹脂の味気ない壁」
「じゃあ、あなたはミュージシャンなんだ? それだと減点されるかもしれない。マットの後だから、私はもうミュージシャンはダメって決めたばかりなの。ツアーとか、その他もろもろを考えるとね」
「でも、僕はどちらかというと、あまり動き回らない感じのミュージシャンだよ」
「それってどんなミュージシャン? 私にはさっぱりわからないわ」
「ちょっと子供に教えたりしてる。あとは、カバーバンドを2つほど掛け持ちでやってる。でも、僕が本当にやりたいのは、映画とか、そういう映像作品のために作曲することなんだ」
「いいじゃない。動き回らないミュージシャンなら、まあ大丈夫ね。減点は0.5ポイントにしておく」
「それはどうも、ご親切に。っていうか、点数ってそういうあれ?」
「あなただって、こういうシチュエーションとか言い出したじゃない。とにかく、次は―」
「ちょっと待って」と僕は、エズミーが次の、いわば〈メンタルカード〉を切るのを制して言った。「1つ言っておきたいことがあるんだ」
しかしそう言っておきながら、なかなか言葉は出てこなかった。黙ったまましばらく歩くと、地下鉄のヴォクソール駅が近づいてきた。駅前はバスターミナルとか、横断歩道とか、自転車専用道路とかが入り組んでいる。これ以上このゲームを続けると、自分のことや最近再び起きてしまったあのことを話さなければならなくなる。それだけは避けたかった。そのためには、エズミーの人生のダイヤルを戻し、彼女を彼女たらしめているものに、スポットライトを当てることが先決だと思った。僕を僕たらしめている過去のあれこれに、光を当てるわけにはいかない。ふと足元を見ると、二人の足音にびっくりしたように、ネズミが舗道から排水溝に逃げ込んだ。僕のたくさんある恐怖症の一つは、ネズミなんだ。僕は思わず、彼女の手を握りしめた。
「ネズミが怖いんだ? 知れてよかった」と彼女が言った。「私にプラス1ポイント」
僕は苦笑いを浮かべながら、言った。「それより、君の大学時代のことをもっと知りたいな。クラブとか、サークルとか、そういうの全部」
「話すようなことはあまりないかな、ほんとに。面白い人たちとは何人か会ったよ。一人は時々テレビに出てる」
「誰?」
「ローラ・サトクリフ。彼女は『テレグラフ』紙のコラムで政治について書いてる。ガッチガチの保守党員だけど、いい子よ。あなたが政治とか明日の新聞に載りそうな話題の討論番組を見る人だったら、彼女を見たことがあるんじゃないかしら。金髪できれいな子。怒鳴りがちだけどね」
「ああ、彼女なら知ってるよ」と僕は言った。ローラ・サトクリフの顔がすぐに頭に浮かび、〈ニュースナイト〉を見ながら、画面の中の彼女に向かって思わず言ってしまった言葉まで蘇ってきた。「それで、他には?」
「あとはなんだろ。大学のワイン会に参加した。でも、あれって参加するのにお金がかかるから、続かなかったけど。読書会にも何回か参加したわ。それと演劇」
「〈フットライツ〉だ! あそこ出身の芸能人多いよね」と僕は感心して言った。
「それはケンブリッジ大学。マイナス1ポイント」
「やっちゃった。一番しちゃいけない間違いだった?」
「私にはそういう対抗心とかないから、全然いいけど。ちょっと言わせてもらうと、〈フットライツ〉は劇団というより、なんていうのかな、コメディアンになりたい男の子とか、くだらないパネルショーのゲストとしてテレビに出たいみたいな、タレント志望の子たちの集まりよ。私が参加してたのは、小さいけど劇団。演劇好きの素人が集まって、『セールスマンの死』とか、『真面目が肝心』とか、王道の演劇をやってたの。ある年、エディンバラまで遠征して公演をやったんだけど、そこで、最も恐ろしい言葉を学んだわ。『女の一人芝居を見に来て』って、まさかお客もいないなんて」
「コメディーかな? 君も喜劇役者だったの?」
「王道だって言ってるでしょ! それがなぜかコメディーになっちゃうのよね。観客を集めるのに四苦八苦してる5万といる役者志望の一人ね。端っこで一人倒れたって誰も気づかない。『森で木が一本倒れました。さて音はしたでしょうか?』に通じるところがあるわね」
「観客がいないところで芝居をしたら、それは本当に起こったことなのだろうか?」
「まさにそれ」と彼女が言った。「でも、大学時代の思い出といったら、それくらいなのよね、ほんとに。次は仕事の話をしましょ」
僕らはテムズ川に架かるヴォクソール橋にさしかかった。腕時計を見ると、午前3時45分になるところだった。散発的ではあったが、この時間になっても交通の往来は途絶えていない。夜行バス、黒塗りのタクシー、自転車が、僕らの横を通り過ぎていった。お酒の瓶や缶を手に持ったまま歩く若者たちは、それぞれ数人のグループを形成している。一人で歩くスーツ姿の男は、よろめき、つまずきそうになりながらも、手に持ったケバブを口に運ぶ。彼は飲み過ぎて朝帰りしたことを後悔しながら、この週末を過ごすことになりそうだ。
橋の真ん中まで来ると、エズミーが立ち止まり、東の方に顔を向けた。キュウリみたいな形の〈ガーキン・ビルディング〉が夜空を突き刺すように聳え立っている。いくつものクレーンが、ロンドンの古くなってきた口の部分に新しい歯を差し込むみたいに、この時間も稼働を止めることなく新たなビルを建設中だ。
「じゃあね、別の質問を思いついたわ。あなたは今ポイント的に劣勢なんだから、頑張って答えてね。この話ならきっとあなたも共感できるはず」と彼女は言った。「私がロンドンに引っ越してきた時、一時的な滞在になるはずだったの。1年とか。オックスフォードに戻るつもりだったから。あっちで仕事が見つかれば、もっと短くなるかなって思ってた」
「それでどうなったの?」
「あなたもこの街に丸め込まれちゃって、ずるずるとここで暮らしてるんでしょ? ここにはまともな仕事があって、給料もそれなりの金額をもらえるし、ルームシェアにも慣れちゃう。だんだんとこれが当たり前だと思うようになる。この間実家に帰ったら、レスターに〈プレタ・マンジェ〉がないことにイラッときちゃった。この便利さに慣れきってるのよね。ロンドンに来てもう4年」
「言いたいことはわかるよ。ルームシェア以外はね」
「一人暮らし?」
「そう、狭いワンルームだけどね。大したところじゃないけど、大家さんには恵まれたかな。毎年家賃を値上げするような人じゃなくてよかった」
「そっか、オッケー。1ポイントあげる」
「ありがとう。それで僕は今何点?」
「今、マイナスからちょうどゼロに戻ったところね」
僕らはしばらく黙ったまま、静かなテムズ川を見つめていた。こげ茶色の水面がビルの灯りを照らして、ゆるやかにまたたいている。それから、エズミーがゆっくりと僕の首元に顔をうずめた。肩から胸にかけてのくぼみに彼女の吐息を感じて、僕は上腕で彼女の後頭部を包んだ。
「そうは言っても、とてもきれいな景色を見せてくれるよね? この街って」
「時々ね」
「このゲーム、まだ続けたい?」
「べつに」と僕が言うと、エズミーが体を離した。唇を彼女の唇へ持っていきかけた瞬間、彼女が僕の手を取り、橋の向こう岸まで僕を導くように歩きだした。
橋を渡り切り〈ミルバンク〉に到着すると、彼女は僕の手を離した。僕はちょっとがっかりしつつも、あまり彼女の気持ちを読みすぎないようにしようと思った。
「もうすぐ私の家に着くわ」と彼女が言った。「こうなるとあれね、私たちは休日返上で、ボーナスラウンドに突入しないとだね」
「それはどんなラウンド?」
「それぞれ興味深い事実を1つずつ言うの。秘密を打ち明ける必要はないけど、わかりきったことはダメ。たとえば、『私の髪色は茶色で、靴のサイズは26.5』とか、そういうのは無しね」
「わかった」と僕は言ったが、少し不安になってきた。僕の最も興味深い事実といえば、お酒にまつわるあれこれで、最近ぶり返したばかりだから記憶もまだ生々しかった。そんなこと、出会ったばかりの彼女に言えるはずがない。
「じゃあ、君から」と僕はとっさに、彼女から質問を投げかけられる前に言った。
「いいわ。じゃあね、私がハンガリー人であるという事実はどう? 両親は二人ともブダペスト出身なのよ」
「それは興味深いね。ハンガリーなまりはないみたいだけど」
「まったくないわ。私はレスターで育って、10歳になるまでハンガリーを訪れたことはなかったし、子供時代を通して両親以外のハンガリー人に会ったことないの。イマジナリーフレンドでさえこっちの言葉を喋ってたわ」
「なるほど」
「育った環境はそんなだから、ぱっと見はわからないんだけど、根はハンガリー人なのよ。ママもパパも、ハンガリーの伝統とかあんまり気にしないけど。クリスマスと建国記念日くらいかな」
「それはいつ?」
「8月の中旬よ。毎年花火を2、3発打ち上げて、ハンガリーっぽい料理を食べるだけなんだけどね」とエズミーは言うと、こっちよ、と角を曲がった。僕らは〈デントン通り〉に入った。白い漆喰(しっくい)で塗り固められた瀟洒(しょうしゃ)な邸宅が並んでいる。門から玄関まで、白と黒のチェック模様のおしゃれな小道が続いている家もある。そんな中、立派な3階建ての邸宅にさしかかった時、彼女が、ここよ、と言った。最上階を除いて、すべての電気が消えていた。
「こんなすごいところに住んでるの?」と、僕はちょっと驚きながら言った。
「ええそうよ、見た目ほど中は豪華じゃないけどね。私の部屋は2階よ。この建物自体は昔はそこそこの大きさの邸宅だったみたいだけど、今は階ごとにかなり手狭な3つのアパートに分けられてる。それより、あなたはまだ興味深い事実を話してないじゃない」
「言うつもりはないよ」と僕は言った。「今度また会った時に話す」
エズミーが大げさにショックと怒りをあらわにした。
「マイナス100万ポイントね。まったくもう」
「だって賞品が何なのかさえわからないんだから」
「賞品の箱を開けてみたら、気に入るかもしれないでしょ? っていうか、今度また会った時って、もう次のデートをもくろんでるのね」
「そうじゃないけど―」
「興味深い事実と引き換えみたいな、そういうずるい誘い方じゃなかったら、イエスって言ったんだけどな」
「それは聞けてよかったけど。でもやっぱり」
門のところまで来て、エズミーが立ち止まった。屋根付き玄関の柱に「34」と書かれたシールが貼られているが、めくれて剥がれそうになっている。彼女は踏み段を一段上がると、振り返って僕を見た。僕は思わず視線をそらし、自分の靴を見た。自分の内側で何かが燃えているのを感じた。この女性が自分にとって、とてつもなく重要な存在になる。そんな予感がした。彼女に対して正直でありたい、という本能的な欲求もあった。隠し事なんてしないで真摯に始めれば、二人の関係はずっと続いていくはずだ。
「それじゃあ、トム・マーレイ、これでおしまいね」と彼女が言った。「私に電話番号を教えておいた方がいいんじゃない―」
「君に話しておきたいことがあるんだ」と僕は、彼女の発言を遮って言った。
「何?」
それを話す心の準備はできていた。アルコール依存症であること、そこから抜け出そうと頑張ってはいたんだけど、つい2ヶ月前も、自殺未遂の騒ぎを起こして病院に担ぎ込まれたこと。ちゃんと言わなくちゃ、と思った。顔を上げると、エズミーの笑顔が目に飛び込んできた。キスは後回しでいい。今こそ言わなきゃいけない、もっと重大なことがあるじゃないか。それさえ話してしまえば、あとは何年も、何ヶ月も、何日も、何時間も、僕らの前には広がっている。キスだって何だっていくらでもできるのだから。
「どうしたの?」と、エズミーが微笑みながら首をかしげた。
「やっぱ、いいや」と僕は言っていた。「今じゃなくても大丈夫」
「本当に?」
「うん、何でもないんだ。今度会った時に話すよ」
「じゃあ、私たちはまた会うんだね?」
「そうしよう」と僕は言った。「明日なんてどうかな?」
「明日って今日のこと?」
「あ、もう朝か。じゃあ今日の昼間」
「私が忙しかったら?」
「そしたら予定を変更しよう」と僕は言った。「それが予定の素晴らしいところだよ」
エズミーは怪しむように目を細めたが、まだ笑顔だった。
「いいわ。今回はあなたの勝ち。納得させられちゃった。それで昼間の計画は?」
「公園がいい。今と違って明るい世界で、二人とも目が覚めてる状態でさ」
「いいね」
「よしきた」と僕は言った。そしてキスを期待して、彼女を見つめた。
「じゃあ、今はキスはやめとくね」と彼女は言った。
エズミー・サイモンは僕の手を握りしめ、「おやすみ、トム」と言い残し、くるっと背を向けた。それから数歩進んで、黒い扉を開けて中に入っていった。一瞬見えた廊下には自転車が数台置かれ、壁には色々なピザ屋のメニューがべたべたと貼られていた。
これからカムデンまで長い道のりを一人で歩かなければならないというのに、自然と頬がゆるみ、笑みがこぼれ落ちた。今夜起こったこと、彼女が言った言葉の一つ一つを記憶しようと、しばらく彼女の家の前で突っ立っていた。2階の寝室の窓からエズミーが見ていることには、まったく気づいていなかった。
〔訳者あとがき〕
長かったー!笑
翻訳期間(2020年9月7日~2022年4月5日)1年7ヶ月という最長飛行になった。翼(心)が折れそうになったり、ぐらんぐらんと上昇や下降を繰り返した1年半だったけど、なんとか完飛行できて、ほっと一息。
やっぱり人間(というか藍だけかもしれないけど、)時期ごとに調子がめぐるんだよね! 太平洋を見渡せそうなくらい頭がクリアーで、どこまででも飛べそうなくらい活力がみなぎってる時期は、1週間で4分の1くらい訳せちゃうんだけど、(そのペースでいけば、1ヶ月で全部訳せちゃう計算なんだけど、)人間そんな単純ではなくて、曇天の下、半径50センチの世界しか見えない感じで、ずぶ濡れの小動物みたいに震えて縮こまってるだけの時期もあるから...
大学入試とかも、調子のいい時期にぶつかるかっていう運もあるよね。
〈トムの人生〉
小学生時代 アナベル(当時は男子で今は女性)と出会う。
中学生時代 ニールと出会う。
高校時代 地理教師の娘と乳繰り合う。
大学時代 1年くらい寮生活を経験。酒を飲んでるつもりが酒に飲まれ、自殺未遂。
ローストフトの実家で2年くらい過ごす。
22歳 ロンドンで一人暮らしを始める。
24歳 また酒にやられる。
25歳 エズミーと出会う。
35歳 エズミーと別れる。
36歳 別の大学に入り直し、音楽の教師を目指す。
36歳『1日でめぐる僕らの人生』をエズミーに送る。
〈エズミーの人生〉
レスター近辺で高校まで過ごす。
オックスフォード大学で言語学を専攻。
ロンドン大学で小児言語療法の修士号を取得。
25歳 ドラマーと付き合うが、ライブの遠征でほとんど帰ってこないから寂しい。
26歳 トムと出会う。
36歳 トムと別れる。
37歳『1日でめぐる僕らの人生』がトムから送られてくる。
〈藍の人生〉
37歳 ニートになる。
38歳 アルバイトをしながら、翻訳を始める。
47歳『1日でめぐる僕らの人生』を訳し終える。
同じ作家の『帰る道すがら』(タイトルを『帰り道にて』に変えようかな?)を2022年9月7日までに訳し終えれば、2作合計で2年になるから、ちょうどいい!!←知らねーよ!笑
藍の好きな作家、サリンジャーの短編に『For Esme』という小説があって、エズミー(Esme)の名前をそこから取ったのか、それはどちらでもいいのですが、笑
最後に相手の幸せを祈る感じの手紙の応酬とかは、『ティファニーで朝食を』っぽくて、藍らしいというか、自分で言うのも何ですが、翻訳する作品の「引き」だけはいいな~と、しみじみ思います。笑(女性の「引き」は知りませんが...泣)
『1日でめぐる僕らの人生』(24時間順)
プロローグ 10周年記念前夜のゲーム(2017年6月20日)
午前
0時 ハッピー・ニューイヤー!なんて気分じゃない!(チャプター 13 2015年1月)
1時 一人で物思いにふける(チャプター 14 2015年2月)
2時 僕らが出会った夜(チャプター 1 2007年6月21日)
3時 キャンプ旅行(チャプター 8 2012年8月)
4時 あのホテルの部屋(チャプター 19 2017年2月)
5時 僕らが出会う2ヶ月前、ベッドの中で(チャプター 10 2007年4月)
6時 古いアルバムをめくると、昔の君がいた(チャプター 11 2013年12月)
7時 僕らのファーストデート、それとも二度目?(チャプター 2 2007年6月)
8時 二人で一つの家庭を築くということ(チャプター 4 2009年4月)
9時 死にゆく男の願い(チャプター 15 2015年11月)
10時 病院内の一番哀しい場所(チャプター 17 2017年1月)
11時 僕らの10周年記念日(チャプター 22 2017年6月21日)
午後
0時 話すべき時ではない(チャプター 21 2017年4月)
1時 サプライズ・パーティー(チャプター 9 2011年5月)
2時 君のことをもっと知っていく(チャプター 7 2010年3月)
3時 やっと1マイル(1年)、まだまだ先は長そうだ(チャプター 6 2008年6月)
4時 自制が利かなくなった日(チャプター 20 2017年2月)
5時 引っ越しの日(チャプター 23 2017年8月)
6時 二人で過ごす初めてのクリスマスは秘訣に満ちて(チャプター 5 2007年12月)
7時 君に聞くべきじゃなかったこと(チャプター 16 2016年9月)
8時 僕らの10周年記念日の前夜(チャプター 18 2017年6月20日)
9時 最高の自分自身を(チャプター 3 2007年10月)
10時 君の気持ちを変えられなかった夜(チャプター 12 2014年7月)
11時 1日でめぐる僕らの人生 — ついに完成(チャプター 24 2018年6月)
エピローグ(チャプター 1 の続き 2007年6月21日午前3時)
『1日でめぐる藍の人生』
午前
0時
1時
2時
3時
4時
5時
6時
7時
8時 高校生の時、川辺でふられた。←スピッツの『ロビンソン』を聴きながら待ち伏せしたの?笑←B'zの『Break through』だったかな。←壁を突き破ろうとしたんだ! そしたら逆に...爆笑
9時 大学生の時、駅の改札付近でふられた。←堂々と大学で言えよ!笑
10時
11時
午後
0時
1時
2時 パレードを見ながらレナちゃんとキスをした😘 in ディズニーシー←見ながらはキスできないだろ!笑笑
3時 レナちゃんと漫才を見た。in ルミネ座ヨシモト
4時
5時
6時
7時
8時
9時
10時
11時
24個って多いな! こんなの埋まるわけねーだろ!!笑←しょぼい人生だね(号泣)
小説の試金石を書いておくと、
①読み手をつかんで離さないプロット(筋)かどうか。
②読んでいて気持ちいい文章(文体)かどうか。
③読者の想像力をかき立て、幻(まぼろし)を視せる力(幻視力)があるかどうか。
④社会や世界に訴えかけるテーマ(『1日でめぐる僕らの人生』では結婚という制度云々)があるかどうか。
⑤人間のうちに潜む悪を描けているか(しかも単に露悪的に描くのではなく、その奥にある善っぽい微かな光まで漂わせているか)。
⑥同じジャンルの過去作を踏まえているかどうか。(芥川賞とかはこれが結構重要で、村上春樹なんかは、アメリカ文学を踏まえちゃった(笑)から、芥川賞を取れなかったんです。)
他にも神話性とか、普遍性のあるなしとかあるんですが、
藍的には「キュンキュンするかどうか」だけが試金石なんです!笑
で、『1日でめぐる僕らの人生』はキュンキュンしました💙💖